「お化けって本当にいるの?」
「お化けって本当にいるの?」
五歳になる娘が涙目でそう訊ねてきたのは、秋も半ばを過ぎた辺りだった。
世間はすっかりハロウィンムード一色で、どこを見てもカボチャ顔のお化けとコウモリが目に映る。
そんな時分の質問だったので、私は性急に結論を言わず、娘に聞き返した。
「どうしてそんなことを思うんだい。」
「あのね、今日ねミドリ園でねはろうぃんのお祭があったの。」
娘はハロウィンの発音に苦労しながら私に説明してくれた。
ちなみに、ミドリ園というのは娘が通っている幼稚園だ。どうやら、今日その幼稚園でハロウィンのお祭があったらしい。
私は娘のぎこちない説明を懸命に聞き取った。
「それでね、そのお祭りでねミク達がお化けの格好したの。
ミクは魔女さんの帽子をかぶって、小さなほうきさんを持ったの。
それでね、その時にねタクヤ君が、タクヤ君はおおかみさんの格好してたんだけどね、タクヤ君がお化けは本当にいるんだぞ、偽物のお化けの格好してたら本物のお化けが怒ってミクのこと食べに来るぞって。」
娘がそこまで言ったところで、涙の堤防は決壊した。
「よくがんばって言えたね。」
私は娘の頭をガシガシと撫で、親指で娘の目頭から流れる涙を拭った。
娘は極度の泣き虫なので、私は毎日のようにこの動作をしている。ママに似た細くて艶のある髪を撫でるのは嫌いではないのだが、こう毎日泣かれると少し心配になってくる。
私は足を曲げ、娘と同じ目線になるまで体を屈め、まだ涙の残る娘の瞳を見つめた。
「つまり、ミクが偽物の魔女の格好したから本物の魔女がミクのことを食べに来ちゃうってタクヤ君が言ったんだね。」
私が確認すると、娘は「うん」と小さな声で頷いた。
「なるほど、今夜の涙の理由はそれですか。」
私はううんと唸って考えるフリをした。
どういうわけか、娘は私のこの仕草を見ると落ち着くそうなのである。だから、これも私のお決まりの動作なのだ。
だけど、今夜はいつものようなフリではない。大袈裟に考えるフリをしながら、頭の中で本当に考えていた事があったのだ。
それは、この目元が赤くなった娘に何と言うかについてだ。
ただ単純に、「お化けなんていないから安心していいよ」と言ってしまえば簡単だ。それで私の父親としての使命は全うされる。
だが、本当にそれでいいのだろうか。
今、娘は心底怯えている。そんな娘にとって「お化けはいない」なんて言う言葉は気休めに過ぎない。
それでは、この可愛い私の娘が今夜一晩中お化けの恐怖に震えなければならない。そんなこと父親なら許せてもミクのパパとしては到底許せない。
だから私は、語ることにした。
何を?そんなの決まっている。
この世界にお化けがいるかどうか、についてだ。
♦♦♦♦♦
リビングに移動してきた私はソファに腰掛けた。後から追いかけてきた娘が私の膝の上にちょこんと飛び乗ってきた。
これも、家族でくつろぐときのおきまりの定位置だ。
だが今日は四人居る家族の内、お兄ちゃんは部屋に宿題にお母さんは風呂に入浴に行っているためリビングには私と娘の二人きりだ。
「さて、それじゃあはじめに一つミクに質問だ。ミクはお化けがいると思ってるのかい?」
私が訊ねると、私の胸の前にある小さな頭が右に傾いた。
「分かんない!だけど、お化けさんがいたらちょっと怖い。」
「どうして怖いんだい?」
「だって、ミクが食べられちゃうんだもん。」
そう言うと、私の膝に乗った小さな背中はさらに小さくなってしまった。
「そうだったね。タクヤ君がそう言っていたんだったね。
だけど、本当にそうかな?」
「どういうこと?」
今度は小さな頭が左に傾く。
「そのお話を今からパパがしてあげよう。」
私はそう言うと、あるお話を娘に語った。
♦♦♦♦♦
今からずっと昔のお話です。ずーとずーとずーーと昔のお話です。
ある遠くの小さな国に、人間と悪戯好きなお化け達が住んでいました。
人間達はとても働き者で、毎日寝る間を惜しんで働いていました。
お医者さんも、お花屋さんも、お巡りさんも、学校の先生も、毎日毎日お日様が顔を出す前から働いてお日様が沈んでからも働き続けました。
一方悪戯好きのお化け達は、怠け者で毎日お日様が沈むと人間達に悪戯をしていました。
患者さんのフリをしてお医者さんを驚かせたり、花瓶の中に忍び込んでお花屋さんをビックリさせたり、パトロール中のお巡りさんを怖がらせたり、テストのプリントをバラバラにして先生を困らせたり。
それはもう、数え切れないくらいの悪戯をして遊んでいました。
お化け達は悪戯が成功するたびにとても楽しくなって笑いました。でも、悪戯をされる人間達はたまったもんじゃありません。
