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アホと名無しの逃避行

作者: クック先生
掲載日:2012/07/28


 高校一年生の夏休み。

 そいつはどんなものにも代え難い、ヴェルター○オリジナ○よりも特別な存在である。

 そんなお金で買えないような貴重な人生の一期間を、横暴にも蹂躙しようとたくらむ不貞な輩共がいる。彼等こそ誰あろう、我が青翔学園に在籍する、悪魔のような教師達だ。

 はたして、こんな無法が許されてよいものだろうか。我々の自由は! 平等は! 主張は! 学園生活はいったいどうなってしまうのか! 彼らは何の故あって、我々に与えられた黄金にも等しい地位と権利を剥奪すると言うのか。誰か……誰か教えてくれ!

「よろしい馳野太助、ならば教えてやる。お前らがアホすぎるからだ」

 苦虫をよく咀嚼し、余す所無く味わったような表情をした体育教師『セガール』こと大塚先生が、居並ぶ十五名を前に、実によくわかる説明を述べてくださった。

「ですよねー。僕達が普段の授業やテスト勉強をちょーっとおろそかにしちゃったからっスよねー。あ、そのためにわざわざ休日出勤なんて、お疲れ様です先生」

 そう、ここに集う僕達十五人は、先のテストで赤点を見事にゲットしたアホのツワモノたちであり、夏休みの大半を補習に費やす羽目になるやも知れないと言う、悲しき運命を背負わされた虜の衆なのだ。

 ただ『なるやも知れない』などと不確定要素が付くのには些か訳がある。

 曰く――

「言ってしまえば、勉学など世に出るための道しるべに過ぎん。そう、社会に発てば、勉学だけではどうにもならない事態に陥る場合があるのだ! そんな時、何が役に立つのか? そうだ、知恵と勇気だ! 諸君ら赤点の烙印を受けた者達でも、知と勇を備えているのであれば、今こそ見せてみよ! 然るに、無事事を成した暁には、夏休みの補習は免除してもよい! この絶好の機会、生かすも殺すも諸君等次第だ! 己のすべてを賭け、この難局を乗り越えよ!」

 と言う校長先生のありがたいお言葉により、夏休みを控えたとある日曜に、補習免除の機会を賜った訳なのだ。

 しかし、その条件と言うのが『朝の九時から夕方四時までの七時間以内に、学園の敷地内から外に出る』と言う、少々厄介なもので……。

「なんだそんな事、二本のアンヨがあれば事足りるじゃないか」

 と言う安易な考えを持つ者もあるだろう。だがこれを聞いて、まだ余裕をかましていられるだろうか?

 まず校門・裏門には屈強な体育教師二名が、浅草にある雷門の門番一号と二号よろしく、随時睨みを利かせていると言う状況なのだ。そして低めのフェンスや遅刻者が利用するプール脇の金網の裂け目など、ありとあらゆる脱走経路にも、教師が張り付いている。更に校舎内には、生徒会執行部が常に巡回し、我々を捕縛せんと目を光らせているらしい。そう、追跡者達から逃げつつ、この警戒厳重な学園の敷地内から外に出るというのが、補習免除の条件なんだ。些か無理ゲー臭が漂っていると感じるのは、きっと僕の気のせいじゃないだろう。

「うむ、九時か。さぁ、ゲームの開始だ! お前達さっさと散れ! 三十分後に生徒会が巡回するから、それまでゴキブリのように隠れ廻っていろ! それから実質的に一番成績が悪かったアホの一年生筆頭、馳野よ。お前はアホだが悪知恵だけはすこぶる良く働く。だが私の前ではそんな虚仮は通用せんからな。肝に銘じておけ」

 きいい! セガールめ、言うに事欠いて僕をアホの一年生筆頭だと! でも一年生筆頭とか言われるとなんだかかっこいいな。僕はこういった重厚な肩書きとか威厳ある名前に弱いんだよ。

「ほら何をしている、ボーッとしてないでさっさと行かんか!」

 セガールの号砲にも似た掛け声と共に、僕達は三々五々当ても無く歩き出した。さて、これからどうしたものか……。

 

 校門を正面に見据えた、校舎前の花壇。その生垣の中央に、この学園の創設者である現校長の胸像がある。

 僕、そして小学校の時からのアホ盟友である杉原、更には一年生番長である筋肉バカ・田桜が、胸像の裏に隠れ、息を殺し様子を伺っていた。

「フフフ! 正門前はセガールと玄田の体育教師コンビか……面白い」

 何をどう見れば面白いのかまったく理解不能だが、この脳みそまで筋肉に侵食された田桜がやおら立ち上がり、正門を視界に納めたまま独り言を吐き始めた。

「フンッ……セガールか我か、ついに雌雄を決するときが来た」

 流石は柔道部特待生で入学してきた自称喧嘩三十段。堂々と正面切ってこの学校最強の格闘家と手合わせができる絶好の機会に、よほど血が滾って仕方が無いのだろう。

「お前達、手出し無用ぞ」

(誰が出すかアホ! さっさと行け)

 よしわかった、存分に暴れて来い! と言った神妙な顔で見送る、僕と杉原。

 きっと大丈夫。僕も杉原も口には出さないが、アイコンタクトでうんと頷き合った。

「ほう? 一人で乗り込んでくるとはいい度胸だ。それだけは褒めてやろう」

「大塚先生、一つ手合わせ願えます――かっ!」

 はじまった! 田桜が開始早々セガールへと掴みかかり、見事な一本背負――い?

