三話・少女レゾンデートル
夏休みが明けると、堀ちゃんにお化けビルのことを話した。
公園のトイレに隠れて、堀ちゃんはバージニア・エスを吸いながら黙って聞いた。
幸司くんの言うように、お化けビルは吉門町の六丁目にあったこと。場所は川沿いを外れた山間の廃セメント工場。ビルの中は巨大竜の化石みたいで、壁にはぼろぼろのビートルズのポスターが貼ってあって、薄赤の円や線もちゃんと見つかった。そのとき自分が感じたこと、更地やビル屋上の匂い、清美や幸司くんの反応など、その詳細を一から十まで分かりやすく説明してあげようとしたのだが、およそ四割方話したところで堀ちゃんが「もういいよ」と疲れた顔で制した。
「さっきぃの話って、ほんと要領を得ないよね。あんたって作文苦手なタイプでしょう? 間違っても作家になんかならないでよね。これじゃ自分で見に行った方がましってもんだわ」
その放課後、堀ちゃんは部活をさぼり、一人でお化けビルに向かった。
あるweb漫画に出会ったのは、その翌日。
登校前にコンビニに寄ってチュッパチャプスを購入し、表で舐めながら英文法を復習していたら、ちょうどそこで清美がやってきた。清美はあたしを見つけると小走りでやってきて、挨拶もなしにスマートフォンの画面を見せつけてきた。
「自殺少女の新情報ですよ、さっきぃ先輩」
疑惑半分に、自分はスマフォの画面を覗き込む。
画面に表示されていたのは漫画の表紙らしき画像。メルヘンチックな女の子が描かれている。黒いコートにロシアン帽、インナーに膝丈のワンピースを着ている。そのうえ金髪で色素の薄い肌をしているから、北欧産の絵本かなにかに出てくる女の子みたいだった。背景にはモノクロ調のビル群が並び、それらの表面を突き破るようにしてチューリップや雪割草が咲きほこっている。
タイトルは『少女レゾンデートル』。
「自殺少女が描いた漫画?」と自分は訊く。
「先輩、勘がいい」清美はスマートフォンを制服のポケットにしまった。「さっきぃ先輩も、帰ったら読んでみてくださいね」
自分はチュッパチャプスを舐めながら清美と並んで歩いた。早く教室に行って試験勉強をしたかったから、少し歩調を早める。
「どうやって見つけたの?」
「この前の廃墟の写真をブログに載せたら、友達からメッセージが来たんです。この廃墟ビルをモデルにしたらしい漫画を見たことあるぞって、教えてくれました。もしかしたら、もしかするかもって」
「友達って、一年生? 何組の子?」
自分は漫画と同時に、その子にも少しだけ興味を持った。
「何年何組ってわけじゃないです。相手、社会人だから。会ったことないから本当かどうか分からないけど」
「それ、友達なの?」
「ネットの友達です」
それは友達と呼んでいいものだろうか。もし呼んでいいのなら、自分もmixiやGREEを含めれば百人は超える。ずいぶんキッチュな友人関係だ。
試験が終わり、その日は午前で放課となった。堀ちゃんは柔道部の顧問から呼び出しを食らったので、自分は一人で帰った。
自室のノートパソコンを起動して、アドレスバーに清美が教えてくれたURLを打ち込む。自殺少女が描いたという、『少女レゾンデートル』のページを開いた。
漫画は、表紙の女の子が信号機を見つめている図から始まる。次のコマには、白黒反転の独白。
――手足をもがれたような気分でした。舌根が乾き、常に全身を渇望が覆っているようです。ソフィアの心はいつも、きつく緊縛されていました。
ソフィアとは、主人公の女の子のことだろう。ソフィアは赤信号にも関わらず、横断歩道の真ん中で立ち止まっていた。すぐさま大きなトラックが突っ込んできて、ソフィアは紙屑みたいに吹き飛ばされた。
――ソフィアはよく、白昼夢を見ます。
血だらけで車道に横たわるソフィアを、もう一人のソフィアが遠くから眺めていた。倒れたソフィアは、両目から真っ黒な涙を流していた。横たわるソフィアから顔をそむけ、もう一人のソフィアは歩きだす。彼女の隣を、薄暗い人影がついて回る。
『君の中には絶えず熱い血が流れつづけている。あんな風に外へ出たいと、外へ出たいと呻いているんだ。君はね、体内にたぎる熱い血液を、薄っぺらい肌に閉じ込めているだけなんだよ』
薄暗い人影は言った。
『君は、嘘つきだ』
唐突にシーンが変わる。
洋風のリビング。ソフィアの母親らしき女性がキッチンに立ち、アイスピックで氷を砕いている。ソフィアはその背中へと徐々に近づきながら、テーブルの上の鋏を手に取った。音もなく近づき、そのまま鋏を母親の首筋に突き立てようとする。開いた鋏の刃先が、彼女のうなじギリギリのところで止まる。肌の上に、鋭い凶刃の影が映っていた。
次のコマで、首から血を噴射する母親が描かれた。そういう白昼夢だった。
それっきり、ソフィアは満足したように鋏を背中に引っ込めた。母親が笑顔で振り返り、氷入りのグレープジュースをテーブルに運んだ。
「どっちが本当のお母さんなんだか、わからないわ」
人影はこう返す。
『いま、二つの世界が生まれた。同様に二人のお母さんが存在する。それを創造したのが君だ。とても残酷なことだよ。だって、もう片方のお母さんはこれから、脊椎を損傷した痛みに生涯くるしむことになるんだから』
「聞きたくないわ」
またシーンが変わる。ソフィアはロシアン帽を被っていない。たった一人で、ぽつりぽつりと夜道を歩いていた。街灯によって金色の長い髪がきれいに輝く。道の先から、背広姿の男がやってくる。背広の男は伐採用の電動のこぎりを担いでいた。ソフィアは足を止める。人影が暗闇から姿を現す。
