5-7 《セックスは大いなる愛の表現である》
しょう子:じゃあ、『神との対話』では、セックスはすばらしいものだといっているのね。
A:そう。セックスは人間の遺伝子に組み込まれた、「ひとつになりたい」という欲求を満たす、自然な営みなんだ。
人間だけでなく、生きるものすべての本質的な営みなんだよ。
しょう子:恥ずかしいものではないのね。
A:セックスは何ら恥ずべきものではない。
セックスという行為だけでなく、身体の生殖器、性機能についても同じだよ。何ら恥ずべきものではない。
しょう子:なぜ恥ずかしがるのかな。
A:セックスは恥ずかしいものと教えられたからだ。教えたのは宗教(キリスト教)なんだ。人間の堕落によって生じた原罪を、セックスは子孫に伝えるという考えからセックスを罪悪視している。
歴史的にキリスト教が世界中に広まるにつれて、その反セックス的な倫理観も広まり、家庭教育、学校教育を通して、セックスに対する罪悪感を、ひそかに人間に植え付けてきたといえるんだ。
しょう子:ひそかに植え付けられたの。
A:そうだよ。神はセックスは罪だなんていっていない。セックスはすばらしい人間体験だといっている。
そしてみんなも内心そう思っているし、感じている。
なのに子供の頃、性について興味を持ち出すと、「それはいけないこと」と親はしかったり、かくしたりして、そのすばらしさを教えようとはしない。
しょう子:なぜなんだろう?
A:それは、先にもいったように、親もそう教えられてきたからだろうね。
もう1度いうけど、セックスはすばらしい人間体験だと神はいっている。
セックスを楽しみなさいとさえいっているんだ。その無邪気さ、美しさをこわさないように、セックスを楽しみなさいといってるんだ。
しょう子:楽しみなさい、と。
A:ニールは神に質問している。
「どうして、セックスをあれほどすばらしく、めざましく、力強い人間体験になさったんですか?」
神は答える。
「セックスを支えるエネルギーは、人生を支えている。それが生命だ!互いに感じる魅力、相寄ってひとつになりたいという激しい切実な欲求は、生きているものすべての本質的なダイナミズムだ。
わたしは、それをすべてに組みこんだ。「存在するすべて」に生まれつき備わった、本質的なものだ。
あなたがたがセックスのまわりに(それに愛のまわり、生命すべてのまわりに)築いた倫理規範、宗教的制約、社会的タブー、習慣のせいで、自分の在り方を祝福できなくなっている。
時のはじめから、すべての人間は愛し、愛されたいと望んできた。時のはじめから、ひとは愛し愛されることを可能にするため、力のかぎり、あらゆることをしてきた。セックスは大いなる愛の表現である。
わたしはあなたがたに恥ずべきことは何も与えていない。ましてあなたの身体や身体の機能を恥ずかしがることはない。身体や身体の機能を隠す必要はない。身体や身体の機能への愛も、互いへの愛も隠す必要はない」《神との対話1-P282》
こうして、『神との対話』のセックス観が語られていくんだ。
〈つづく〉
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