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六話

 家に帰ると、救急箱から消毒液と絆創膏を見つけ出した。

 結局あれから七回ほどボーダーラインを行き来したので、左の手首には七つの小さな刺し傷が残った。密集したそれらの傷は何かの星座のように見えなくもなかったが、天体の知識が乏しい自分には適切なレトリックを引き出せなかった。

 ガーゼに消毒液を垂らして傷全体に伸ばしていく。絆創膏では七つ全ての傷を覆うことは出来なさそうだったので、包帯を二周ほど巻いた。自傷が趣味の痛い子みたいな手首になった。部屋に戻って、半年前に買ったきり使う機会のなかった赤いリストバンドを探り出して、包帯を隠すようにして着けた。

 リストバンドの上から表面を撫でつけると、それぞれの傷がちくりと痛んだ。ベッドに腰掛けながら、しばらくその感覚を楽しむ。飴を舐めるのも忘れて、時間が許すかぎり楽しんだ。

 翌日の朝にはだいぶ痛みも引いていたのだが、それよりリストバンドを着けたまま登校するのは校則的にどうだろうと今さら悩んだ。

 実際、今朝早くに廊下で教頭先生と出くわし、リストバンドについて注意されてしまった。

「ファッションは個々の自由だが、一応ここは学校だからな。先生も一人一人の個性を尊重したい気持ちは大いにあるが、つまり、なんだ」

 要領を得ているのか得ていないのかよく分からないお説教をして、少し口ごもる。黙って教頭先生を見上げていると、先生は気まずそうにおほんと咳ばらいをした。

「とりあえず、外したらどうかな」

 外しなさいじゃなくて、外したらどうかな。気の弱い教頭だなと思った。でも調子に乗って反抗するのもどうかと考えて、自分は軽くうつむき、恥ずかしそうに両手を前で組んで指をいじった。そういう演技をしてみせた。

「昨日料理に挑戦してみたんですけど、失敗したんです。包丁の持ち方が変だったみたいで、落としちゃって、手首を怪我しちゃって……。でも自分、友達にはいつも、あたし料理うまいんだよって自慢してるし……」

 教頭先生は目に見えて慌てていた。あたしがそのうち泣き出すとでも思っているらしい。廊下を通り過ぎていく生徒たちの視線も、明らかに自分たちに集まっていた。

「そういうことなら、まぁ情状酌量だな。うん、分かった分かった。教師陣には私から伝えておくから。そのかわり、傷が治ったら必ず外しなさい」

「はい……」自分でもびっくりなくらい、しおらしい声が出た。

 教頭先生はしばらくあたしのうつむき顔をのぞき込んでいた。まだなにかあるのだろうか。うんざりしつつも演技を続けた。やがて彼は、心配そうに声をひそめる。

「なにか悩みがあるなら、誰かに相談しなさい。教師じゃなくてもいい。友達や家族でも。本当に信頼できる人なら誰でもいいから」

 そしてあたしの肩をぽんと叩き、廊下を去っていった。ため息を吐く。きっと教頭先生は、自分が先日部活をいきなり辞めたことを聞いて、それを引き合いにいらぬ杞憂を起こしているんだろう。本気で可哀想な子認定されそうな気がしてきた。リストバンドを撫でながら自分は教室に入った。

 扉を開けた瞬間、教室の喧噪がなだれ込んでくる。「さっきぃおはよう」と、何人かのクラスメイトが声をかけてくる。適当にあいさつを交わしながら早急に自分の席について、手首のことを指摘されないようそれとなく机の下に隠した。

 本当に信頼できる人。そんな人、いたっけ。

 少なくともこの教室にはいないだろう。現状、自分はこのリストバンドをなるべく目立たないよう努めている。追究されるのは面倒だし、また、知ってほしいとも思わない。

 そういう意味では、自分にとって、このクラスには表面的な繋がりしかないらしい。こうした一線を引いていたことに気づけるのは新鮮で、新しい発見でもあった。こんな大事なこと、機会がなければ認知すらできないんだな、と密かにほくそ笑む自分だった。



 放課後になって改めて校舎を見上げると、仰々しいまでの垂れ幕が掛かっていた。

『祝 全国中学柔道 個人出場!』

 四十キロ級に堀ちゃん、五十五キロ級に幸司くんの名前がある。自分が部活を引退してから数日後に行われた予選を、見事二人のエースは通過したらしいが、あれから堀ちゃんや幸司くんには会っていなかったし、それとなく自分に気を使う知人たちは柔道に関した話題をあげてこなかったので、これは初耳だった。あの二人のことだから意外でもなんでもないけど。

 携帯電話を開くとメールが一件届いていた。見覚えのないメールアドレス。件名に『吉村浩介です』と表示されていて、心臓が跳ね上がりそうだった。

 どうして、あたしのメールアドレスを知っている?