「フンッ!」

 えっと……。

 何がどうなったか一瞬過ぎてわからなかったが、セガールの下で組み伏せられ、取られた腕の手首があらぬ方向に曲がっている田桜がそこにいた。

「うがぁぁぁぁ!!」

「安心しろ、少し手首を外しただけだ。すぐ元に戻してやる」

 そして間髪置かず、セガール先生の不敵な笑顔がこちらに向けられた。

「そこに隠れている者達、助けに来ないのか? なんなら三人いっぺんに相手でもいいぞ」

「「やばい! 逃げよう」」

 脱兎の如く逃げ出す僕達二人に対し、追っ手をかける素振りを見せない教師達。どうやら今回は見逃してくれるらしい……命拾いしたようにも思えるけれど、それこそ精神的に追い詰めるというセガールの術中に陥っているのかも知れない。まったくやれやれだよ。

 しかしまぁ、とんだ見当違いをしていたみたいだ。あんなにもセガールの戦闘力が高いとは……以前からセガールの強さにウズウズしていた田桜をそそのかし、二人の戦いの隙をついて学園からの逃走を図ろうとした僕の作戦は、ものの見事に失敗してしまった訳だ。すまん田桜……僕達のために犠牲になってくれたことは、生涯忘れないよ。

「ちっくしょー! 上手い作戦だと思ったのにな。どうする馳野、このままだと俺達の青春がダークサイドに取り込まれちまうぞ」

「くそぅ、夏休みの殆どを拘束されたら、僕達の華麗な自堕落生活が会社勤めのおっさんのように勤勉になってしまうじゃないか。それだけは是非とも避けたい。何とかいい方法はないものか」

 全力疾走で上がった息を整えながら、今後の出方を思案する。とはいっても、代替案があるわけじゃない。そう簡単には出てこないさ。

「仕方が無い、ここは潔く白旗を揚げるのもやむなしだ。夏休み中の補習をエスケープしてうやむやにするのも一つの手かもしれないな」

 ちょっと悔しいが、こんな難易度高めの脱出劇、元々無理があったのかもしれない。が、僕の相棒の心の炎はまだ燃え盛っているようだ!

「そうだな。だがな馳野よ、俺は自分の運命は自分で切り開く主義だ。こうなりゃ当たってくじけろだぜ!」

 数分前、田桜を利用しようとした作戦に俄然乗り気だった事を棚にあげ、いけしゃあしゃあとかっこいい事を言う杉原。だがそんなバカさ加減、僕は嫌いじゃない。

「ま、まさか正門突破か? さっき田桜の玉砕シーンを見たばっかりだろ」

「バカ言うな、そこまで俺の記憶力は残念じゃない。それよりも、まだ現実的に勝ちにいける場所があるんだ」

「そんな場所が存在するってのか?」

「あぁ、そこは旧校舎の北。他より一等背の低いフェンスがある、通称『飛び越え垣』だ」

 その場所の噂話は聞いている。高さ二メートルに満たないフェンスがあるその場所には、一メートル五十ほどの高さの焼却炉があり、これまた五十センチに満たない高さのブロック塀が周囲を囲っている。

 十数年前、ここがまだ男子校だった折の事だ。外で待つ女性に会うために、ホップ・ステップ・ジャンプとブロック塀から焼却炉、そしてフェンスを飛び越え、見事な着地を見せていた学生達が結構居たそうだ。逃走経路としても、女の子にいいところを見せようというアクションとしても、そこは絶好の場所だったというらしい。

 そして近年。いつしかそこを見事飛び超えれば、意中の女子と良い仲になれるとか言う、どこの学校にもある伝説と化したって訳だ。

 が、そんなのはもう過去の事。現在は学園の拡張工事の為の手が加えられ始め、着地場所が以前より五十センチ程度掘り返され、低くなっているのだ。しめて二メートル五十センチほどの高さからのダイブ……下手すりゃ骨折コースだ!

「ほう。恋愛に縁もゆかりも無いお前さんのことだから、鼻糞ほどの興味もないと思っていたが……知っていたか」

「ふざけるな! これでもラブレターの一枚や二枚もらったことがあるんだ! そうあれは小学校低学年の頃……いや、高学年だったかな?」

 ふと、曖昧な記憶が僕の脳内で錯綜する。差出人不明のラブレター。

「たしか手紙に書いてあった待ち合わせ場所に二時間前に到着したにもかかわらず、都合五時間待っても誰も来なかったんだっけか。きっとラブレターの主は、来る途中で事故か何かにあったんじゃないかと思うんだ。だって途中、救急車のサイレンの音が鳴ってたし――」

「またそれか……んな話はどうだっていいよ。まったくつまんねぇ事だけはよく覚えてるな」

 せっかくの僕唯一のモテ話を、その話はしてくれるなとばかりに、無碍に断ち切る杉原。

「まぁとにかく付いて来いって! 悪いようにはしないからさ」

 なんて事を言いながら、振り向きざまに微笑む。まさかこいつ、僕を当て馬に使おうってんじゃないだろうな? 幼い頃からの友だと言うのにも拘らず、こいつには何度も悪戯を仕掛けられ、その都度煮え湯を飲まされてきたんだ。用心に越した事は無いだろう。

「ちょっと待てよ! おおかた僕をダシに利用して、そこを突破しようって魂胆だな?」

「アホ! 男杉原、そんなカッコの悪い事ができるか! 一か八か、あそこを超えてみるんだ。可能だったらお前も俺に続け」

 歯をキラリと光らせて親指を立てる盟友。やばい、かっこいい! 元々、黙ってりゃ結構男前の杉原が、より一層輝いて見える。僕よりアホだバカだ卑怯だ下衆だと見下していたが、今日限りでそんな君を蔑む考えは捨てるよ。


「いいか、これから俺は中央突破を図る。お前はそこに居ろ」

「了解であります!」

 飛び越え垣を見渡せる旧校舎の陰。ズビシッ! と敬礼を交わし、僕は良き盟友の背中を見送った。と同時に、その先にいる白衣をまとう人物に気が付く。

 焼却炉の傍ら、タイトスカートから伸びるすらりとした足と、胸元までざっくりと開いたブラウスも悩ましげに一人佇む、妖艶という言葉がよく似合う美しい女性。その存在に、僕の心の臓はフルスロットルで体中の血液を循環させ、警戒レベルマックスのアラームを脳内に響かせたのだった。

「ちょ、ちょっとまて。やばい! やばいよ杉原! あの人に関わっちゃだめだ、その人を敵にしちゃダメだ! かの人『保健室の女王様』こと平野先生こそ、この学園最凶の狩人プレデターだぞ!」

 あわてて掛けた僕の声に足を止め、くるりと振り向く相棒。その顔には清々しいほどの満面の微笑が湛えられている。そう、死を覚悟した漢の顔だ!

