表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『神との対話』との対話  作者: いのうげんてん
2章 『神との対話』-私なりの説明
46/235

  (5)堕落・原罪・地獄

記述ルール

────────────

①原著の引用文は、┌---で囲み、引用ページは、《神との対話1- P22》(1~3巻-ページ)と表します。(続編も同じ)

②原著の対話形式は、神:、ニール: のように発言者名を文頭に記し、表します。

────────────


〔3 人 生 (5)堕落・原罪・地獄〕


┏━あらすじ━━


 キリスト教では、人間始祖のアダム(男)とイヴ(女)が、神から「取って食べてはならない」と言われた善悪を知る木の実を、ヘビの誘惑によって食べるという罪を犯し堕落したため、それ以後の子孫は、生まれながらに原罪を負っている、と説いている。


 霊界には、天国と地獄の場所があり、その中間に、煉獄、リンボーがある。


 『神との対話』では、人間始祖が善悪を知る木の実を食べたということは、人間がその自由意志によって相対的世界の体験を始めた、という神の最初の祝福を表現し、人間始祖の堕落はなく、人間に原罪はない、としている。


 霊的世界には天国のみがあり、場所としての地獄はない。地獄は、低位の魂が自分自身で創り出し、経験するものだ。


┗━━━━━━━


[3-(5)-1]《アダムとイヴの行為は原罪ではなく、じつは最初の祝福だった》


┌----------

 アダムとイヴはこれは単に、最初の男と最初の女にあなたがたの神話が与えた名だが人類の経験の父と母である。


 アダムの堕落と説明されているものは、じつは向上だった。人類の歴史で最も偉大な出来事だった。


 それがなければ、相対性の世界は存在しなかっただろう。アダムとイヴの行為は原罪ではなく、じつは最初の祝福だったのだ。


 《神との対話1-P80》

└----------


 『旧約聖書』の創世記第3章には、人間の始祖であるアダム(男)とイヴ(女)の失楽園の物語が書かれています。


 それを要約すると、


┌-----

 アダムとイヴは、エデンの園で、神から取って食べてはならないと言われた『善悪を知る木の実』を、ヘビの誘惑によって食べてしまうという罪を犯すことによって堕落し、神によってエデンの園(地上天国)から追放された。


 ヘビ(天使を象徴している)は堕落して悪魔となり、堕落したアダムとイヴの子孫 (すなわち全人類)は、神の戒めを破ったという罪すなわち原罪を、生まれながらにして負っている。

└-----


となります。


 キリスト教カトリック教義では、神の創造した宇宙は地上界と霊界から成り、人間は、地上界の人生を通して人格を完成して地上天国を築き、死んだ後、霊界に天上天国を築くように創造されたとなっています。


 ところが、エデンの園における人間始祖の堕落という出来事によって、天国への道は閉ざされたのです。


 人間始祖の堕落により原罪を負った人間が繁殖し、地上界を支配することにより、地上、天上ともに天国の実現が不可能となったのです。


 『神との対話』では、「エデンの園の神話」は、人間始祖の堕落ではなく、神の「最初の祝福」を意味しているといっています。


 魂が宿った人間は、現実世界の人生の中で様々な出来事に遭遇しながら、無数にある神性を体験していきます。


 アダムとイヴで象徴される最初の人間は、相対的な世界(現実世界)で、ゼロから神性の体験を始めたのです。


 聖書にある「善悪を知る木の実を食べた」という出来事は、相対的世界で、人間が善なることと悪なることを自らの自由意志で選択し経験し始めたという、祝福すべき船出を意味しているのです。


 従ってその行為は、神性を体験するという神の創造目的にかなったことであり、決して創造目的を毀損するという堕落を意味してはいないのです。


 人間始祖の堕落はありませんから、キリスト教教義で説かれる、「原罪」や「悪魔」、「地獄」は存在しないのです。


[3-(5)-2]《地獄はあなたがたが空想するような、永遠の業火に焼かれるとか、際限のない苦悶にさいなまれるとか、そういったものではない》


┌----------

 地獄はあなたがたが空想するような、永遠の業火に焼かれるとか、際限のない苦悶にさいなまれるとか、そういったものではない。


 不幸で、不完全で、欠点が多く、神の偉大な喜びから遠く離れた魂の経験というものはある。あなたがたの魂にとってそれは、地獄だろう。


 あなたがた自身が、真の自分ではなくなるとき、自分で地獄の体験を創り出す。


 《神との対話1-P60》

└----------


 キリスト教の教義では、この世(地上界)で、悪事を行った人間は、死んでから霊界に存在する地獄に行くといっています。霊界には、天国と、悪魔が支配する地獄の二極の領域(場所)があるのです。


 そしてキリスト教の教義では、天国と地獄の中間には、煉獄、リンボーがあるとされています。


 地獄は、殺人、盗みなどの大罪を犯した人間が行く、永遠の苦しみを味わう領域で、煉獄は、悪事を行っても完璧に罪を悔い改めた場合、罪を清めるために行く領域です。


 リンボーは、悪事を行なってはいないが、クリスチャンの洗礼を受けずに死んだ人間が行く領域です。


 『神との対話』では、霊的世界には天国のみがあり、キリスト教が説くような地獄はないといっています。


 地獄は、霊的世界の場所として存在するものではなく、低位の魂が自分自身で創り出し、経験するものだというのです。


 霊的世界では、思考が、即、現実となりますから、魂の成長レベルに合わせた現実が展開されます。


すなわち、地獄という場所はないが、地獄の経験はあるのです。



----------

*〈いのうげんてん〉からのお願い:神・生命に関心のおありの方に、当ページを紹介いただけましたら嬉しく存じます。→http://ncode.syosetu.com/n6322bf/

----------


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