(3)セックス
記述ルール
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①原著の引用文は、┌---で囲み、引用ページは、《神との対話1- P22》(1~3巻-ページ)と表します。(続編『神との友情』、『新しき啓示』も同じ)
②原著の対話形式は、神:、ニール: のように発言者名を文頭に記し、表します。
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〔5 生 活 (3)セックス〕
┏━あらすじ━━
・キリスト教では、セックスは原罪を負った人間を繁殖する邪悪な行為で、生殖を意図する以外は、避けなければならないとする。
・『神との対話』では、セックスは、決して忌むべきものではなく、人生における生活体験のひとつであり、セックスを通して神性のどの部分を体験するかが大切なことだとする。
・セックスは自然の営みで、何ら恥ずべきものではない。
・セックスを恥ずべきものと説いたのは、宗教だ。
・その無邪気さ、美しさをこわさないように、心身ともの愛の表現として、セックスを楽しみなさい。
・セックスを楽しんでも、それにおぼれないようにしなさい。
・生殖を意図する以外にセックスをしてはいけないことはない。
・生殖のためだけにセックスをするというなら、今は、試験管内でも子供ができるようになっている。
・『神との対話』では、キリスト教では罪とされる「自慰」について、罪ではなく、自分を愛することの1つの表現だという。
・高位のマスター(師)が禁欲をするのは、もうそれは充分だからと、単純に手放しているだけ。
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[5-(3)-1]《アダムとイヴの行為は原罪ではなく、じつは最初の祝福だった》
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アダムの堕落と説明されているものは、じつは向上だった。人類の歴史で最も偉大な出来事だった。
それがなければ、相対性の世界は存在しなかっただろう。アダムとイヴの行為は原罪ではなく、じつは最初の祝福だったのだ。
あなたがたは、彼らがはじめて「間違った」選択をしてくれたことを心の底から感謝すべきだ。アダムとイヴは、選択を可能にしてくれたのだから。
《神との対話1-P80》(一部略)
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はじめに、キリスト教の教義における「セックス観」をまとめてみます。キリスト教の教派によって、多少の差異があることはいうまでもありません。
① 旧約聖書の『創世記第2章』に、人間始祖の堕落の顛末が書かれています。
人間始祖の男性アダムと女性エバ(イブともいう)は、エデンの園で、神から「取って食べてはならない」と言われた善悪を知る木の実を、ヘビにそそのかされてエバが取って食べ、そしてアダムに与えてアダムも食べた。
② 「取って食べてはならない」という神の戒めを守らない(信じない)という罪を、アダムとエバが犯し、それが人間の罪のもと(原罪)となった。
③ エバは人間堕落の首謀者である。
④ アダムとエバから生まれたすべての人類は、生まれながらにして人間始祖の原罪を受け継いでいる。
⑤ その原罪を贖う(あがなう)ために、神から遣わされたイエス・キリストを信ずることによって、人間の原罪は許され、天国に行くことができる。
⑥ セックスは、原罪を負った人間を繁殖する行為、すなわち原罪を繁殖するものなので、生殖を意図する以外は、避けなければならない邪悪な行為である。
⑦ カトリックの指導者は、独身でなければならない(司祭独身制)。女性の司祭は認められない。
⑧ 歴史上のキリスト教指導者のうちで、「神の国が築かれるのは、すべての者が独身生活を送って人類が滅亡したあとである」と主張した者もいた。
以上のようにキリスト教では、「セックス」を忌むべき邪悪な行為ととらえているのです。
『神との対話』では、キリスト教の『原罪』教義に対して、エデンの園の神話の本質は人間の堕落ではなく、「神の最初の祝福」を表現しているといっています。
人間は、人生の中で神性を体験していきます。魂の宿った最初の人間は、現実の相対的世界で、ゼロから神性の体験を始めるのです。
善悪を知る木の実を食べたということは、相対的世界での様々な体験を人間が開始したという、祝福すべき船出を意味しているのです。
すなわち、自らの自由意志でなすべき行為を選択し、神性を体験していく者(善悪を知る者)になったという祝福だというのです。
したがって、キリスト教でいう原罪は人間にはありませんから、セックスによって原罪が伝播していくこともありません。
『神との対話』での「セックス観」は、セックスは決して忌むべきものではなく、人間の遺伝子に組み込まれた自然な生命の営みであるというものです。
したがってセックスは、他の体験と変わりない、人生における人間の生活体験のひとつであり、セックスを通して神性のどの部分を体験するかが、大切なことだというのです。
[5-(3)-2]《セックスは大いなる愛の表現である》
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相寄ってひとつになりたいという激しい切実な欲求は、生きているものすべての本質的なダイナミズムだ。
セックスは大いなる愛の表現である。
わたしはあなたがたに恥ずべきことは何も与えていない。ましてあなたの身体や身体の機能を恥ずかしがることはない。
《神との対話1-P282》
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他者を傷つけることになるなら、どんな行動も成長を早めることにはならない。
他者と関係するどんな行動も、他者の合意と許可なしにはしないこと。
《神との対話2-P141》(一部略)
