▼126▲ 茶番と朗報
黒いジャージ姿のグレタと、作業服姿のエイジンが、共に真剣な顔をして、稽古場の中央で向かい合い、二メートル程離れて立つ。
絵面だけ見ると、ジョギングの途中でうっかり工事現場に入ってしまった人相の悪いヤンキー女と、それを注意するさえない作業員が、
「るせーんだよ、オッサン」
「ここは危ないから、ケガする前に早く出て行ってくれ」
とやりあっている感じである。
少なくともこれを見て、「一ヶ月に亘った古武術の修行の成果を確認している所」、と一発で正解出来る人は少ないだろうと思われる。クイズ王でも無理。
「では、一昨日やった様に俺の腹を掌で打ってみろ。決して打ち抜かず、内部だけに衝撃波を伝えるイメージを忘れるな」
エイジン先生が大真面目に言って、腹に力を入れると、
「分かったわ」
グレタも大真面目に答え、指を下にした右の掌を、腰の辺りに引いて構えを取った。
稽古場がシンと静まり返り、少し離れた所で、アラン、アンヌ、イングリッドもこの二人の様子を固唾を呑んで見守る中、不意にグレタは少し上体を右に捻り、
「ハッ!」
気合の声と共に右足を大きく勢いよく前に出しながら、上体を左に捻りつつ、右の掌をエイジン目がけて繰り出し、右足が床にダンッと力強く着地すると同時に、その掌をエイジンの腹にぶち当てる。
その状態のまま、一拍置いて、
「どう?」
真剣な眼差しでグレタが問う。
エイジンは、目を閉じてゆっくり首を横に振り、
「駄目だ。残念だが奥義の会得には至らなかった」
と、重々しい口調で告げた。
「くっ」
無念の呻きと共に、その場にがっくりと両手両膝を突き、四つん這いになるグレタ。
「この一ヶ月間、ひたすら修行に明け暮れたのに」と言葉にはしなくとも、その四つん這いの姿が雄弁に語っている。
が、ぶっちゃけ、この一ヶ月の修行自体が全部丸ごと詐欺であり、一ヶ月どころか一年経っても奥義など会得出来るはずがない事を知っているアランとアンヌは、そんなグレタを見て、内心後ろめたさで一杯になっていた。
一方、エイジンは四つん這いで落ち込むグレタの元にしゃがみ込み、
「だが、この一ヶ月が全く無駄になった訳じゃない。もう少しで奥義は会得出来るだろう」
いけしゃあしゃあと嘘をつく。
「ともかく、明日の襲撃は諦めろ。いいな?」
「このまま行くわ。古武術の奥義なしで勝ってみせる!」
グレタは顔を上げて、エイジンに挑戦的な目を向け、説得を遮った。
「バカを言うな。やめるんだ」
エイジンはまたグレタの手を取って説得しようとするが、グレタは床に突いた両手を頑なに上げようとしない。その姿はまるで「お手」をさせようとする飼い主と、それを拒否する犬の様。
「私はガル家のグレタよ! 負けたまま引き下がる訳にはいかないわ!」
挙句、飼い主に吠えかかる始末。修行場での機嫌の良さは何だったのか。
「グレタお嬢様に無理強いはおやめください、エイジン先生」
そこへイングリッドまで乱入して話がややこしくなりそうになったその時、この状況に似つかわしくないやたら爽やかなメロディーが響き渡る。
音の鳴っている方向に、グレタ、エイジン、イングリッドの三人が一斉に目を向けると、
「す、すみません。私の携帯の着信音です。マナーモードにしておくのを忘れてました」
アランが詫びながら携帯に出て、何やら通話をしながら稽古場の隅に引っ込んだ。
「とにかく私は復讐をあきら、ちょっと、どこ行くのよ、エイジン!」
吠えるのをやめないグレタを無視して、エイジン先生は通話中のアランの元に向かう。
「では、引き続き何かあったら報告してください」
そう言ってアランが通話を終えると、エイジンは、
「スパイからの報告か? 結婚式が中止になったのか?」
と、小声で尋ねた。
「いえ、結婚式は予定通り行われます。ただ――」
アランが同じく小声で通話の内容を報告し終えると、エイジンは嬉しそうに顔を輝かせ、
「よし、俺達の勝ちだ!」
アランの肩を、ぽん、と叩いて勝利宣言をした。