悪癖-Those who were hungry for love-
メイドの花が成瀬家の屋敷に来たのは、数ヶ月前のことだ。およそ、その花という名前は私の知る彼女の名前とは全く違うものであったから、私は驚いた。なぜ以前使っていた名前を知っているのかというと、彼女は私の│元同級生であったためだ。同級生とは言っても学科が違っていたから、面識はなかったけれど、数ヶ月前にとある事件が起こり私は彼女と対峙することとなったのだ。
事件と言うのは、まあ私の周辺では最近日常茶飯事になりつつあることでもあるのだけれど、単純明快に説明するなら、このメイドの花が、同級生で川島灯里と言う名前だった彼女が何らかの恨みを持って私を殺そうとしたのだ。これだけ聞くととっても物騒ね、ふふ。
私は、成瀬遥鳴。富豪成瀬家の令嬢というやつだ。そのような身の上であるから反感を買いやすいし攻撃されやすい。まして、嘘つきである上に見た目が貧弱そうなので尚更に襲われやすい。幼い頃から事あるごとに攻撃されてきたから、│他人よりは若干、殺意や攻撃性に対して感受性が高い。いいや、ちょっと軽薄に表現しすぎた。正確に言うのならば、高すぎるくらいだ。そう言われてもピンと来ないだろうから、高すぎる感受性というものを事細やかに説明しよう。
私に向けられた殺意が向けられたとする。するとそれは私の五感を伝って脳へたどり着き、その刺激はどういう訳か古傷の痛みとして左脇腹に出現するのだけど、それが激しくフィードバックするのだ。そのせいで、気絶するくらい。
けれど、殺意は避けられるものじゃない。それは突然にやってくるものだ。私はその度に学校を早退してきたので、授業のスピードに追いつくのに毎日結構必死だったりする。まあ、勉強でどうしてもわからない部分は、特殊な癖がある以外は優秀すぎる現役大学生の執事に教えてもらうのだけれど。
簡単に執事の紹介をしよう。彼の名は常磐。私が幼い時に拾ったので正確ではないけれど、歳は大体24くらいだと推測できる。見た目良し、頭良し、仕事が出来て気配り上手、加えて料理上手なイマドキ男子。だけど、一つだけ欠点があって、たまにとても危険な目でナイフを握りしめて自分の肉体に傷をつけてしまう。彼の言うことには、時々どうしようもなく手が血を求めて乾くのだろそうだ。どうやらそれは、幼い頃に恐怖から私の脇腹にナイフを刺してしまったことに関係しているらしい。
さて、私は今自室にて優雅なティータイム。驚くべきことにティータイムが毎日の習慣としてある家庭はないのだとか。これは常磐に聞いたので確かな情報だ。窓の外は良い天気だ。今日はメイドの花が話し相手。
「遥鳴お嬢様、お紅茶でございます」
「ありがとう、花。ふふ、その手にはもう乗らないわよ」
おそらく毒物入りであろうそれを、受け取らずに別のカップへ新しく紅茶を注ぐ。彼女は何かと私に剥き出しの殺意を向けてくるけれど、本心ではないのだろう、傷は痛まない。常磐が手塩にかけて育てているだけあり、花の所作や作法は完璧である。見目がいいことにも加え、いつも試行錯誤して私を殺しにかかってくるので面白いから、今やお気に入りのメイドとなっていた。
花が屋敷に来た頃はとにかく大変だった。彼女はとある事情があって(常磐は大人の事情と言っていた)、あの事件の後処分を免れたのだけれど、どうしてだかそのまま高校を退学して私の屋敷にメイドとしてやってきたのだ。
はじめは隙あらば命を狙い、常磐に伸される彼女に私の精神は疲れ気味だった。けれど、彼女はめげなかった。どんなに常磐に伸されても彼女は私に殺意を向けるのをやめなかった。それは、寧ろ彼女の意地のように思えた。そんな日々が続き、私の方は一周回ってどう殺しにかかってくるのかを楽しむ余裕さえ出てきた。もっとも、殺されそうになったらすぐにわかるのだけれど、彼女の場合は殺意ではなく意地のようだ。