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セックスは、「ひとつになりたい」という人間の遺伝子に組み込まれた欲求を実現する、自然の営みです。人間だけでなく、生きるものすべての本質的な営みなのです。セックスは何ら恥ずべきものではありません。
セックスという行為だけではなく、人体の生殖器、性機能についても同じことがいえます。
神はセックスを楽しみなさいといっています。ただし、その無邪気さ、美しさをこわさないようにしなさいといっています。
さらに、何事においても相手の合意と許可なしには、すべきではないともいっています。
セックスを恥ずべきもの、忌むべきものと説いたのは宗教(キリスト教)なのです。
キリスト教では、「セックス 1」で書きましたように、人間の堕落によって生じた原罪を、セックスは伝播するという観点からセックスを罪悪視しています。
歴史的にキリスト教が世界中に広まるとともに、反セックスの倫理観が、世界に形成されていったのです。
その教義を基に築かれた倫理観が、家庭教育、学校教育を通して、セックスに対する罪悪感を、ひそかに人間に植え付けてきたといえるのです。
[5-(3)-3]《何をするにしても、あなた全体として、あなたの総体として行いなさい》
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セックスでも、朝食でも、仕事でも、浜辺を散歩するのでも、縄跳びをするのでも、良い本を読むのでも、何をするにしても、あなた全体として、あなたの総体として行いなさい。
《神との対話3-P193》(一部略)
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セックスだけでなく、何をするにしてもあなたの総体として行いなさいと神はいいます。
これは、「今」という一瞬一瞬を、大切に全力で生きなさいという言葉と同じものです。
肉体的のみで行うセックスは、セックスのすばらしい性質、心身ともに「ひとつになる」という最高の部分を、体験しそこなってしまいます。
あなた全体として、心身ともの愛の表現として、セックスを行いなさいと神は勧めているのです。
[5-(3)-4] 《よくないのはセックスにおぼれることだ》
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セックスを愛することはちっともかまわないんだよ!それに、自分自身を愛することも、ぜんぜんかまわない。それどころか、務めですらある。
あなたがたにとってよくないのはセックスに(いや、何にでも)おぼれることだ。
《神との対話2-P111》(一部略)
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セックスを楽しんでも、おぼれないようにしなさいといっています。セックスだけでなく、何事にもおぼれてはいけないのです。
おぼれるとは、「神性を体験している自分である」という自覚を失うことです。
現実世界のいろいろな経験を通して、自分は神性を体験しているということを忘れると、現実世界の出来事にほんろうされ、自分を見失って迷子になってしまいます。
現実世界の出来事は成長のツール(手段)であって、目的ではありません。目的は神性を体験して、自分が成長することなのです。
迷子になると、虚無感、厭世観にさいなまれ、自暴自棄に陥ってしまいます。
毎日を惰性で過ごすのではなく、意識して生きなさいともいっています。それが神に近づく最高の近道だというのです。
[5-(3)-5]《赤ちゃんをつくるためだけにセックスするというのは幼稚だ》
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男性と女性は……かたちに現れた陰と陽だ。陰と陽のたくさんの物理的なかたちのひとつだ。
すべては、あなたが知っている生命を体験するために必要なのだ。
《神との対話2-P118 》
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生殖は、人間の性体験の幸せな結果であって、事前にもくろむことではない。赤ちゃんをつくるためだけにセックスするというのは幼稚だ。
《神との対話2-P119 》
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セックスは「出産システム」にすぎないのなら、もう必要はないだろう。
試験管のなかで生命の化学的要素を合体させることもできる。
《神との対話3-P191》(一部略)
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キリスト教では、セックスは、生殖を意図する場合のみに許されるとされています。極端な教義では、結婚した夫婦間でのセックスも、罪とされたことも過去にはあります。
『神との対話』では、セックスは「ひとつになりたい」という、生命の自然な欲求の表現であるとしています。
相対的世界(現実世界)では、相対するものは引きつけ合い、ひとつになろうとする性質があります。電気のプラスマイナス、磁石のN極S極などが、分かりやすい例でしょう。
ひとつになりたいという欲求の結果として新しい命が生まれるのであって、生殖を意図するからセックスをするのではありません。生殖を意図しなければセックスをしてはいけないということはないのです。
もし生殖のためだけにセックスをするというなら、今は、試験管内でも子供ができるようになっていると、神はいっています。
食事を例えにして考えてみると、それは理解できます。私たちは食物から栄養を取るためだけに、食べているのではありません。
おいしいという楽しみ、喜びのために、いろいろな料理を作って食べています。ただ栄養のためだけというなら、宇宙食のようなものでもこと足りるのです。
セックスも人生における体験の1つであり、セックスを通してさまざまな出来事を体験し、それに伴って神性を体験していくのです。
[5-(3)-6]《タントラの行者は、あなたがたのなかでは罪とされることがある自慰を奨励した》
