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四話

 ノートパソコンにかじりついて一時間。胸いっぱいに喪失感が押し寄せてきて、それが嫌になった自分はごろりとベッドに横になった。漫画は本当にここで終わりなのだろうか。

 テーブルから飴の缶を取って、中から塩キャンディを選んだ。素朴な味が今の気分には合う気がした。

 眠くもないのに目を閉じて、シーツの上で天井をあおぐ。舌でうす塩味を転がし、ソフィアのことを考えようとするが、所感も上手くまとまらない。

 枕元で携帯電話がふるえた。ゆっくりと間を置いて通話ボタンを押す。受話口から、清美の声が「見ました?」と言う。

「なにを?」

「自殺少女の漫画です。少女レゾンデートル」

「見たよ」

「そうですか」

 それから清美は、なにかを期待するように沈黙した。その意図が読めず、自分も黙り込む。開けはなったカーテンが揺れ、羽虫が一匹部屋に入りこんだ。いけないと思い、さっと起きあがって窓を閉めた。沈黙は続く。

 やがて聞こえてきたのは彼女のため息だった。

「もう。なにか感想とかないんですか」

 そうくるだろうな、と自分は窓越しの外の風景を見つめて考えた。街灯に照らされた寂しい住宅街道しか見えない。会社帰りらしいおじさんがだるそうな足取りで横切っていく。

 塩キャンディが小さくなってきたので、かみ砕いて喉に流す。そこでやっと自分は口を開いた。

「まあ、良くも悪くも不条理漫画だね」

「良くも悪くも不条理漫画」

 清美は無機質にあたしの口調を真似した。彼女の呆れ顔が目に浮かぶようだった。申し訳ないと素直に思う。

「私、だんだん心配になってきます。だってさっきぃ先輩、感情死んでるみたいだもん。こういうオカルト事に興味ありそうだったから私、期待していたんですよ。ねえ先輩、この話題冷めちゃってますよね。幸司先輩も堀先輩もエースだからあんまり邪魔できないし、孤独ですよ私」

「いや自分、そんなことは……」

「いいですよ無理しなくて。私、さっきぃ先輩のそういうところ、嫌いじゃないですから」

 今度私の家に遊びに来てください、もっと面白い物見せてあげます、そういう意味の話をして、清美は電話を切った。彼女の口振りからは、自殺少女の件はweb漫画を見つけた時点で完結していそうだった。

 会話というものは難しい。嘆息し、携帯を枕にほうり投げる。

 もう一度パソコンに向かい『少女レゾンデートル』を開く。掲載されたページの全てをプリントアウトし、ファイルに挟んでその日は寝ることにした。



 翌々日の日曜日。堀ちゃんや清美からの遊びの誘いは断った。クローゼットで埃を被っていたエコバックに、例の漫画を挟んだファイルを入れて持ち出す。真白ヶ丘市のポケットマップも用意した。履きなれたヴァンスのスニーカーで、朝十時に外出する。

 真白ヶ丘森林公園は、吉門町と清水町の間に割り込むように位置している。東日本有数の敷地を誇る自然公園だ。こういった休日にはランニングウェアを着た老人サークルの集団や、首から一眼レフを提げた野鳥趣味の人々が多く見られる。

 森林公園を横切ると、すぐに商店街や神社が見えてくる。この前の夏休みでは、あの一帯で縁日が開かれていた。それだけでなく、この周辺は年中賑やかだ。

『お化けビルをモデルにしたらしい漫画』とは、『少女レゾンデートル』のことだ。仮に自殺少女がこの漫画の作者だとして、果たして、本当にモデルはお化けビルだけだろうか。たとえば、真白ヶ丘市全体が漫画の背景となった可能性も捨てきれない。

 商店街入り口には大規模な交差点があった。エコバックからファイルを出し、漫画の冒頭部を見返す。

 激しい車の往来の中、少女ソフィアは交差点の真ん中で立ちすくむ。交差点の奥には、この商店街入り口とよく似た商店街アーチが描かれていた。間違いない、と自分は確信する。

 漫画から顔をあげ、青信号の交差点を渡る。

 漫画に描かれた風景と同じ視界が、あたしの眼前に広がった。歩道の先で赤信号が表示されると、殺人的な車の波が絶えず左右からやってくる。ソフィアが大型トラックに轢かれたあたりを、自分は注視した。

 この場所だ。ソフィアは白昼夢の中、たしかにここで死んだ。人の命の軽さを具現するように、彼女は空き缶みたいに吹き飛ばされ、宙を舞い、地面に倒れ伏した。両目から真っ黒な血の涙を流して。

