終章
この子は一体誰なんだ、と吉村は思った。
口から伝う一筋の血痕に、視線を這わせる。地面から、彼女の半分潰れた顔へとシフトさせた。
「君、本当に咲子さんだよね?」
その問いに一縷の望みをかける。しかし、それは言葉を介して返ってくるものではなかった。その瞳の動静を、あら探しをするように観察する。
光を失い、まもなく眼球の揺れまで止まってしまうと、吉村は深く嘆息した。
本来ならば極力遺体には触れるべきではなかったが、諦めるわけにもいかない。今ここで知っておきたかったのだ。
携帯のライトを頼りに手探りであたりの地面を調べる。さっきまで彼女が口にしていたはずの飴を探した。血痕を見る限り、どうしても飛び降りるショックで飲み込んだとは考えにくい。
ハンカチ越しに衣服に触れる。紺のコートの袖を捲ると、赤いリストバンドがのぞいた。
リストバンドをそっとずらすと、吉村は息をとめた。
自傷の跡だった。通常のリストカットのように刃を横に引いたというものではない。まるで皮膚の張りでも試すような、無数の小さな刺し傷。数は二十を超えているだろう。そして、古いものと新しいものとの差が一目で分かった。古い傷は六か七ほど。ほとんど治りかけている。新しい方はまだ瘡蓋が固まりかけている段階で、昨日一昨日につけたばかりと思われた。つい最近まで、彼女はさらにボーダーラインの魅力に切迫していたのだ。
にもかかわらず、彼女のこの表情はなんだろう。
全身を地面に叩きつけられ、あちこちから骨や臓物が露出している。被害は顔面にまで及んでいる。しかし、わずかにだが読みとれた。
その表情は、恐怖と後悔を示していた。これほどの自傷を狂ったように重ねる人間が、こんな顔をするだろうか。
「泣きそうな顔だね、さっきぃ」
背後で声がする。声の主は吉村のそばで腰をおろし、吉村と同じように、彼女の顔を見下ろした。
「本当は死にたくなかったのかもね。ほんの軽はずみなんだって、自分で言ってたもん。何かの拍子に死んでみたいと思ったとき、それはもう簡単に死ねてしまうんだって」
堀中は膝頭に肘を乗せ、頬杖をついた。
「好奇心って案外怖いものだね。そうなったら人間おしまい。ちょっとやそっとじゃ治らない、死の病だよ」
かこ、という音がした。固いものを歯で転がすような、そんな音。
はっとして、吉村は堀中の顔を見る。彼女の頬が一部丸くふくらんでいた。かこ、かこ、と頬の両側に転がしていく。吉村の視線に気づいた堀中は、皮肉っぽく笑った。
「これさ、禁煙に結構いいかも。口の寂しさが紛れる」
「遺留品を勝手に食べるの、よくないと思うけどね。せっかくただの自殺で終わりそうなのに、堀中さん、疑われちゃうかもよ」
あくまで控えめに窘める。堀中は目を伏せて頬を掻いた。それから、思い出したように顔を上げた。
「そういやその名前、もう忘れちゃっていいよ。あたし、そのうち名字変わるかもしんないから。養子縁組もほとんど決まりかけだし」
吉村はゆっくりと咀嚼するように、彼女の言葉を噛み砕いた。
「じゃあなんて呼べばいい?」
「えーと、なんだったっけ。日野だか何だか」
「日野佳代さん」
「いやいや」
にやり、と彼女は笑う。頬と歯に挟まれて、小さくなった手まり飴が見え隠れした。
「日野咲子で」
◆◆◆
北中は三日間、閉校したのだという。日野咲子が電話で教えてくれた。
学校から帰ってテレビを点けると、ニュース番組が彼女の自殺事件を報道した。彼女の顔写真と、画面の下に小さく『崎守佳代』と表示されている。崎守。さっきぃ。吉村はソファに倒れ込み、片手で目元を覆った。
ある日のことを思い出す。日野咲子が柔道で全国大会に出たことを、吉村は知らなかった。そういえば、北中のフェンスに横長い垂れ幕がかかっていたな、と記憶の片隅に残っている。あれには恐らく『堀中咲子』の名で祝辞が書かれていたのだろう。崎守佳代はそれを見られたくなくて、だからあそこまで焦って吉村を押して歩いた。