「ちっ。……ごほん、失礼いたしました。お嬢様におかれましては、日頃から命を狙われる機会の多いご多忙な身でありますから、慣れっこですわね。毒殺というのは安易な考えでございました」
今の舌打ち、聞こえてないとでも思っているのかしら。心の広い私も流石にこれは無礼に感じる。ここは彼女の恐れている常磐の名前を出してしまおうか。けれど、ティータイムに彼女がいると面白いのは確かだ。まだ常磐を呼んでせっかくの時間を台無しにしてしまう必要もない。ここは名前だけ出して脅しをかけるとしようか。
「聞こえてますわよ。上手な舌打ちの仕方を常磐に教わっておくといいわね」
「ひぃっ……常磐、さまに!?」
花は、常磐の名を聞くと青ざめガタガタと震えてしまう。この怯えよう、常磐ったら私と同じ年の少女にそれほど強烈な調教をしているのだろう。令嬢を殺そうとすることを厭わない彼女がこんなに怯えるなんて。同じ使用人という立場でありながらも、様付けだしね。そんなやり取りをしているとちょうどよく――いささかちょうど良すぎるくらいのタイミングで――常磐本人が登場した。
「私がどうかしましたか、お嬢様。花が何か粗相でも?」
「……! ……!」
花が何か、人間でないものを見るような顔で常磐を見つめている。本当に、常磐は彼女に何をしているんだろう。何となく、花がかわいそうに思えここは庇ってやらないと自分の良心が痛みそうな気がした。
「いいえ、ちょっとしたガールズトークよ。それよりも、今日は休日なのかしら、常磐」
「ええ、今日はお嬢様のそばにいますよ」
この男は、天然なのか計算なのかこんな歯が浮きそうなセリフを吐くから気に食わない。私の気持ちをわかっていて言っているのだろうか? 考え出すとむしゃくしゃするので、あえて素っ気ない態度をとってやる。その点花は良い。彼女の考えはいつも一つの結論で満たされている。私を殺す! これに尽きるのでわかりやすい。とにかく、話題を変えるためにも午後の予定を聞かなくては。
「そう。なら、付き合って。花も、お願いよ。私、街に出たいの」
「嫌です」
「構いません」
常磐と花の正反対の返事が綺麗に重なった。常磐はこの世のものとは思えない冷徹な目で一瞥して花を従わせると、リムジンの用意をしてきます、と言い部屋を出た。その隙に、彼に電話をする。
『もしもし? 成瀬さんですか?』
高校教師である彼の、爽やかすぎる、態とらしすぎる声が聞こえる。電話の相手は花の、元担任であり現役の教師であり現保護者である男だ。電話越しの声に、花が少し反応したように見えるのは気のせいではない。
「ごきげんよう、的場先生。今日はお時間あるかしら? これから花と出かけようと思うのだけれど」
『ああ、いいですね。しかし、僕一人ですか?』
「常磐もいるわ」
『それなら不自然じゃないですね。仕事柄、未成年の女の子とプライベートで一緒にいるのは少し不味いので』
そんな会話が一分弱。花がぼそりと呟く。
「先生を使うとか、卑怯」
常磐がリムジンを用意し、花がメイド服から私服に着替え、私は鞄を持って玄関へ。ジーパンにティーシャツというラフなに白い手袋をしている常磐が、人一人が通るには少々大きすぎる玄関の扉を開けた。いつも思うけれど、この光景は結構シュールだ。
「いつ見てもそのスタイルは笑えるわね」
「流石に街にまで燕尾服は着ていけませんよ」
「手袋はしているのに?」
「使用人の私がお嬢様に素手で触れるわけには参りませんので。と言うのは建前で、手首が隠れてちょうどいいのです」
そういう理由があったとは。常磐のリストカット癖が常習化しすぎてリスカ痕に違和感を感じなくなっているな。気をつけなくては。それにしても、私服の常磐が敬語を使っていると違和感がありすぎる。
