▼133▲ 新婚カップル(仮)の破壊力
一千万円の入ったアタッシュケースを片手にぶら下げたエイジン先生が小屋に戻ったが、そこにいつものおかしな仮装をして出迎えるイングリッドの姿はない。
それでもエイジンは、
「ただいま」
と、声を掛け、そのまま寝室へ向かい、
「ま、当然と言えば当然か」
と呟きつつ、アタッシュケースを床に置き、作業着から普段着用の作務衣に着替え始めた。
「奥さんに逃げられた直後の中年男ってのは、こんな気持ちかな」
寝室を出て、自分以外誰もいないがらんとした広い居間を見渡すエイジン。
この世界に来てからずっと一緒だったイングリッドがいなくなっただけで、こんなにも違って見える。
いつもの活気はどこへやら、どこまでも静寂のみが支配する空間に。
エイジンは一人ソファーに座って背をもたせかけ、しばらくそのままの状態で物思いに耽っていた。
やがて、大きな息を吐いて、身を起こし、
「よっしゃあ、俺は自由だ!」
奥さんに逃げられた直後の中年男の気持ちを、声高らかに代弁する。
もしこれがドッキリだったら、別の場所に隠れて一部始終を見ていた奥さんに首の一つも絞められていたことだろう。
「さーて、今晩は何作ろうかな。冷蔵庫に色々食材があったはずだ。あ痛っ」
エイジンは左頬を手で押さえ、
「ビンタ食らった時、口ん中派手に切ったな。こりゃ、あんまり傷に沁みないマイルドな料理にしないと」
キッチンに移動し、冷蔵庫に手を掛けたちょうどその時、めったに鳴る事のない呼び出しチャイムの音がピンポーンと小屋の中に響き渡る。
「はーい」
エイジンが玄関に出てドアを開けると、そこには大きな紙袋を抱えたアランとアンヌが立っており、
「お休みの所すみません、エイジン先生。イングリッドはもうこちらに来ないとの事なので、私達が今日の夕食を作らせて頂きます」
少し申し訳なさそうにアランが言った。
「そりゃそうだよな、あんな事があった後で平然とイングリッドに来られたら、お互い気まずくてかなわん。で、その紙袋は食材か?」
「はい、エイジン先生、夕食はまだですよね?」
アンヌが尋ねる。
「まだだが、そんな気を遣わなくていいぜ。むしろ気を遣うな。共犯を怪しまれる。ま、せっかくだから気持ちだけもらっとくよ。食材だけ置いて帰ってくれ」
「大丈夫です。『明日、エイジン先生を元の世界に帰すに当たって、色々と打ち合わせる必要があるから』と、イングリッドにも言ってありますから。じゃ、キッチンお借りしますね」
アランはそう言って小屋の中に入り、紙袋の中からシンプルなデザインの青いエプロンを取り出して身に着け、アンヌもそれとお揃いの赤いエプロンを身に着けると、
「何かそうしてると、新婚ホヤホヤのカップルに見えるな」
エイジンに感想を言われ、二人は同時に顔を赤くした。でも何か幸せそう。
「豆腐を切って、ネギを刻んでおくわね」
「じゃあ、こっちは生姜とニンニクをすりおろして、調味料も小分けにしておくよ。中華鍋の用意もしておくから」
仲睦まじくイチャイチャしながら一緒にキッチンに立って料理をしている若いカップルの後姿は、下手をすると毎朝のエロ話よりも破壊力があり、
「はいはい、ごちそうさま」
食べる前にそう言ってエイジンは居間に戻り、ソファーに横になって、ふて寝を決め込む事にした。
「エイジン先生、起きてください。夕食の支度が出来ました」
しばらくして呼びに来たアランに起こされ、エイジンが寝ぼけ眼をこすりながらキッチンに来てみると、アンヌが笑顔で、
「お疲れ様でした、エイジン先生。疲れた時には辛いものがいいと思いまして、今日の夕食は超激辛麻婆豆腐です」
と説明する。
なるほど、テーブルの上には毒々しいまでに赤い麻婆豆腐が、大きな皿にたっぷりと盛られていた。
「お前ら、本当は俺の事嫌いだろ」
「え?」
「え?」
キョトンとしている二人へ、苦笑しつつ、エイジンがグレタにビンタされた時に口の中を切った事を教えると、
「そういう事とは露知らず、どうもすみませんでした」
「すぐ、あり合わせの食材で何か他の料理を作りますから」
平謝りに謝るアランとアンヌに対して、
「いや、このまま食うよ。リアクション芸人っぽくな」
と言って、口の中の刺激に涙目で耐えながら、この超激辛麻婆豆腐を見事平らげたのだった。
その姿はさながら、アツアツのオデンを口に放り込まれたリアクション芸人の様であったと言う。