そこで人間達は、悪戯好きのお化け達を国から追いだしてしまったのです。
そうして、人間達と悪戯好きのお化け達が住んでいた国には人間達だけが残りました。
悪戯好きのお化け達が居なくなった国で人間達は誰にも邪魔されることなく仕事に励みました。
来る日も来る日も朝から晩まで休むことなく働きました。
患者さんにお化けが混じっていることはない、花瓶にお化けは隠れていないしパトロールで驚かされることもない、それにテストのプリントはきれいに積まれたままでした。
初めのうち、人間達は邪魔されることなく仕事に集中できることを喜びました。
ですが、その喜びは長くは続きませんでした。
お化けの悪戯という休息を失った人間達は、日が経つにつれ疲れ果てていったのです。
目の下には大きなクマができ、服はヨレヨレ髪の毛はボサボサです。それは、生きているのか死んでいるのかわからない有様でした。
この時になって、ようやく人間達は自分達の間違いに気が付きました。
悪戯好きのお化け達は、楽しむ為だけに悪戯をしていたのではない。毎日仕事漬けの私達に小さな安らぎを届けていてくれたのだと。
そう考えて思い返してみると、お化け達の悪戯は人間の仕事の邪魔もしていたけれど、仕事漬けの人間達にとってそれは全てが悪いというわけではありませんでした。
患者さんのフリをしたお化けはいつも長い時間お医者さんと話をしました。これが多忙なお医者さんにとっては息抜きとなったのです。
花瓶の中に隠れたお化けは、いつもお花屋さんのお姉さんに怒られてお店の手伝いをさせられていました。お化けが花瓶に隠れていた日はいつもより仕事が終わるのが早くなりました。
パトロール中に驚かされたお巡りさんは、実は大のホラー好きでした。ホラー好きのお巡りさんにとって、お化けのおどかしはとてもいいストレス発散になりました。
テストをばらまかれた先生は、悪戯をしたお化けを追いかけました。子供のことが大好きな先生にとって、その追いかけっこはとても楽しいものでした。
思い返せば、お化けが悪戯をすると皆の顔に太陽よりも明るい笑顔が浮かんでいました。
その笑顔のお陰で、これまで人間達は一生懸命働いて来れたのです。
そのことに気が付いた人間達は、一斉に国の外を探し始めました。
お化け達に謝って、もう一度一緒に暮らそうと思ったからです。ですが、お化け達はなかなか見つかりません。
そうこうしていると、ある日一人の若者が国の外れにある森の中で一枚の便箋を拾いました。
その便箋には、お化け達の文字で一言こう書かれていました。
『もうあなた達は僕らが居なくても大丈夫』
若者がその便箋を持ち帰ると、人間達は皆泣き崩れました。
そして、気が付いたのです。
お化け達は、働き過ぎの私達を救うためにやってきたのだと。
悪戯という手段を使って、人間達に嫌われてまでそのことを伝えようとしたのだと。
それ以来、人間達は夜に働くことを止めました。休みも取るようにしました。
お化け達が居なくても元気に生きていくために人間達は休息の取り方を覚えたのです。
そして、人間達はこの教訓を教えてくれたお化け達の事をいつまでも忘れないために『お化けの日』を作りました。
『お化けの日』は作物の収穫が終わり仕事が一段落する秋の最後の日に決めました。
今日でも、その『お化けの日』はハロウィンという名前で残っています。
ハロウィンの日に子供達がお化けの恰好をして家々を回るのは、あの悪戯好きのお化け達の真似をしているのです。
私達はあなたのことをいつまでも忘れませんと、お化け達に伝えるために。
♦♦♦♦♦
「分かったかい?ハロウィンっていうのは、居なくなったお化け達の真似をミク達がする事で、お化け達に人間が元気だということを伝えるお祭りなんだよ。
だから、本当のお化けさんに食べられちゃうなんてことはないんだよ。」
私は、私の胸にもたれ掛かった小さな頭に向かってそう言った。だが、返事はない。
それもそのはず、娘は私の話の途中ですやすやと小さな寝息をたてていたのだ。
その寝顔はとても安らかで、とても安心しているように見えた。
私は、娘を起こさないようにそっと抱えると子供部屋のベッドの上に寝かした。
「お化けさん、ミクと遊ぼうよ。」
目を閉じた娘が笑顔でそう言った。それは、とても楽しそうな寝言だった。
私は子供部屋を後にすると一回大きく伸びをした。背中と肩と首の骨がコキコキと鳴る。
「さて、私もそろそろ寝るとするか。でないとお化けに悪戯されてしまう。」
リビングにある花瓶に隠れたお化けが、飛び出すタイミングを伺っているような気がした。