「ふうん。それはそうと、常磐。今からはプライベートなのだから、敬語なんて無粋な事をしたら、私許さないわ」
「わかったよ。全く、少しは俺の立場も考えてよ。まだ屋敷を出ていないのだから、執事長の目があるんだ」
いつものようなやり取りをする私たちを横目に、花がリムジンへ私の荷物を積む。気の利く子なのだ。本当に、普通にしていたら優秀なメイドなんだけどなあ。
「花、荷物なんか運ばせちゃって済まないわね」
「わかっていらっしゃるなら、早急に仕度なさいませ。常磐さんも」
「あなたも私服で敬語を使うわのね」
そういうの、嫌いなのに。立場は違えど、それなりの関係を築いているつもりよ。そんなこと、逆の立場からすると考えもしないのだろうけれど、令嬢たる私にとって使用人は家族同然なのだから。花は何を言われたのか理解できないという表情だ。
「え? あ、当たり前でございます。そんなことよりも、仕度を……」
「ありえないわ!」
これは一から教育しなくては。だって、花は屋敷でも一番年の近いメイドだもの。いくら憎まれているとは言え、これは譲れないわ。学校の中なら、私立だし同じ境遇の人もいるからまだ良い。けれど、外でお嬢様扱いされることの寂しさを、彼女はわかっていないのだ。
「いいこと? 外でお嬢さま扱いをされるのは、とても寂しさを伴うのよ……」
あまりに熱心だったせいか、話が終わるころにはリムジンは目的地にたどり着いていた。私の通う私立マリアンヌ学園の教師である的場が合流したのは、目的地に到着して5分後のことであった。ポロシャツにシーパンというこれまたラフな格好だ。とは言ってもこの教師は普段からラフな格好で仕事をしているので違和感はないけれど。
「すみません、少し遅れてしまいました。おや、君の私服姿を見るのは初めてですね。似合っていますよ」
「珍しいものでもないわ」
在学中、花は先生と面識はなかったのだという。しかし、先生の協力なしには花はここにはいられなかっただろうからきっと感謝しているのだろう。花は先生に私服を褒められてまんざらでもなさそうにしている。私は詳しいことは知らないけれど、事件の後、花は先生の養子となり改名し身分を偽って成瀬家に来た。これは彼女の更生のためらしく発案者は先生らしい。ようするに、今の花にとっては彼が保護者なのだ。今日は彼女と先生を合わせることが目的だ。これは、私だけの秘密の計画だ。だって、両親の元を離れて名前まで変えて、ちょっと前まで憎んでいた女の使用人になるなんて私だったらやりきれないもの。
「お嬢……じゃなくて、遥鳴。今日はどこにいくの」
「そうねー、花に武器を買ってあげたくて。私の周りにいるといつか被害を被りそうだから」
常磐はともかく、戦闘訓練の未熟な花は武器がないと太刀打ちできないだろう。的場先生はいつもそばにいるわけではないし……って的場先生も常磐みたいに強いわけじゃないかもしれないけど。彼については、未知数だ。時々発する冷たい空気が常磐のそれと似ているので、いざという時は強いのではないかと思う。常磐は何かを考えているようだ。眉間にしわが寄っているときは納得していない時だ。
「なるほど……しかし俺は反対です。その武器でお嬢様に刃を向けるかもしれませんよ」
常磐からして見れば、普段から主人に殺気剥き出しの(むしろ私はじゃれあいのように思っているけれど)彼女に武器を持たせるのは不安なのだろう。無理もないかな。
「だけど私、倒れないでしょう? いざとなったらあの子は私を殺すことなんかできないわ。常磐のこと怖がっているしね」
「それはそうかもしれません。調教がうまくいっているようですね」
常磐がこの妙に黒い笑みを見せるようになったのは、最近のことだ。彼の意外な一面が見れて嬉しい。常磐は、幼いころは違ったけれど私の前では良い執事であろうと猫をかぶるから。だからこうしてたまに私服で買い物に出かけたりするのだけれど。
