表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『神との対話』との対話  作者: いのうげんてん
1章 入門編 よくわかる『神との対話』
21/235

5-6 《セックスは自然な生命の営みだ》

A:キリスト教では、失楽園の話しを根拠に、セックスは邪悪な行為とみなしている。


 しょう子さんはこれをどう思う?


しょう子:聖書にそう書いてあるなら、クリスチャンは信じるしかないよね。


A:そうだね。信仰とはそういうものだからね。


しょう子:『神との対話』ではどういっているの?


A:キリストカトリックと『神との対話』のセックス観の違いを比べてみると、実におもしろいよ。


 さっき話したキリスト教の教えにそって、『神との対話』のセックス観を見てみるよ。


 その1 キリスト教では、失楽園の話しは人間の堕落としているが、『神との対話』では、「神の最初の祝福だ」といっている。


しょう子:堕落と祝福では大違いね。


A:『神との対話』では、人生の目的は何だといってたかな?


しょう子:人生の中で神性を体験していく。


A:そう。人生の中で神性を体験していくのが、人生の目的だったね。


 すると、魂の宿った最初の人間は、相対的な現実世界で、ゼロから神性の体験を始めることになるよね。


 「善悪を知る木の実を食べた」ということは、相対的世界で様々な体験を人間が始めたという、祝福すべき船出を意味しているというんだよ。


しょう子:善悪も相対的なものなのね。


A:そのとおり。


 「善悪を知る」とは、自由意志で、自分のしたい行為を選択し、神性を体験していくことを意味してるんだ。アダムとエバは、それを可能にしてくれたというのだよ。


しょう子:じゃあ、堕落はないの。


A:そう。キリスト教でいう堕落も原罪もない。だからセックスによって、子孫に原罪が伝わるということもない。


 『神との対話』での「セックス観」は、セックスは決して邪悪なものではなく、人間の遺伝子に組み込まれた自然な生命の営みだというものなんだ。


しょう子:キリスト教とは正反対なのね。


A:セックスは邪悪どころか、他の体験と何ら変わりのない、人間の生活体験の大切なひとつなんだよ。


 本質論的にいえば、「セックスを通して神性のどの部分を体験するか」が、大事なところなんだね。


〈つづく〉


*〈いのうげんてん〉からのお願い:神・生命に関心のおありの方に、当ページを紹介いただけましたら嬉しく思います。→http://ncode.syosetu.com/n6322bf/




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