五話
武道場の畳で受け身の練習をしながら、ふいに、これはなんて意味のない行為なのだろうと思った。
柔らかい伊草を打った手のひらが緩衝材の役割を果たし、衝撃を和らげてくれる。中学生一人分の負荷を逃がすくらいで、大仰なことだ。これに更なる高低差が加わったらどうなるだろう。そんな風に思いながら天井の照明を見上げる。
場内にこだます掛け声に寒気を覚える。自分一人が寝ころんだままなのは非常に目立つらしく、顧問の古木先生があたしの傍にやってきて何やら言葉をかけてきた。
鼓膜に穴があいたみたいに聴覚が虚ろだった。半身程度に身体を起こし、ぼんやりと古木先生を見あげる。彼はあたしの目線に腰を屈めて心配そうに顔をのぞき込んでくる。
縦移動打ち込みの稽古をしていた堀ちゃんと清美も、動きを止めてこちらに視線を送った。
古木先生の二の腕は大樹のように太く、血管が浮き出ている。彼は元国体選手だ。柔よく剛を制す柔道に現実をたたきつけるのは、奇しくも彼らのような上位選手だった。自分がいくら鍛えたって、所詮は女子中学生の域を出ない。もし彼らに武道の心得がなかったとしても、このような体格差を前に一体なにが覆るというのか。
三日前に出会った吉村くんの顔と、屋上のラインを脳裏に映し出し、幾多もの死体を回顧する。予想外のリアリティに思わず目頭を押さえる。息をのみ、自分は口を開いた。
「部活、辞めます……」
古木先生は言葉を失う。だが、すぐに穏やかな笑みを浮かべ、あたしの肩を軽く叩いた。
「どうした。気分でも悪いのか?」
一応自分は、堀ちゃんに次ぎ、試合で堅実に実績を重ねていく選手だった。嫌でも期待されているのが伝わってくる。こういう反応をされるのも分からないではない。
それでも自分は首を振る。「辞めます」。ふらりと立ち上がり、髪の結びをほどきながら武道場から出ていく。その際、後ろから先生の声が掛かったが、聞こえないことにした。
自宅でシャワーを浴び、台所から一本の果物ナイフを見つけ出した。刃渡り十センチほどの小さなナイフ。刃を新聞紙に包んで上着のポケットに入れる。おもちゃ同然の重みでも、布越しにちゃんと届く。柔道や合気道なんかよりずっと、護身という感じがした。
家族が帰ってくる前に家を出ると、廃墟ビルへ自転車を走らせた。発電式のライトの音がうるさかったので、スイッチを切った。川沿いの歩道が夜の海のように不鮮明になる。ペダルを漕ぐ速度は落とさなかった。
廃墟ビル屋上には吉村くんが居た。ライン縁から足を投げ出し、空中でぶらぶらさせている。少し肌寒い夜だったが、彼は半袖のポロシャツ一枚だ。傍らにブルーの寝袋が転がっている。あたしの来訪を、彼は笑顔で迎えた。
「吉村くんって、ここで寝泊まりしているの?」あり得ないことを言ってみる。
「いや、もしかしたら咲子さんが使うかもって」
どういう思考回路をしているのか頭皮の内側を覗いてみたい。自分は、ホームレスに憧れているなどと言った覚えはない。
だが反論するのは面倒なので、寝袋のチャックを開き、スニーカーを脱いで中に収まってみた。黙々とチャックを首もとまで上げる。みの虫状態の直立不動で、吉村くんを睥睨する。笑われた。
「無表情で冗談に乗っかってくるの、やめてくれない?」
「あんたが用意したくせに」
寝袋のおぼつかない足を交互に動かし、高さ十五センチほどの段差を上る。なかなかの重労働だった。赤い境界線に腰掛け、吉村くんと同じように足をぶらりと提げた。
「それ、滑って落ちるかもしれないよ」
言うだけ言ってみたという口調で指摘される。
「もし落っこちたら、そのときはそのとき」
一度チャックを開き、団扇みたいな形の飴を出す。ペコちゃんキャンディだ。包装ビニールを取って屋上の外へと投げ落とした。キャンディを口に入れて、またチャックを首もとまで上げる。
口から生えた棒を上下へと揺らし、顔の筋肉だけで飴の位置を調整する。そんな自分の面白い顔を、吉村くんはちらりと流し見た。
「手伝おうか」
自分はうなずく。彼は人差し指と親指で、棒をつまむ。キャンディをあたしの舌と平行にして、左右に滑らせる。くすぐったい。
「右と左、どっちがいい?」
返答するべく唇を開く。棒を持ってもらっているので安心だった。
「左」
再び閉じる。要望通り飴が左に固定されて手が離れる。左側に飽きると、吉村くんに目で合図して、今度は右側に寄せてもらう。そんな風にして最後まで飴を舐め切った。
棒だけになっても上下に揺らし続けていた。やがて吉村くんが微笑を浮かべて、「行儀悪いよ」と、あたしの口から棒を抜き取った。あたしが包装ビニールを投げ捨てたように、吉村くんも棒を屋上の下へ放った。白く細長いそれは暗闇に溶けながら落ちていく。
自分は目を凝らした。月光にうっすらと、地面に横たわるそれが確認できた。
「なんか、すごくいけないことしてる気分」
見下ろしながら、自分はぽつりと言う。吉村くんは小さく笑みをこぼすだけだった。
いつの間にか、自分は縁の上で横になっていた。頭がちょうど赤い円の中に収まっている。膝が九十度の角度で空中にぶら下がる。自分は寝袋のまま、仰向けで寝ていたようだった。頭上高くに半月が見える。
吉村くんはもう居ない。さきほどまでそこに居たという、うっすらとした気配が残っていた。
居眠り以前との変化といえば、吉村くんの不在、そして月の在処くらいのものだ。
寝袋の中、上着のポケットから果物ナイフを抜き取る。窮屈に手を動かす。新聞紙を丁寧に取り払い、刃を露出させる。左の手首に刃先を当て、ゆっくりと瞼を下ろす。
『君の中には絶えず熱い血が流れ続けている』
刃の先端が食い込み、手首の皮膚が丸くへこむ。見なくても、感触として分かった。あとどれくらい力を入れれば、この薄い皮は突き破られるのだろうか。徐々に、柄を握る手に力を込めていく。針金の先が触れる程度の痛みが、しだいに変色していく。
もう破れたかな。
いや、たぶんもう少し。
ここだ。
ここで止める。
皮膚が皮膚としての役目を担うボーダーライン。刃先は、そんなぎりぎりの境界に存在している。心臓の鼓動が全身を打つ。どくどくと、血流音が耳の奥に聞こえた。反対に頭の方はとろけそうなほどに朧気。初めて朱色のラインと円を見た瞬間と、よく似ていた。
吉村くんの居た場所から、薄暗い人影の声が聞こえる。
『いま、二つの世界が生まれた』
そう、二つの世界が生まれた。手首から血を吹き出す自分と、そうでない正常な自分。痛みに震える自分と、ラインを越せずに落胆する自分。
そんな多重世界を創造したのも自分自身だった。いたずらにボーダーラインに立ち、運命を弄ぶ。たしかに、残酷なことだ。
ぷつり、という音をかすかに聞き取る。
あわてて寝袋のチャックを下ろした。左手首を確認すると、赤い血玉がぷっくりと浮かんでいた。血玉はやがて形を崩し、細い線を手首に伸ばしていく。そして一滴、膝頭にしたたり落ちた。
全身の熱を夜風に冷やしながら、深い嘆息。
こうして、あたしの世界は収束していく。