 本文を開くと一行目に『学校は終わりましたか?』とあって、二行目に『迎えに行きます』と書かれていた。かなり一方的だ。しかし、吉村くんはあたしがどこの中学に通っているか知っているのだろうか。憶測だけど、吉村くんは自分と同じ中学生だろう。廃墟の屋上で数回ほど会った程度だが、恐らく彼も近所に住んでいて、たぶん真白ヶ丘市民。

 そういえばと思い返すと、吉村くんは初見からあたしを知っていたようだった。あれは間違いなく初対面だったはず。あんな不思議なオーラを持つ人、一度でも会っていれば忘れるわけがない。自分は無意識下、見えない煽動を前にあえて事情を聞かず、涼しい顔で彼に迎合したが、こんなメールまで来ると流石に不信感を拭えない。

 自分を知る何者かが陰で吉村くんとつながっている。明白だ。ちょっと気分が悪いけど、それが誰なのかは大体検討がつく。自分はただ、知らん顔でその何者かの帳尻合わせに付き合うだけだった。

 となれば、こんなところでぶらぶら歩いている暇はない。自分は急いで校門へ向かった。

 途中、校庭の隅には鉄棒があり、数人の女子がたむろして談笑していた。その中に清美がいて、彼女は鉄棒に肩を預けてひまわりのように微笑んで垂れ幕を指さしていた。結構久しぶりで、もっと言えばあたしが部活を辞めた日ぶりだった。清美に気付かれないうちにさっさと学校を出てしまおうと思ったのだが、とても運悪く見つかってしまった。彼女は同窓会で再会した旧友を見るかのような輝かしい瞳をたたえて、あたしに手を振った。友達数人に別れを告げて、早足で自分を追いかけてくる。

「さっきぃ先輩!」

 聞こえないふりをして、自分は足を早めた。ほとんど走っているんじゃないかというほどに。そのまま門をくぐる。横をちらりと見ると、校舎にかかっていた幕の横書きバージョンが、フェンスにすらりと伸びていた。恐る恐る前を見ると、見慣れない制服を着た男子が道の先に見えた。距離にしておよそ五十メートル。目を凝らすと、柔和な笑みを張り付けた彼があたしに手を振っていた。自分は、もう走り出していた。

「待ってくださいってばっ」

 ここで清美が横に並んだ。さらに焦って、併走してくる清美を横目に確認。彼女は泣きそうな、半分怒ったような顔で「なんで逃げるんですか!」と喚いた。

「なんで部活やめちゃうのか、ちょっとくらい話してくれたっていいじゃないですかっ」

「彼氏!」

 気付けば、自分はそんなことを口走っていた。清美は引っぱたかれるようなリアクションをした。だが、思いつきに口にしてしまったとはいえ、これは結構いい自己弁護かもしれないと思った。

 門のフェンスを越え、もういいだろうと思い、自分は足を止める。二メートル先で清美もやっと立ち止まる。

「彼氏、できたから。辞めるんだよ、部活」

 息が弾んでいた。清美も同じように、肩で息をしながらあたしを見つめ返した。誕生日パーティのドッキリでもやられたら、あるいはこんな顔になるかもしれない。

 自分はスカートのポケットから塩キャンディを出して口に入れた。走って汗をかいたから塩分を補給しようと思った、からではない。単に塩キャンディしか今は持っていなかった。とぼとぼと歩き出しながら、駆け足でやってくる吉村くんを出迎える。

 清美は唖然と、自分たちを見ていた。

「やぁ咲子さん。うわ、すごい汗」

 吉村くんはポケットからぐしゃぐしゃのハンカチを出して、そのくせ英国紳士然とした笑顔と所作でばさっとハンカチを広げ、その広げた状態のままあたしに手渡してきた。

「どうも」

 ハンカチで汗を拭いながら振り返る。清美はまだびっくりしたままだった。二、三度、あたしと吉村くんを見直している。吉村くんは清美に微笑みかけて、小さく会釈した。あたしはさらに後方を見据えた。

「こういうことだから」

 それだけ言い残し、面倒なので迅速に吉村くんを押して歩く。清美がこの展開をどう思っているのか知らないけど、これ以上この場で話し込めるほどのんびりしていられなかった。

「ちょっと、ねえ咲子さん」背中を押されながら、窮屈そうに吉村くんが言う。「あの子はいいの? ていうか、なんでそんなに急ぐわけ?」

「あの子は後輩。もう気にしなくていいから」

 昨日まで悠長に構えていた自分だったが、思ったよりややこしい事態になってきたようだ。全部堀ちゃんのせいだ、と心の中で毒づく自分だった。

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