七話
吉村くんの背中を見つめながら歩く最中、リストバンドの奥でちりちりと痺れるような、むず痒いような感触があったので思いっきり掻き毟りたかったけど、傷跡が残るのは嫌なので我慢した。
吉村くんの迷いのない足取りから察して、行き先はすでに決まっているものと思われる。まあ、わざわざメールまで寄越して、さらに学校にまで迎えに来るのだから、目的地が決まっていないと困るんだけど。
市の中心街まで歩くと、徐々に人の流れとすれ違うようになっていく。ささやかな帰宅ラッシュだ。前方の吉村くんを見失わないよう、自分は少し小走りになる。そこで、急に彼が足を止めた。
自分たちの視界の先には、小柄な公立図書館があった。テラス付きのカフェが併設された図書館。入り口のそばにはこれ見よがしに『館内禁煙』と大きく書かれて、さらにその注意書きを強調するように、大きく赤い円が文字を囲んでいた。喫煙への迫害意識はとくにこういった公共施設では根強い。もしここで、たとえば堀ちゃんなんかが素知らぬ顔で煙草を吸いながら、ふらりと入館してしまえばどうなるだろう。堀ちゃんならありえる。たぶんこわい職員さんや警備員さんが出てきて、本の角っこで彼女を殴りにくるんだろう。赤色で描かれた文字や模様は、そのほとんどが禁止事項や危険告知の役割を担っている。赤とはそういう色なのだ。だからここで煙草を吸えば、利用者はきっと酷い目に合う。
くだらないことを考えていたら、いつの間にか吉村くんがこちらを振り返っていて、「なにをぼうっとしているんだこの子は」みたいな急かす視線を浴びせてくるので、自分は無言で首を振って館内に入った。
受付を横切ると自習コーナーがあり、促されるままにひとつのテーブルに着く。真向かいに吉村くんが座る。にっこりと笑って、
「咲子さんって、驚くほど口数少ないよね」
それについてのコメントが浮かばなかったから、ポケットから手まり飴を二つ出して、片方を口に放り込んで淡い砂糖の甘さに舌鼓を打って、もう片方を吉村くんに手渡した。「これおいしいよ」。彼は、この会話の噛み合わなさ具合に全く疑問を抱いていないように、もう一度愛想笑った。
自分と同じように手まり飴を口に含んで、「いきなり何かと思ったけど、ふつうの飴だね」と当たり前のことを言った。
「どうして僕が君をここに連れてきたのか、聞かないの?」
そういうことか、と納得。
「なんで自分をこんなところに連れてきたの?」
油の切れた機械のような口調で、一応聞いてみた。吉村くんは頬の裏で手まり飴を転がした。
「君に紹介したい人がいるんだ。じつはもう呼んである」
「だれ?」
「咲子さん、今あの漫画持ってる?」
あの漫画。ひとつ思い当たるといえばあるけど、今は持っていない。それに、本当にあの漫画のことでいいんだろうか。適当に勘ぐってまた話がすれ違うのも面倒なので、かまととぶって黙りこくる。吉村くんは、了承した、という風にうなずいて鞄から一冊のファイルを取り出した。
「少女レゾンデートル。知ってるよね」
そのファイルを受け取って中を閲覧すると、たしかに少女レゾンデートル。表紙でロシアン帽の女の子が奥ゆかしい無表情をたたえている。自分が以前そうしたように、web掲載されたものを一般のプリンターで印刷しているようだ。さらに薄気味悪いことに、閉じられたブルーのファイルも自分が使っていたのと同じメーカーだった。あたしのはピンクだから、色違いだけど。
「それのピンクが売ってなくてね。まぁ、それでもペアルックみたいだからいいけど」
全身に鳥肌が立ちそうだった。
「どうして自分がこの漫画を読んでいること、知ってたの?」
「だって君、街中歩きながらたまにそれ見てるじゃないか。隠れて読んでいるつもりだろうけど、僕を見くびっちゃいけない」
「だからって、なんでこのファイルまであんたとペアルック? 意味わかんない」
自分が無造作につき返したファイルを、彼は無駄に流麗な動作で手にして鞄にしまいなおした。
「話を戻そうか」あたしの切実な疑問は解消されないまま受け流される。「紹介したい人というのはね、この漫画の作者の――」
そこで言葉が切られる。吉村くんがふいに顔を背後に向けた。
吉村くんの斜め後ろに、彼と同じ中学の学ランを着た男の子が立っていた。吉村くん同様に細く形取られた瞳だが、吉村くんの優しげな目つきとは違って、氷のように鋭い。社会全体を見下しているような眼差しだ。黒ぶち眼鏡によって余計他人行儀さを感じさせる。彼が小脇に抱えた本の背表紙を注視すると、この図書館から持ち出した『太宰治全集Ⅲ』だと分かった。
黒ぶち眼鏡の男の子は吉村くんを見下ろして数秒間固まり、あたしをちらりと見た。だれだこいつ、とでもいうような顔で。しかしかたく結ばれた唇は解かず、無言で吉村くんのとなり、すなわちあたしの斜め前の椅子に腰をおろした。興味がないというように、ハードカバーから『太宰治全集Ⅲ』を抜いて適当なページを開く。
図書館をしずかに使いましょう、というマナーに乗っ取って、まさに百点満点を体現したみたいな男の子だった。
吉村くんが手のひらで彼を指した。
「ちょうどいいね。彼が少女レゾンデートルの作者の弟さん。ほら堤くん、自己紹介」
そうやって紹介されたのに、すすんで喋ろうとしない彼を見かねて、
「こちら堤信吾くん。ちょっと今日は機嫌が悪いみたいだけど」
と、吉村くんはちょっと苦笑いで言った。