「ま、まさかお前……?」

「フッ……誰かのために犠牲になる、そんな不器用な生きかたしかできねぇんだ……俺って言う男はさ。じゃあ――な」

「ま、まて杉原! 早まるな!」

 走り去る背中にそう声を掛けたが、全力疾走で駆け出した友の勢いは止まらない。そうだ、あいつは僕のために自ら犠牲になって、あの飛び越え垣への活路を開こうとしているんだ。ちくしょう、なんてかっこいい生き様なんだ!

「うおおおおおおおおおおお!」

「あら、無謀な子ね。そんなに私のお仕置きが欲しいのかしら?」

 印象的な口元ルージュの微笑と共に、するりと先生の腕から解け落ちたしなやかなムチが勢いよく振り上げられ――杉原を襲う。

「ぎゃああ!」

 でた! 平野先生必殺の『ヒラさんのムチは痛いよ!』攻撃だ。かつてこの技で幾人もの男子生徒が(性癖的に)再起不能に陥ったらしい。

 当然あっという間に捕縛され、戦意喪失を見せた杉原。だが、奴の牙はまだ折れてはいなかった!

「走れ馳野ぉ! 今のうちだ!」

「すまない杉原ぁ!」

「ちぃっ、まだ一匹獲物がいたのね」

 友の犠牲の上に立ち生き延びる。卑劣な男と思ってもらって結構! 今は杉原の遺志を継ぎ、この難局を乗り切って――乗り切って……。

「た……高い」

 ブロック塀に足をかけ、いざ焼却炉へと足をもたげようとしたその矢先。想像よりも一際高く感じられたフェンス越しの着地地点に、僕の股間におわすお茶目なグラップラーが、ひゅんと恐れをなしてしまった。

「飛べ、馳野!」

「無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理ムリムリムリムリムリムリむりむりむりむりMURIMURIMURI……」

 首が千切れるほどブンブンと頭を左右に振って、懇願するように杉原を見た。

 項垂れた表情に深いため息。僕は友達を無駄死にさせてしまったのか――

「とにかく逃げろ! どこでもいい早く行け!」

「うるさいわね、このバカ! 少し黙りさない!」

 後ろ頭をハイヒールで踏まれ、ギリリッ! と、平野先生のムチに締め付けられる不憫な盟友……? いや、その割には頬を紅潮させ、恍惚の表情を浮かべているような気もしないでもない。いやいや、多分僕の気のせいだろう。

「何をしているんだよ! 早く行けよ!」

「うるさいって言ってるでしょ!」

「はひぃぃぃ!」

 更にきつい締め上げを食らった杉原が、たまらず嗚咽にも似た叫び声を漏らした。いや、どちらかというと歓喜のあえぎ声というべきか。いやいや、絶対に僕の気のせいだ。そんな彼のような男の中の男がまさか……。

「頼むよ馳野ぉ! 早くどっか行ってくれよぉ!」

「この豚野郎、いい加減言う事聞かないとこれ以上のご褒美はあげないわよ!」

「も、申し訳ございませんんん! 女王様ぁぁぁ!」

 嗚呼、もうだめだ。僕の親友は暗黒面に落ち、悲しき性癖を開花させてしまったようだ。さらば友よ、君の自己犠牲は何があってもずっと忘れないよ!

「いい声で鳴く雄豚ね。ほら、もっとおねだりしなさい!」

「はひぃぃぃ、じょ、女王様ぁ! もっと、もっと締め付けてくださいぃぃぃ!」

 と言うか、杉原は元々これが狙いで平野先生へと特攻を仕掛けたのだろう。以前から思っていたが、やはり君はバカでアホでどうしようもなく下衆で哀れな性癖の持ち主だ。


 前半戦が終わり、世間で言うところのお昼時。流石に正午からの一時間は、お昼ご飯を食べるための休戦状態となる。

 校舎内にある食堂にて、かーちゃんお手製の弁当だか夕飯の残りだかを胃の府へと収め、ごちそうさまの合掌ををした後、改めて周囲を見渡してみた。

「ひいふうみぃ……既に四人。はや三分の一が天に召されたのか」

「あの……三分の一ではなく、三分の二ですね」

 不意に、背後から独り言を否定する女の子の声。しかも普段からヤローの声しか聞いてない僕の耳には非常にもったいないような、可憐でかわいい声だ。

「あ、あはは。うんうん、三分の二だね! 勿論分かってるよ? そ、そう、これは僕の高等テクニックである一人言ギャグなんだ」

 あたふたと慌てて取り繕いながら振り返る。と、そこには今この場にはそぐわない女子が立っていた。

「あ、ごめんなさい。もしかして私、余計な事を言ってしまいましたか?」

「い、いやいや! そのツッコミを待っていたんだ。ありがとう……って、あれ? なんでこんな所に市川さんがいるんだい? あ、もしかして生徒会執行部だったっけ?」

 天使のような満面の笑顔で、ううんと首を振る目の前の美少女。肩までのセミロングの髪の毛が揺れる度、えも言われないリンスの香りが振りまかれる。

「そう、もう一つ訂正がありますね。生き残りは四人ではなく、私を入れて五人です」

「ええっ! な、なんで市川さんのような聡明な生徒が、こんなバカとアホの一大カーニバルに?」

 僕が驚くのも無理はないと思う。彼女こそ学年一――いや、この学園一の才女であり、育ちも品格も申し分ない、超が付くほど有名な家柄のお嬢様なのだ。

「そ、それがですね……」

 自分の髪の毛をくりくりと指に絡め、もじもじと頬を赤らめる。そんな市川さんが、蚊の鳴くような小さな声でポツリと零した。

「名前を書くのを忘れてしまいまして……」

「え? 名前を書くのを忘れた? でも一教科程度じゃ注意くらいで済むだろうし――」 

「それが……その……」

 彼女のためらいがちな言葉に、胆戦心驚となる僕。まってくれ、一教科だけじゃないって事は……しかも夏休み補習組に選抜される程って事は……しかし何かの間違いかもしれない。そう、聞いてみるまではその真偽は分からないさ。

『ゴクリ……』

 そして固唾を呑み、意を決して聞いてみる。

「ま、まさか……全教科?」

 小さくコクリと頷く彼女。いやいや、え? 何? 嘘だろ? これって学園を巻き込んだ壮大なドッキリなのか?