「ところで、また敬語なんだけれど。止めてもらえる?」
「ああつい。済まない」
むくれてやるんだから。そりゃあ、彼を拾ったのは私だし感謝したり忠義を尽くすのはわかる。常磐からしてみれば命の恩人に仕えているわけだから、当たり前なのだ。けれど、私は彼を主従の関係だけでは見たくない。幼い頃から兄妹のように育ってきたのだ。大事な家族、いやそれ以上の存在だし……ああ、正直に言おう。私は彼を慕っているのだ。
まあ良い。今日はそれが目的ではない。花にナイフを買ってやろうと思っているのだ。初心者でも扱いやすく、彼女が気に入るものを。だから、先生も呼んだ。彼には、常磐のナイフを選ぶときにも助けてもらったので信頼は厚い。
「花にナイフを買い与えたいのだけど」
「なるほど。そろそろ必要でしょう」
いつもの店で、先生にアドバイスをもらうことにする。常磐はここの常連だけれど食い入るようにナイフに夢中になってしまうからこういうときは役に立たない。何かブツブツと言っているようだがそのあまりに惚光とした表情に関わらないほうがいいと本能が告げるレベルでヤバイ。以前にちらっと独り言が聞こえたときに、これで肉を……と言っていたのでそれ以上は聞かないことにした。
「はあ? 意味がわからない。私、あんたを殺そうとしているのよ」
花は、ぎょっとした顔だ。彼女は表情がころころと変わって可愛い。私とは真逆のタイプだ。
「ええそうね。だけど、私はその前にあなたが怪我をしたりするのが嫌なのよ」
そろそろ、私の体質について説明をしなくてはならないだろうか。彼女は、納得してくれるかな。彼女自身が、私のこの体質の被害者とも言えるのでもしかしたら今まで以上に嫌われてしまうのかもしれない。
「花。今なんとおっしゃいました? お嬢様を殺す……と聞こえたのですが……」
「ひっ。常盤様! そ、空耳では? わたくしそのようなことは言っておりませんわ」
だがそれも心配無用だったようだ。私を殺す、と言う言葉にすかさず反応した常磐によって話すタイミングは次回に延長されることとなった。もしかしたら、常磐は何かを察してくれたのかもしれなかった。と、花の弁解により今にも調教が始まりそうな雰囲気は一変し常磐が考えるような仕草になる。本当にこの男は、極端というか。
「ふむ、しかしいかに駄メイトとは言えお嬢様に寵愛を受ける身分なのだから必要か。サバイバルナイフなら、メイドとして一つ持っていても良いのでは」
「常磐も賛成しているし、一つ持ちなさい。先生に選んでもらうといいわ」
結局、ワインオープナー付きのサバイバルナイフを購入した。ホルダーは私の好みで大腿に付けるものにした。
「なっ。お嬢様! こ、これだとナイフを取るときにスカートが邪魔です」
「スカートを上げればいいのよ」
「けどけど、これ……足が見えちゃいます! は、はずかしい……」
うん、満足だ。先生も満足そうだ。
「それで決定ね」
「決定ですね」
腹部に鋭い痛みを感じたのは、もう少しで駐車場に辿り着くという時だった。ああ、人混みは苦手だ。しかもこれは結構痛い。距離が近いのだろう。そう思った瞬間に人混みの中から私の右腕を掴んだ者がいた。そのままズルリと引かれる。腹部の痛みが増していく。抵抗できないくらいに。
ああまたか。また誘拐されるんだ。そんなにわかりやすいのかな。そんなに憎らしいのかな。私は普通に生活しているのだけれど。大丈夫、常磐がまた助けてくれる。ゆっくりと目を瞑ろうとした。
「遥鳴お嬢様!!!」
左腕がグイっと引かれ、体が元いた場所へ。力強いけれど、決して乱暴ではない。力の入らない私を常磐が受け止めてくれた。
「全く油断も隙もないな。けど、今日は俺が油断してた。遥鳴、すまない。花がいなかったらどうなっていたか」
