▼130▲ 舞う札束と吠える犬
殺戮マシーンモードに移行したイングリッドが、凶悪犯罪者を逮捕した警官よろしく床にひしゃげているエイジンの右手首を掴んでそのまま背中に回し、体をうつ伏せに押さえ付ける。
「安心してください、そう簡単に骨は折りません。ただし、折れるギリギリの所で地獄の苦しみを延々と――」
淡々と恐ろしい事を口にしつつ、殺戮マシーンが力を込めようとしたその瞬間、
「やめなさい!」
突然グレタが叫んだ。
「ですが、この男はお嬢様を」
「私は『やめなさい』と言ったのよ! イングリッド!」
イングリッドはグレタの命令に従い、エイジンの右手首を解放する。
「あなたの言う通り、騙される方が悪いのよ、イングリッド」
無理矢理平静を装おうとして装えず、微かに震えの残る声でグレタが言う。
「いえ、一番悪いのはこの男で」
「すぐに、エイジンの報酬を全額ここに持って来させなさい、大至急!」
抗弁するイングリッドを遮る様にグレタが命じると、イングリッドはすぐに携帯を取り出し、部下のメイドに稽古場へ一千万円を持ってくる様に指示した。
誰も口を利かず、非常に気まずい時間が五分程経過した時、某社の配達員よろしく駆け足でメイドが稽古場に飛び込んで来て、
「エイジン先生の、報酬全額を、お持ちしました!」
息を切らしながら、イングリッドにアタッシュケースを手渡すと、
「御苦労様です。そして、すぐにこの場から去りなさい」
受け取ったイングリッドは、あっさりとそのメイドを追い返す。
「それを開けたまま持っていなさい、イングリッド」
グレタに言われるままにイングリッドがアタッシュケースを開くと、中には帯封がしてある百万円の札束が十束、しめて一千万円が入っていた。
身を起して床にあぐらをかいていたエイジン先生は、それを見て、ヒューと口笛を吹き、
「流石、誇り高きガル家の令嬢だねえ。どんな結末になろうとも、約束した報酬はきっちり支払ってくださるって訳だ。いやー、ありがてえ!」
露骨に嬉しそうな顔をして見せた。
「ええ、払うわ。約束は約束だもの」
グレタは努めて平静を装いながらそう言うと、札束を一つアタッシュケースから取り出し、帯封を破り捨て、
「報酬よ! 受け取りなさい!」
と叫びながら、エイジンの顔めがけてその札束を投げつけた。
札束は途中でバラけながらエイジンの顔に当たり、さらにバラけてエイジンの体をバサバサと滑り落ちる。
グレタはさらに残りの札束も帯封を取ってから、エイジンに投げつけ、
「お金が欲しかったんでしょ! あげるわよ!」
「これを持って、すぐにこの世界から消えなさい!」
「人でなし! 恥を知れ!」
「二度と戻って来るな! この詐欺師!」
十束全部投げ終えた頃には、ほとんど泣き声になっていた。
そんな悲愴なグレタを前にして、エイジンは自分の周りに散乱する一万円札を手ですくって宙にバラまき、
「ヒャッハー! 金だ!」
と、場の空気を読まずに大喜び。
グレタはそんな世紀末モヒカンの様な真似をしているエイジンをキッと睨みつけ、
「最低ね! 犬の様に這いつくばって、床に散らばった紙幣を一枚一枚拾い集めるがいいわ!」
「ウー、ワンッ、ワンッ!」
負けじと、犬の鳴き真似をするエイジン。
グレタはそれを聞いて、ギリッ、と奥歯を噛み、ものすごい形相でエイジンを見据えたが、すぐに激しい怒りが深い悲しみに取って代わったのか、情けない泣き顔を見せまいとしてクルッと背を向け、しゃくり上げながら出口へ向かって歩き出す。
イングリッドは空になったアタッシュケースをエイジンの目の前の床に叩き付け、憎悪の一瞥をくれた後、すぐにグレタの後を追った。
その二人の後姿に向かって、札にまみれたエイジンはおどけた口調で、
「『古武術マスター』改め『古武術詐欺師』のエイジン先生が、最後にグレタお嬢様に一つ忠告してやるよ! あんたみたいな自分の感情を抑えられないバカ女は、この先何度も騙されるぜ。ま、せいぜい普段からセルフコントロールを心掛ける事だ。無理な話だろうけどな!」
容赦ない追い打ちの罵倒を浴びせたが、二人はそれを無視して稽古場を後にする。
二人が出て行ってからしばらく後、アランがエイジンの前で、
「申し訳ありませんでした、エイジン先生! 私のミスをかばってこんな事に!」
と、土下座しようとするのを、
「やめろ。またあの二人が戻って来て、そんな姿を見られたら、全ての苦労が水の泡だ。いいか、あくまでもお前は俺に騙された被害者なんだ。その設定を忘れるなよ」
エイジンは笑って制した。