「私ってね、ちょっとおっちょこちょいなところがあるんです」

 いやいや、おっちょこちょいのリミッター振り切りすぎだよ。こんなミラクルあっぱっぱーな僕でも、ちゃんと名前くらいは最初に書くぜ? しかも漢字で。

「は、ははは……そうなんだ……あ、いや! そんなこと誰にだって起こりうる事さ! 気にしない気にしない」 

 流石に無理がある。だが、そんな僕の社交辞令的な励ましを聞いて、市川さんの少し気に病んだ表情が、ぱぁっと明るくなった。

「ありがとうございます、馳野くん。相変わらず優しいんですね」

 くううっ! 女神の微笑ってのはこういう事を言うんだろうな。自分の全身が気恥ずかしさで赤く染まっていくのが分かるよ。

「そ、そんなこと無いさ! あっ! それはそうと、午前中はどうしてたんだい? やっぱり市川さんのような天才は、知恵を生かして上手く逃げ果せていたのかな?」

 思わずテレを隠すため振った話題に、またもや市川さんが、笑顔で首をふるふると小さく振り答えてくれた。仕草がいちいち可愛すぎるよ。

「ずっと教室の自分の席にいました。特に逃げる気もありませんでしたし」

「へ? 生徒会執行部にはみつからなかったのかい?」

「それがですね、執行部の皆さんも素通りされていくんです。不思議ですね」

 執行部の奴ら、まさか市川さんが補習組とは思わなかったようだ。そりゃそうだよな、こんなエリートがポンコツ達の祭典に参加するとは、誰も考えないもの。僕だってそうだった。さっき生き残りの人数を数えた時、知らずの内に市川さんの事を除外していたくらいだもんな。

「そう言う馳野くんも、後半戦までいると言う事は上手く逃げていたのですね?」

「あ、うーん。なにかいろいろとコントのような事をしていたような気がするけど、忘れちゃったよ」

 僕の十八番。そう、かっこよく言えば僕の能力――忘却! どーだっていいことは瞬時に忘れてしまう、大変都合のいい記憶力。人は「阿呆だ」の一言で片付けるだろうけど、元々おつむの容量が少ない僕が、苦心して編み出した努力の結晶なのだ。

「それで、馳野くんはこれからどうなさるんです? わたしはそろそろ疲れてきたので、自首しようかと考えているのですが……よろしかったら馳野くんもご一緒に自首なさいませんか?」

「じ、自首なんてとんでもない! 市川さんのようなたまたまテストに(全教科)名前を書き忘れただけなんて子が、それだけで夏休みを棒に振る補習地獄に落とされることは無いよ!」

「ですが、今後取り締まりの巡回はもっと厳しくなってくるでしょうし」

「だ、大丈夫だ! ぼ、僕が! この馳野太助が、君を守り抜いてみせる! そして君を逃がしてみせる!」

 どーん! と胸を叩き、大胆な安全宣言をかます僕。

『おいどうした馳野。彼女の芳しい香りに、残り少ない脳みそがついに消滅したのか?』

 きっと草葉の陰で杉原はこう言ってるだろう。だが僕には、八割方の自信があった。彼女を守り、二人で逃げ切って見せるという自信が。だって午前中に一緒にいた使えない奴らよりは、天才の誉れ高い彼女を仲間にしたほうが、グーンと生存率が伸びるからね。

「は、馳野くんが私を? ……うれしい、嬉しいです!」

 市川さんが喜びを体全体で表現するかのように飛び上がって、笑顔を振りまきながら僕の手を握ってきた。そ、そんなに嬉しかったのだろうか? それとも、これこそ全世界を巻き込んだ、空前絶後のドッキリなのか?

 とにかく、午後の後半戦まであと数分。

 期せずして、これからは学園きってのアホの僕と、学園一の才女市川さんの、二人の逃避行が始まる訳だ。


 昼食休憩が終わり、校内食堂からとりあえず僕達の教室一年三組へと向かう。彼女と僕が持ってきた鞄を取りに行くためだ。

 僕には一つ策がある。そいつは市川さんを伴わなければ成し得ない、彼女あっての策だ。

「なぁに簡単簡単。市川さんはいたって普通に裏門から下校するだけでいいんだ」

 今現在裏門を守る先生は、屈強とは言えど吹けば飛ぶような新人三下教師達二人だ。そして門番を司る先生達は、まさか市川さんが補習組とは思わないだろう。

 仮に怪しんだとして、彼女のようなお嬢様に補習を命ずるという行為を、いやさ、市川家の令嬢にそんな恥辱を与えるなんて事、できるはずも無いだろう。彼等にそんな大それた事が出来ようか? 無論、何も無かったように市川さんを通すだろう事は明白なのである。

 そこで僕の登場という訳だ。ケータイでその一部始終を録画しつつ、僕も彼女と共に裏門より下校する。

『ああ待て待て馳野、君は通させんぞ!』

 などと三下教師はのたまうだろう。そこですかさず僕はこう言うんだ。

『市川さんは通して、僕は通さないんですか? 彼女も補習組って事はご存知でしょう? これって差別ですよね? 証拠の動画もきっちり押さえてますし、なんなら保護者会の会合でこれを公表させていただいてもよろしいんですよ』

 ククク……我ながら良い策を思いついたものだ。もし話が通じ、取引に応じてくれればそれでよし。だが門番の先生が市川さんだけを見逃せば、こいつは深刻な人権問題だ。しかしそこはあえて目をつぶろう。そう、大人しくお縄についてやろう。

 そして、ここからが本番。その事に後ろめたさを感じた市川さんは、財力と権力を武器に、僕を教師達の魔の手から救ってくれるはずだ。仮に救ってくれなかったとしても、これを恩に感じ入り、良い印象を与えることは必死! 十重二十重に張り巡らされて僕の知略策謀はどうだ!