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自分にたっぷりと喜びを与えなさい。そうすれば、他者にもふんだんに喜びを与えることになるだろう。
タントラの行者は、そういう意味でセックスを知っている。だから彼らは、あなたがたのなかでは罪とされることがある自慰を奨励した。
そんな体験のことを(みんな体験しているはずだが、誰も語りたがらない体験だね)もち出したのは、もっと大きなことを説明するためだ。
大きなこととは何か。「自分にありあまる喜びを与えなさい。そうすれば、ひとにもありあまる喜びを与えられるだろう」ということだ。
《神との対話2-P113》(一部略)
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『神との対話』では、キリスト教では罪とされる「自慰」についても、語られています。
その神の言葉に、「自慰ですか?驚いたな。ずいぶん、思いきったことをおっしゃいますね」と、ニールが驚いています。
タントラ(Tantra)とはサンスクリット語で、インドに古くから伝わる宗教の経典のことをいいます( Wikipedia参照)。
タントラの修行者を例えにして、自慰は罪でも何でもなく、自分を愛することの一つの表現だというのです。
ちなみに、動物たとえば猿が自慰行為をすることは、動物学者の観察によって確認されています。
『神との対話』が一貫して強調していることは、「自分を愛しなさい、大切にしなさい」ということです。そしてその自分という定義を、自分の家族、自分の隣人、自分の社会というように広げなさいといっています。
それが、イエス・キリストの説く「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(新約聖書マタイによる福音書第22章39節)という聖句に、表わされているのです。
[5-(3)-7]《高いレベルの理解に達したひとたちは、肉体的欲求と精神や肉体のバランスをとりたいと考える》
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高いレベルの理解に達したひとたちは、肉体的欲求と精神や肉体のバランスをとりたいと考える。
欲しいのを我慢して無理にあきらめるのではなく、「もってもしかたがない」と知っているだけだ。単純に手放し、遠ざかるのだ。
デザートのおかわりをしないのと同じだ。デザートがまずかったからではない。身体に良くないというのでもない。おいしいけれどもう充分だ、というだけだ。
《神との対話2-P137》(一部略)
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著者ニールは、セックスが素晴らしい人間体験ならば、多くのマスター(師)、修行者はどうして独身を貫き、禁欲を勧めるのかと、問います。
神は、「禁欲が霊的な成長の唯一の道だと考え、1つの可能性にすぎないとは考えないからだ。性的エネルギーは強力なため、バランスをうまく取るには難しいと考えているからだ」と答えています。
さらに、高度な成長を遂げたマスターが禁欲をするのは、我慢しているのではなく、もうそれは充分だからと、単純に手放しているだけだと、答えています。
[5-(3)-8]《禁欲よりセクシュアルな行動のほうが悟りや霊的な成長から遠いわけでもない》
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禁欲よりセクシュアルな行動のほうが、悟りや霊的な成長から遠いわけでもない。
悟りや成長を遂げたときに消えるのは、セックスに溺れること、根深い欲望、衝動的な行動だ。
金や権力、安全、所有、その他の肉体的な体験についても同じで、そうしたものへの惑溺は消滅する。だが、それらに対する真の評価は消えないし、消えるべきでもない。
わたしは軽蔑すべきものなど、何も創造しなかった。
《神との対話2-P140》(一部略)
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性的な表現が霊的な目覚めを妨げるというのは真実ではない。 それがどんなにひんぱんでもね。
《明日の神P399》
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『神との対話』では、悟りや霊的な成長のためには、禁欲するのが良いわけではないといっています。
セックス、金銭、権力、所有、その他の肉体的物質的な体験は、神性の体験の一部であり、自分の成長にとって不可欠なものなのです。決して邪悪なものでも、避けるべきものでもありません。
ただそこには、「溺れないこと」「他人を傷付けないこと」という2つの原則があります。
溺れることとは、自分ではなく物事が主体で、物事に自分が従属(依存)することです。溺れると自分を見失ってしまい、成長が障害されてしまうのです。
それを『明日の神』には、次のように書いてあります。
┌《明日の神P399》
何かをあまりに強調しすぎるとバランスが崩れて、エネルギーが涸渇するというのは、ほんとうだ。
仕事のしすぎ、食べすぎ、飲みすぎ、糖分のとりすぎ、ガーデニングのしすぎ、ボウリングのしすぎ、泳ぎすぎ、テレビの見すぎ、ニンジンジュースの飲みすぎ、セックスのしすぎ……何だってやりすぎればー霊的修行だってやりすぎればーバランスが崩れる。
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さらに、すべてのことは、他人の合意と許可のもとに行い、他人を傷付けたりしないことが大切なことなのです。
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* 〈いのうげんてん〉からのお願い:神・生命に関心のおありの方に、当ページを紹介いただけましたら嬉しく存じます。→http://ncode.syosetu.com/n6322bf/
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