『あの男は帽子を被った女がきらいだ。むかし、街角で出会った女の美人局に合い、金をだまし取られた。また別の女からは、事務所の金を盗んだとして、いわれのない罪を着せられた。つい先日も、電車の乗り降りで彼はある女とぶつかった。彼は即座に謝ったが、女は痴漢と勘違いし駅員を呼んで男を拘束させた。彼を貶める女は、いずれも帽子を被っていたそうだよ』
背広男は電動のこぎりを稼働させ、ソフィアのあごをつかんだ。点検するように彼女を観察する。ソフィアは、自分が帽子を被っていなかったことを幸いに思った。
舌打ちを一つして、男はソフィアをどけて歩きだした。
そして、翌朝と思われる絵に変わる。ソフィアは部屋でニュース番組を見ていた。アナウンサーが、血痕の広がる街道で何事かをカメラに向けて喋っている。
次に被害者らしき少女の写真が画面いっぱいに映った。黒いロシアン帽を被ったソフィアだった。
「こういうこともあるのね」
『こういうこともあるのさ』
また場面が変わる。
小学校の教室。給食の時間らしく、児童が四人一組で机をくっつけていた。そんな中に、ソフィアは黒いコートとロシアン帽という奇妙な出で立ちで児童に混ざっていた。そこで独白。
――ソフィアは給食に出てくるグレープゼリーが好きでしたが、給食は大の苦手でした。いつ自分が他人のグレープゼリーを奪ってしまうか、それを考えると、自分の中に住む悪魔に身がすくんでしまうのです。
ソフィアはグレープゼリーを食べ終わると、隣の席の子のグレープゼリーを盗み見た。その席の男の子は、男の子と呼ぶには疑問を抱くほど強靱な肉体を持っていた。座っているだけでソフィアの頭二つぶんは上にいる。
ソフィアは男の子からゼリーをかすめ取る。次には、男の子の手にしたフォークによって、彼女の手のひらは深々と貫かれていた。
「ありえないことだわ」
小学校をあとにするソフィアの後ろを、影は地面を這いながらついてくる。校門前には、フォークでめった刺しにされたソフィアが倒れていた。ソフィアは、倒れるソフィアに目もくれず、校門を通り過ぎていく。
『いいや。実現は難しいが、ありえないことじゃない』
人影は難しい声で言った。ソフィアは突然地面を蹴り、ふわりと空中に浮いた。
「ありえないことじゃない。それなら、こうも言えるわよね」
薄暗い人影もソフィアを追い、宙へと飛んだ。ソフィアたちはぐんぐんと上空に舞い、雲を突き抜ける。激しく照射する太陽のもと、ソフィアは飛行を止めた。
「私には、存在価値がない」
少女と人影はくるりと反転し、重力に従って落下を始めた。ごうっと言う音が二人を取り巻き、一気に雲を突き抜け、地上へと墜落していく。
ここで、独白とともに回想が挿入される。ソフィアのお父さんとお母さんらしき人たちの回想だった。
――ソフィアの両親ははじめ、パン屋の店員と客という関係でした。お父さんはパン屋のしがない販売マネージャー。お母さんはどこにでもいる普通の大学生。
――ソフィアのお母さんは、その日大学の友達と遊びに出かけることになりました。友達から、美味しいパン屋さんを紹介してあげると誘われたのです。もしお母さんが友達の誘いを断っていれば、お母さんはお父さんと出会うこともなかったのです。
――それはひとつの運命でした。お母さんはその日風邪を引いていたので、誘いを断るかどうか迷っていたのです。
ソフィアは落下しながら、若き頃の母の後ろ姿を瞼の裏に映していた。
「私が生まれたのは、ほんの偶然なのよ」
人影は言う。
『でも君はいま、両親から必要とされている。両親は君を宝娘だと評価する。君は生まれるべくして生まれ、この世になくてはならない存在だったのだと彼らは言う』
「嘘っぱちね」
『そう、嘘っぱち。すべての生物には、存在価値というものが欠落している。生まれるべくして生まれる生物はいない。したがって、この世になくてはならない存在などあるはずがない』
少女は完全に浮遊力をなくしている。まっさかさまに落下し、やがて顔から地面に激突する。顔のつぶれた様子は描写されず、顔面はただ黒く塗りつぶされていた。ソフィアは、その黒い顔を人影に向ける。
「私のいる世界と、いない世界があるのね」
『そう。顔のある君と顔のない君が共存するように』
「あなたはどっち?」
『顔のある君』
顔のあるソフィアと顔のないソフィアが対峙した。
舞台が入れ替わる。二人のソフィアは廃墟の中にいた。見覚えがある。お化けビルにそっくりな場所で、どうやら一階ロビーのようだ。竜の化石みたいな壁面がバックに見えた。
「私のコートには手斧が隠されている。隠されていることにする。本当はないけれど」
顔のないソフィアは黒いコートの裏側に架空の手斧を忍ばせた。
「これを使うか使わないか、私の存在はそれだけで左右される」
顔のないソフィアはコートから手斧を抜き、顔のあるソフィアに振り降ろす。顔のあるソフィアは薄暗い煙と化し、空気に溶けて消えた。
さらに舞台は飛び、あの屋上へと移り変わる。荒廃とした広い屋上の床。今にも倒壊しそうな塔屋。風によって砂塵が巻き上がり、曇り空が濃くなっている。屋上の様子を数コマにわたって描写しており――それだけだった。そこで漫画は終わっている。
自分は首を傾げ、マウスを操作する。いくら探しても、次のページは見あたらなかった。