「おい! 何を一人でブツブツ言っているのか知らんが、そろそろゲームオーバーだ!」

 そんな天才軍師たる僕に向かって、不意に終了宣告を叩きつける輩が現れた。

「そして……探しましたよ? 市川さん。流石は我等が学園一の才女だ。その英知を生かして僕達の前から忽然と姿を消すなんて……流石です」

「誰だ!」

 振り返り、声の主を見る。そこに居たのは……。

「お、お前は…………………………………………えっと……………………なぁ……………………ほら、アレだよアレ……………………うん、誰だっけ?」

「木下だよ木下! いつになったら覚えるんだ、この鳥頭が!」

 なんかえらい剣幕で怒っている奴がそこにいた。そうそう、なんとなく思い出した。こいつは同じクラスの顔見知りだ。だからといって、よく知りもしない間柄の者に不遜な態度は頂けないな。

「このドアホ! 小・中と同じ学校で、しかも小学校一二年、五六年と、中二の時は同じクラスだったろ!」

「え? あ、そうだっけ? 市川さん」

「さ、さぁ……私に聞かれましても……あ、五、六年は同じでしたね」

「何故市川さんに尋ねる! そこは俺に尋ねるところだろ!」

「はっはっは冗談だよ木の元」

「き・の・し・た・だ!」

 どうも彼は僕の忘れ去られるツボにはまりすぎているようだ。一向に彼の名前や特徴、共に学んだ思い出なんかが浮かんでこない。しかしながらこれだけは分かる……きっと彼はカルシウム不足なんだろう。

「で、何?」

「とにかくだ! 生徒会執行部として命ずる! 馳野、市川さんをこちらに渡して大人しくお縄につけ!」

「やなこった。これから市川さんと楽しい下校時間が始まるんだ! 誰にも邪魔はさせない」

 売り言葉に買い言葉。咄嗟に人も羨む台詞を吐いてやった。もしこの発言が全校男子に知られれば、僕はその瞬間に処刑リスト筆頭に名を刻まれるだろう。

「な、な、な、なんだとぉぉぉぉ! 馳野ぉ! お前は……お前だけはこの手で葬ってやる!」

 と、そんな時だ。市川さんが僕の面前にずいっと立ち塞がった。

「やめてください木下くん! どうか、どうか今回だけは見逃してください!」

「い、市川さん……いや、たとえ市川さんのお願いだとしてもこれだけは譲れません!」

「どうしてもですか?」

「くどい!」

「なら、致し方ありません」

 一つため息をつき、改めて木杉へと向きなおした市川さんが、なにやら意味不明な言葉を語り始めた。

「拝啓、突然のお手紙どうかお許しください。あなたの春の日差しのような温かな笑顔に、僕の心の氷はすっかり溶かされ、恋という名の存在が目覚めてしまいました……」

 途端、木林の動きが、彼の周囲だけ時間が止められたかのようにピクリと止まる。

「市川さん……いったい何を?」

 尋ねる僕の言葉はそのままスルーされ、なおも不可解な文章の朗読を続ける彼女。その姿はまるで、復活した悪魔を呪文で封じ込めているかのようだ。

「僕の心はあの日、教室で初めて出会ったその時から、君だけの哀れな虜となったのです」

「うわぁぁぁぁ! い、市川さんやめてくれぇ!」

 頭を抱え、泣き崩れ、悶え苦しむ木……なにがし。

「さぁ、今のうちに」

 そんな彼を一瞥して、市川さんは僕の手を取り、駆け出した。

 何がなんだかさっぱり分からない。ただ、一人残された生徒会執行部の人がすごく哀れで、いたたまれなく感じた。


「ハァハァ……もうここまで来れば大丈夫でしょう」

 裏門に一番近い校舎の非常口に駆け込み、僕達は腰を下ろす。ずっと握られていた手の柔らかさと温もりが、たまらなく心地よかった。

「あ、ごめんなさい! 私ったらいつまでも手を……」

 と、そっと市川さんの手が離れ、僕のハッピータイムは期間終了。延長を申し出たいと言う気持ちをグイっとこらえて、あくまで紳士的を装う。

 しかしなんともカッコの悪い話だ。「市川さんは僕が守る!」なんて大見得切った矢先、不覚にもいきなり彼女に助けてもらう羽目になるとは。それにしてもさっきの朗読はいったいなんだったんだろう。市川家に代々伝わる退魔呪文か何かだろうか?

「あ、いえ。あれは……その。小学校の六年生の時、木下くんからもらったラブレターの朗読です」

「ら、らぶれたぁ?」

「はい。木下くんには大変迷惑なことをしてしまったと、重々反省しています。ですがあの場合、ああするしか他に手立てが思い浮かばずに……」

 なるほど、彼は結構プライドが高そうな奴だったからな。小学生の頃とはいえ、あんな恥ずかしい内容のラブレターを、しかも送った相手に朗読されたとあっちゃ、精神的ライフは一撃でゼロになるだろう。なんておっかない攻撃なんだ!

「相当酷い事をしたと、自分でも認識しています。許していただけるかどうかは分かりませんが、あとできちんと謝りに行こうと思います」

「あー、いいよいいよ。そんな事したら余計に付け上がって、何を要求してくるか分かったもんじゃないさ」

「で、ですが……」

「こういうものはね、きっぱりと突っぱねて……って、もしかして二人は付き合っていたとか?」

 なんとも考えたくも無い推理が、僕を襲う。だがその懸念は、市川さんという女神の言葉で、一瞬のうちにかき消された。

「いえいえ、即座にお断りをいたしました。だって……」

「だって……何?」

「だって、その時は既に好きな人が……」

 なんてこった! 彼女は女神ではなく魔女だった!