薄れゆく意識の中でそんな言葉を聞いた気がした。そうか、花が助けてくれたのか。私は常磐の胸の中で安心して目をつぶった。
見慣れた天井。自室のベットだ。何者かがタオルを絞る音がして、額に冷たいものが乗る。気持ちがいい。
「お嬢様……!」
ぼんやりとした視界に、メイドの影。ああ、花か。
「は、な?」
「ああ、お嬢様。よかったー」
はあ、と溜め息が聞こえて花がベットにうなだれる。一体どのくらい寝てしまったのだろう。
「心配をかけてしまったわね。ごめんなさい」
「し、してないわよ。勘違いしないで。私はただほかの奴の手に堕ちるのが嫌だただけで……」
沈黙が流れる。私はもっと花の声が聞きたいだけだったけれど、花はバツが悪そうだ。
「体質の話、常盤様から聞いた。私も被害者だって」
「そう、聞いてしまったのね」
結局、私から伝えることはできなかった。しばらくの沈黙のあと、自室のドアがノックされる。常磐だろう。
「入って」
「ミルクティーをお持ちしました。花、お嬢様のことはあとは私が。退室してください」
「……かしこまりました」
ああ、あの子はもう私とのティータイムには来てくれないのかな。寂しくなるわね。だけど仕方ない、こうなることはわかっていた。まるで妹が出来たようで嬉しかったのだ。浮かれて、現実に目を向けなかった報いだ。
花は扉の前で立ち止まる。こちらは見ない。
「体調が万全になったら、ティータイムにはマカロンを用意してくださいね。私、マカロンに目がないんです」
「ええ、もちろんよ」
ニヤニヤしていたのかもしれない。私は頬が緩んでいるのを、彼女に見られなくてよかったなと思った。
「よかったですね、お嬢様」
「ええ、ええ。こんなに嬉しいなんて思わなかった」
常磐がミルクティーを淹れながら、やわらかな微笑みをたたえている。目が合うと、さっと逸らし眉間にしわが寄った。
「……俺は良くない」
きっと、また責任を感じているのだろう。常磐は、私を守ることに命をかけている。私としては、自分にそこまでの価値があるとも思えないので、せめて自分の身に危険のあることは避けて欲しいのだけれど。
「いいのよ。あなたの負担が減って私は嬉しいわ」
「そうじゃなくて。今日は俺、花に負けっぱなしだ。というか、最近遥鳴は花に構いすぎじゃないか?」
眉間に深い皺。あれ。なんだこれ。えっと、どういうつもりなんだろう。表情を読み取ろうとすると、目をそらされてしまう。頬は赤くないけれど、耳が赤い。ひょっとしてこれは。
「やだ、ヤキモチ?」
いやまさかね。だって今までそんなこと微塵もなかったし。と言うか、燕尾服着てる常磐が敬語じゃないこと自体珍しい。でも確かに最近、私は花に構いすぎていたかもしれない。それで常磐に寂しい思いをさせていたのかもしれない。クールに見えて、寂しがりやなのは昔から変わらないのだろう。
「遥鳴は俺が守るもんだって思ってた。けど、今日はナイフのことで頭がいっぱいで。ほんと、花がいなかったら俺。遥鳴に怪我でもさせていたら……!」
そう言った常磐は泣きそうになっている。ナイフを取り出し、自信の手首にくい込ませようとする。彼は愛を知らない。私だってよくわからない。けれど、今は。ナイフが彼の手首にくい込む前にそっと常磐を抱き寄せてみる。こういうとき、どうやって力を入れたらいいのかわからない。けれど今目の前にいる常磐は、悪癖をもつ異常者なんかじゃなくて。
「あなたが一番に決まっている」
「はる、な」
捨てないでと言っている気がした。役割を果たせなかった常磐が、全身で捨てないでと、そう言っている気がしたのだ。
「家族同然だもの。捨てるはずがない」
「……!」
ナイフがカラン、と音をたてて落ちた。
「しばらくこのままで」
背中越しに、鼻を啜る音が聞こえていた。