 漫画で、彼女につきまとう薄暗い人影が言った。

『君の中には絶えず熱い血が流れつづけている。あんな風に外へ出たいと、外へ出たいと呻いているんだ。君はね、体内にたぎる熱い血液を、薄っぺらい肌に閉じこめているだけなんだよ』

 ソフィアと薄暗い人影を幻視した自分は、淡い充足感とともに次の場所を目指した。


 次はソフィアがお母さんに向けて鋏を振りかざすシーンだが、これはどう見ても一般家屋内の場面だ。それらしい家を見つけたからといって、軽々しく「入れてください」と言えるほどの図々しさを自分は持ち合わせていない。

 次の舞台も難しい。電動のこぎりを抱えた通り魔男のシーンだ。作中でも、あたりは真っ暗に描写されているため、舞台モデルを探し出すのは不可能だろう。

 そして小学校のシーン。こちらはすでにリサーチ済みである。ネットで真白ヶ丘市に点在する小学校のHPを回ったところ、漫画に登場したのとそっくりな学校を発見していた。

 小学校の門は鉄柵で閉じられていた。日曜日だから当然だ。漫画と比べると、相違点を見つけだすのが困難なほど外観が似通っていた。

 校門の前で腰をおろす。『少女レゾンデートル』によると、フォークでめった刺しにされたソフィアはこのあたりで倒れていた。現場のおおよそな検討をつけた自分は、チュッパチャプスをくわえながら、ひそかに口元に笑みをたたえる。自分の目には、彼女が二つの世界を隔てた向こう側で、実際に血まみれで倒れているように見えた。

『君はね、体内にたぎる熱い血液を、薄っぺらい肌に閉じ込めているだけなんだよ』

 白昼夢のソフィアは血液の象徴なのだ、と自分は思う。絶えず高速度で体内を循環していく血液。血はいつでもたぎっていて、肌という薄い壁から飛び出すその日を夢見て、抑えきれない衝動を躍動という形に留めている。ソフィアはきっと、目の前にナイフが置かれたら煩悶してしまう、そんな女の子だ。

 同時に、彼女はもっと多くのメタフォリカルを表象しているだろう。彼女は人の存在理由そのものであり、仮世界への夢想であり、単純な暴力であり、作者自身が抱える暗い感情なのだ。

 自殺少女はなにを思って死んだのか。自分はずっとそのことについて考えてきたが、実は大した理由などないんじゃないか。感情に突き動かされた単なる脅迫観念でしかなかったとしたら。もしそうであれば、自分がこれから探すのは、その自殺少女を殺すに至ったなんらかの誘因だろう。

 道行く人から不審に思われないうちに立ち上がり、その場をあとにする。

 やはり最後に向かう場所は、吉門町の六丁目、廃墟のお化けビルだった。



 廃セメント工場の広大な更地に立ち、リングを見下ろす。今日もリングは、雨風に晒されることを知らないようにくっきりとアスファルト上で朱色に映えている。スニーカーの底で、表面にたまった砂を払う。そして廃ビルへと足を踏み入れた。

 これまでのように、漫画と実際の背景を見比べて、満足感に浸りながら徐々に上の階を目指していく。

 屋上の扉を開けると、落ちかけた西日のまばゆい光に目を細めた。屋上の一部に、西日を遮る人型のシルエットがあることを、自分はいち早く察知していた。光に目が慣れてくると、自分は少しずつ、その人物を視認した。

 中学生くらいの男の子だった。同い年かもしれない。七分袖のシャツにスウェットパンツ、使い込んだようなスニーカーを履いている。たぶんコンバース。自分が言うのもなんだけど、ちょっとそこまで散歩しにきました、みたいないい加減な格好をしている。それでも野暮ったさを感じさせず、むしろ爽やかな印象を与えるのは一種の才覚だった。

 彼はこちらに背中を見せ、片手を腰に当てて斜め下を見下ろしていた。その視線の先は、おそらくあの朱色のリングとラインだった。彫像のように、ぴたりとも動かずそれらを見つめている。

 最後のチュッパチャプスを口に入れて、そっと、男の子の背中に近づいていく。やがて彼は、ゆるやかな動作で振り返った。細く形作られた目が見開かれ、軽い驚きを表現する。どうも悪い人には見えない。あいさつでもしてみるか、と思い立ったところ、彼の方が先に口を開いた。

「もしかして、君が咲子さん?」

 今度はこちらが驚く番だった。飴の棒をつまんで口から出し、指で持てあましながら口をつぐむ。いくら記憶を掘り返しても彼に見覚えがない。どう答えるべきかひどく迷ったのだが、ともかくあたしは、「そうだけど、あんただれ?」と返してみた。

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