 ちくしょう、目の前が真っ暗になって失意のずんどこに叩き落された気分だ! だが暗澹たる顔を彼女に見せるわけにはいかない。至って清々しく振る舞い、その幸せ者は誰かという事を、何気なく聞いてみよう。

 そいつを終生呪ってやるために……。

「へ、へぇー。そんな幸せ者がいたんだ? うらやましいなぁ」

 小さくこくりと頷く市川さんのその表情は、恥ずかしさと戸惑いで、耳まで赤く染まっていた。

「はい。その人は小学生の頃、クラスの男子にいじめられていた私を……身を挺して助けてくれたんです」

 なんと言うヒーロー的活躍! 悔しいが、それは市川さんで無くとも惚れてしまうじゃないか。

「それで、その人にラブレターを……送ったことがあるんです」

「ラ、ラヴレターを! 市川さんからラヴレターを! そんなの浦島太郎もドン引きするくらいの、うらやましすぎる恩返しじゃないか! い、一体誰だ! そんな人類史上最高の栄誉を掴み取った野郎は! ちくしょう、祝ってやる!」

 僕の憤慨する姿が面白かったのか、市川さんは小さな笑みを零し、ラブレターについての件を続けた。

「でもね、名前を書かなかったんです」

「なんと、またしても名前を?」

 もしかしてその頃からおっちょこちょいの片鱗があったのだろうか。

「あの、馳野くん。桜山公園ってご存知ですか?」

 勿論知っている。僕達の住むこの地元桜山市に昔からある、大きな公園だ。

「そこに来て下さいって手紙には書いたんです。でも、来てはもらえませんでした。やはり名前を書かなかった事が不審に思われたのでしょうか」

「へぇぇ。奇遇だね! 僕もその頃、名無しのラブレターをもらったことがあるんだ。いや、低学年のときだったかな?」

 そう、僕の人生唯一であるモテ話だ。

「は、はい! そうなんですか。奇遇ですね」

 何故か目を輝かせて、僕を見つめる市川さん。こういった恋愛関係の話が好きなのかな?

「でさ、僕は約束の二時間前に行ったんだよ。指定された場所である『桜山ハム園』に」

「えっ! ハ、ハム園……ですか?」

「うんそう、ハム園。桜山ハム工場の敷地内にある公園で、通称ハム園。ハムに見立てた遊具が一杯ある公園でさ。あれ、知らない?」

「え? あ、いえ……」

「そこで都合五時間待ったんだけどね、結局近所のちっちゃい子と管理人のおっさん以外、誰も来なかったんだ。でもね、もしかしたら送り主の子は、事故か何かに巻き込まれたんじゃないかなって思うんだ。だって近くで救急車のサイレンの音が鳴ってたし」

 何故かぽかんと口を開けて、僕の話を聞き入る市川さん。きっとこんな僕のアホさ加減に呆れ返っているのだろう。

 ならばこれ以上『名無しのラブレター』の一件における過ちに、強情な態度を取るのはよくない。それならばいっそ、こちらから『その事』について切り出したほうがいいだろう。

「あはは、なんてね。うん、こんなアホでバカな僕でも、薄々は分かっているよ。そのラブレターの送り主が誰かって事ぐらい。そして僕が犯してしまった過ちも」

「そ、それは……」

 突然、市川さんがピクリと反応を見せた。賢い彼女の事だ、きっと僕の言わんとしている事を察したのだろう。

「きっと……きっとそれは同じクラスだった――杉原の悪ふざけだって。そう、僕は担がれたんだって。なのに僕唯一のモテ話だと言い張っていたんだ。恥ずかしい過ちさ」

「……え?」

 と、唖然と驚きを交えたような表情を見せる彼女に、僕は続けた。

「でもいいんだ。という事は、事故にあった女の子はいないって事だからね!」

「は、はぁ……プッ……クスッ……クスクスッ……うふふふふふ」

 さっきまで目が点になり、ポカンとしていた市川さんが、急に笑い出した。

「ご、ごめんなさい。私ったら……でも……うふふふ」

 何がおかしかったのかは知らないけど、彼女のかわいい笑顔が拝めるのなら何だっていいや。

「本当に……本当に馳野くんってやさしいんですね」

「そ、そうかな? あははは」

 照れ隠しに、僕もつられて笑う。そのせいか緊張も不安もすっかり解れてきたようだ。

「さぁ! こんな所で隠れてたって仕方が無い。そろそろ勝負に出よう。準備はいい? 市川さん」

「ハイッ!」

「じゃあ、行こうか!」

 そう言って差し出した僕の手を、市川さんは優しく握り返してくれた。


思った通りだった。読み通り、三下教師に守られた裏門が僕達の視界に入る。もうすぐだ、もうすぐ試合終了だ!

 と、喜んだ矢先。とんでもない事態が、僕の網膜に飛び込んできたのだった。

「ちくしょう、こいつは何の冗談だ?」

 市川さんとの楽しい下校時間は、裏門ゲートの影からぬっと現れた人物によって一転。不穏な空気淀む一触即発の戦場と化してしまった。

「これは馳野。アホチームの御大将自らご出陣かね?」

 なぜだかそこには、薄ら笑いを浮かべた鉄壁、セガールの存在があった。おかしい、先生は朝からずっと正門警備のはず。

「くっくっく、馳野よ。どうした、計算が狂ったか?」

 と、背後からこの事態を見越したような台詞が、僕に投げかけれられた。

「お、お前は!」

「先に言っておく、き・の・し・た・だ!」

 ああ、さっきの人だ。だが何故彼が……そして何故セガールがここに?

「フフフ。お前がさっき裏門がどうのと言っていたからな。大塚先生に相談して、ここの警備に就いていただいた。そうとは知らず、のこのこ現れるとはとんだお笑い種だ」

 勝ち誇った顔のセガールと、その他一名。どうやらしてやられたようだ。

 いや、しかしだ。もとより市川さんは助かり、僕は捕縛されると言うシナリオは折り込み済み。何を恐れためらうことがあろうか。

「仕方が無い、僕の負けだ! だが、市川さんだけは見逃してください!」

 なんとも見え透いた自己犠牲の芝居だが、流石のセガールとて元より彼女だけはこっそり逃がす算段だったはず。ならばちょっと臭い台詞だが、彼女を庇ったが故に僕は捕まるんだと言う印象を強烈に植え付け、少しでも市川さんの心象を良く――

「だめだ。何人たりともここを通すわけにはいかんな」

「えっ!」

「何度も言わせるな、二人とも確保してやる!」

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ先生! 市川さんに補習を強いると言うことは、つまり市川家に泥を――」

「悪いな馳野、市川。これは校長命令なんだ。何人たりとも手心を加えるな! とな」

 悔しいが天晴なり、潔癖を誇る使命感だ、易々とここを通さない意気で盛んときている。いや待てよ、他の三下先生達はどうだ? ここは事なかれとセガールを説得してくれるかも知れないぞ。

「他の先生方はどうです? わざわざ飛んで火に入る栗拾い的な事はしたくないでしょ?」

 僕の言葉に一瞬戸惑いを見せた、三下教師達。いいぞ、脈有りと見た!

「教師たるもの、よもや公私を混同なさる事などありませんな? 先生方」

 だが流石はセガール。作り笑いと含みを持った言葉で、睨みを利かせる。だめだ、三下二人はすっかりビビリまくっているようだ。

「と、言う訳だ。馳野、市川。双方共に潔く『私のお縄』につけ」

 前方から殺意をまとった狩人が、にじりにじりと歩み寄ってくる。

「ちょ、先生、話が違いますよ! 市川さんは僕が」

 突然、小学六年生のときに市川さんへラブレターを送った人が、何故だか慌ててセガールに意見する。

「だめだ。お前は一度二人を取り逃がしているのだろ? ならば万全を期すため、私が確保する」

「そ、そんな! せめて市川さんだけは僕の手で」 

「ならん!」

 鬼の形相で迫り寄る先生。僕達の確保まであと一メートル。ちくしょう、ここまでか!

 そんな時だ! 背後から、僕達の脇をかすめ通る影。それはセガールへと食らいつき、先生の足を止めたのだった。

「馳野! 市川さんを逃がせ!」

 あろう事か、敵であるはずの木……そう、木下が、セガールを足止めしているじゃないか! こいつはどうしたことだ?

「早く行け! お前はどーだっていいが、市川さんだけは僕の手で必ず捕まえる。それまでは彼女を連れて逃げていろ!」

 あまりの咄嗟の出来事に、セガールも動揺を隠せない様子。チャンスは今しかない。

「逃げよう、市川さん!」

「は、はい」

「ぬう! 先生方、ここは私が何とかします。あなた方はあの二人を追ってください!」

 校門を守る三下教師達に指示を出すセガール。その言葉に気後れしながらも、教師達が僕らを追ってきた。やばいぞ、どこへ逃げようか?

 

 暑さのピークを迎えた初夏の昼下がりを、だばだばと汗拭く間もなく駆け回る二人。流石に大詰めだけあって、四方八方から巡回中の生徒会執行部の面々が現れて、僕達の退路を閉ざして行く。

 やがて追い立てられるように逃げ込んだ場所。そこは午前中、僕と杉原が友情コントを披露した飛び越え垣の前だった。

 ふと見ると、平野先生の傍らには杉原の他に四名の男子生徒が、恍惚の表情をみせながら荒縄で亀甲縛りという辱めを受けている。まぁ彼等からすれば、そいつは辱めではなく、きっと女王様からのご褒美だと言い張るに違いない。実に関わりあいたくない世界だ。

 そんな理解不能な世界観に思いを馳せている矢先の事。旧校舎の陰から、まるで僕達の到来を待っていたかのように一人の人物が現れ、飛び越え垣への進路上で仁王立ちとなり、行く手を遮ったのだった。

「良くぞこれまで逃げ果せて来た! 至極天晴れである」

 和服姿に威厳をまとい、やけに重圧的な物言いをする爺さんだ。まるで正門前にある胸像のような風体だな、一体誰だ?

「馳野くん、あの方は校長先生ですよ?」

「ぬ? ちぃぃ! そ、そうか二重のフェイントか! 流石は校長先生だ、やるな」 

 ごめんなさい。自分でも何をいっているのか分からない、強引な誤魔化しだって事は分かっています。

「はっ! そ、そうだったんですか! 私には分からない、深い読みの心理戦だったのですね」

 そんな咄嗟の出任せを純粋に信じる市川さんが、少し心配になってきた。おそらく彼女は、訪問販売やネズミ溝に真っ先に引っかかるタイプだろう。

「残るはお前達二人となった。その事に敬意を評し、私自らが直々に『捕縛』してやろう。一年三組、馳野太助。そして――」

 一息の間を置き、校長先生が続けた言葉に、僕は戦慄を覚えた。

「――そして同じく一年三組、市川瑠璃姫太夫」

「――ッ!」

 途端、市川さんの顔色がにわかに青ざめた。

「る、瑠璃姫……太夫?」

 それは僕も『初めて聞いた』彼女の名前だった。

「どうした、聞こえなかったのか? 瑠璃姫太夫よ!」

「い、イヤッ! やめて! やめてください!」

 死の宣告を聞いたかのように耳をふさぎ、蹲る市川さん。そいつはまるで、小学六年生の頃のラブレターを朗読された木下のような、怯えすくみ方だ。

「フッ……己が名前、そこまで忌み嫌うか? 市川瑠璃姫太夫よ。歌舞伎俳優であり、我が親友でもあるその方の祖父殿から賜った名前が、そんなに無様、滑稽か?」

「もう……もうやめてください!」

「お家の力で、小・中学の頃の答案用紙には名無しで通ったろうが、この学園では一切の例外は無いのだ。テストに名無しは即零点、それは己で招いた甘えである。違うかね、瑠璃姫太夫!」

「もう……ゆる……して……」

 肩を小刻みに震わせ、はらはらと涙を零す市川さん。そんな彼女を目の当たりにして――――僕の中の何かがはじけた!

「いいかげんにしろ校長! 市川さんが、市川さんがこんなに嫌がっているだろう!」

 が、僕の怒髪天の怒りにもまったく動じない校長先生。

「愚か者! そんな甘えなど、世に出れば一切通用しないのだ! 己が名を嫌うと言う甘えのみで、社会の秩序を逸脱しても良いとするその考えが実に稚拙! よいか、己に架された呪縛に打ち勝ってこそ、初めて人生に道が開けるのだぞ!」

「ちがう! ちがうちがうちがう!! 問題はそこじゃない! 何故市川さんを泣かせたのかという点だ!」

「何?」

「市川さんのような可憐な乙女を泣かせる事! それは社会に出ようが家庭にいようが、男として、人としてやっちゃいけない事じゃないか!」

「ほう、この私に説教とは。笑止な事」

「自分でも分かっている。僕の言い分は幼稚で自分本位だって事は。でも幼稚だからこそ、それ故、人としての基本! 一番大事な事なんだと思うんだ!」

「む、むぅ」

「それに市川さん、君のその名前。かわいさと威厳を兼ね備えた、すばらしい名前じゃないか! なんと言うか……そう、カッコかわいいと言う奴だよ!」

「は……馳野……くん」

「まぁよかろう。さて、お遊びはここまでにして……そろそろ終幕である!」

 剛声一過、校長が裂帛の気合と共に僕達との間を詰めた。がッ!

「市川さん、ごめん!」

「え? 何? きゃっあ!」

 泣きすくむ彼女をひょいっとお姫様だっこで抱え、校長先生の右横を瞬時にかすめ通り、飛び越え垣へと猛ダッシュを見せた――僕。

「むぅ、なんと!」

 そのままの勢いにまかせ、ブロック塀へと再び足をかけ、今度は怯む事無く焼却炉へと飛び移り、ホップ、ステップ。そしてフェンスの登頂部分に飛び置いた足に踏ん張りを込め――

「どりゃあああああ!」

 ――ジャンプ!

 二メートル五十センチ以上から、市川さんを抱いたままののダイブ。そいつは時間がゆっくり流れるような一瞬。そして数十秒とも思える空中での時間を体感して後の、着地!

「ぐおぉぉぉぉ!! ふんぬっ!」

 ずしいいいいいいいん! と、足からお腹へ、そして肩口から頭のてっぺんまで走り伝わる衝撃を、気合で打ち払う。

「な、なんとやりおった! 女子とはいえ人を抱えてあのような高さから恐れもせずジャンプを見せ、見事着地を図るとは!」

 ――らしい。

 と言うのも、実のところ校長先生への暴言の辺り、いや、市川さんが泣いた辺りから、僕の記憶はぷっつりと途切れてしまっているんだ。とりあえず何かすごい事をやらかしたと言うのはわかった。おかげで一気に変な汗が噴出し、僕は市川さんを抱きかかえたままへなへなと地面にへたり込んでしまった。

 フェンスに駆け寄る校長先生や、平野先生。さらに生徒会執行部の面々と――アホ面で縛られている杉原達。

「おい馳野、市川、大丈夫か! 怪我はないか?」

 (亀甲縛りに真顔で)心配して声をかける杉原の言葉に、ふと我に帰る僕と市川さん。とは言え、いまだ二人とも何が起こったか理解不能だ。お互い顔を間近に見据え、きょとんとした表情を見せている。

「馳野よ。追い詰められて発揮された己の馬鹿力が、知恵も勇気も超越した未知の力が、その奇跡を生み出したのだ! いや真に天晴れである」

 校長先生に言われてふと気がつく。ここは……フェンスの向こう! そうだ、僕達は飛び越え垣を見事飛んで見せたんだ!

「と言うことは、僕達は自由! 僕達の自堕落な……もとい、自由な夏休みは保障された!」

「は、馳野くん! ありがとうございます!」

 喜びの表情と共に、僕に抱きつく市川さん。そんな彼女の歓喜とは裏腹に、半べそで駆け寄ってきた木下が、フェンス越しに叫んだ。

「ちくしょおおおお! 市川さんだけはこの手で、この手で確保したかったのにいいい!」

 やけに執着を見せる奴だな。そんなにラブレターを朗読された事が気に触ったのか? なんとも尻の穴のミクロな奴だ。

「あ、アホ! 違うわ! それとその事は忘れろ! お前の十八番だろ」

「あ、それ無理だわ。一回覚えたら死んでも忘れないからな。その代わりお前の名前も覚えたからいいじゃないか」

「いやもう俺自体忘れてくれていいから!」

「ふぅん、その事じゃないってのか。それじゃ何か他に理由でもあるのか?」

「い、いや……それはだな」

「そうか、お前は知らないんだっけか。この補習免除の逃亡劇で身柄を確保された奴は、捕まえた人が夏休み中、責任を持って補習の面倒を見る。そんな裏ルールがあるんだ」

 と、横から(亀甲縛りに凛々しい表情で)口を挟む杉原。

 ああ、それでいろいろと合点がいった。つまり木下は市川さんと夏休み中ずっと補習……と言うより、二人の仲を補修したかったがため、しつこく付け狙っていたと言う訳か。そして杉原達は……いや、もう彼の事を考えるのはよそう。

「私も知りませんでした。捕まえた人が責任を持って、夏休み中ずっと……ですか」

「そ、そうです市川さん。だから僕はあなたを……」

 そんな木下の言葉を軽く聞き流し、市川さんは校長先生へと尋ねた。

「あの、校長先生! ここは拡張工事の最中で、厳密に言えばまだ学園の敷地内ですよね?」

「む? そういえばそうであるな」 

 と、わざわざ聞かなくていい質問を投げかける彼女。と同時に、僕へと伸びていた腕にぐいっ! と力が入る。

「うっ、い、痛いです市川さん……一体何を?」

「あの、校長先生! 私、『市川瑠璃姫太夫』は、ただ今をもって生徒会執行部に寝返らせていただきます!」

「え! あ! ちょ、ちょっと市川さん! 何を言ってる――」

「フフッよかろう! 認証した!」

 校長のお墨付きが出され、この瞬間『追われる側』から、晴れて『追う側』へとジョブチェンジを成し遂げた市川さん。なんと言う裏切り御免!

「十四時二十分をもって、一年三組馳野太助を確保! さあ、馳野くん。夏休みは私とみっちり勉強に励みましょうね!」

「ちょ、ちょっと待ってよ市川さんんん!」

 僕の華麗な自堕落生活は! 黄金色の夏休みは! 一体どうなってしまうのか!

 誰か……誰か教えてくれ!


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