いつから二人は名前を入れ換えていたのだろう。あの垂れ幕の他に、何度お互いを隠し合っていたのだろう。それにはあの堤信吾も関わっていたはずだ。
不思議でならなかった。この三人が互いに帳尻合わせをするという状況がだ。一体いつ、彼女らは意志疎通をしていたのか。
テレビに北中学の教師陣の映像が映った。記者会見らしく、机の中央に座る校長はハンカチで額の汗を拭っていた。
会見の流れを汲み取ると、自殺した崎守佳代は校内でいじめに合っていたのではないか、という事項に関してらしかった。その映像では明示されなかったが、吉村には心当たりがある。
彼女の赤いリストバンドの裏側、無数にある自傷跡が、事態をややこしくしているのだろう。むしろ崎守佳代が自殺に至るまでの痕跡など、あの傷跡以外にないはずなのだから。
『学校側も全力で調査しましたが、いじめがあったなどという事実はございませんでした』
校長の発言に、一人の記者が反論する。
『ですがこの生徒は自殺以前、突然部活を辞めたと伺っています。その原因はなんだったんですか。部活内のいじめとか、顧問からの体罰とか、そういった事例もないわけですか?』
それに答えたのは、さらに気の弱そうな教頭だった。
『当時、本人にも部活を辞めた理由を聞きましたが、「飽きた」とか「勉強に集中したい」とかなんとか、という……』
はっきりしてください、とまた別の記者が喚く。校長が短くせき払いした。
『彼女はクラス内の友人や、後輩などからも深く慕われていました。家庭内でもこれといった原因は認められず、ともかく、学校内でのいじめはなかったというのが、現在の調べでわかったことです』
しばらくこの水かけ論が続いたあと映像が切り変えられ、場面はスタジオに戻る。スタジオでの討論を聞く限りでも、吉村の心配するような推論は挙がらなかった。
安堵の息を吐く。だが、まだ油断はできない。もし「自殺した生徒には他校に交流のある男子生徒がいた」などという情報があれば、自分にまで余計な飛び火がかかってしまう。面倒ごとは誰だって好まない。
しばらくテレビを見ながらぼんやりしていると、スポーツバッグを提げた日野咲子が部屋に入って来て、「なにこの部屋。汚っ」と言った。
「いらっしゃい」
「お客さん呼ぶときくらい掃除してよ。こういうの見てるとイライラするから」
日野咲子は床に散らばった広告の紙くずを拾い、満杯寸前のゴミ箱にぎゅうぎゅうと押し込めた。
「あれ、返しに行った?」
あの日、吉村は再び屋上に上がり、地面に捨て置かれたクロッキー帳を回収した。時間を置いて堤信吾に返すつもりだったが、彼は何故か頑として吉村を避けるため、なかなかタイミングが掴めなかったのだ。
「うん。さっきね。ていうか吉村くん、なんであたしのことパシるわけ? 同じ学校なんだし、自分で返せばいいじゃん」
「こっちにも事情があるんだよ」
日野咲子は納得いかないように首をひねるが、しかし深いところまでは訊いてこなかった。彼女は対面する向かいのソファに腰掛け、バッグからチュッパチャプスを出して口にくわえた。
「最近、飴ばっかり舐めてるね」
「あぁ、すっかりはまっちゃった」
「『さっきぃ』みたいだよ」
彼女は苦笑いを浮かべ、そうだね、と呟いた。吉村は身を起こし、キッチンで煎茶を煎れた。湯飲みとお菓子を抱えてくると、日野咲子がテレビのチャンネルを変えた。
別の局でも、崎守佳代の死が報道されていた。その番組はワイドショーらしく、画面左上に『少女はなぜ自殺したのか?』とトゲトゲしい文字で題されている。第三者からすれば興味をそそられる煽りだが、当事者にとっては過剰な報道は不快でしかないだろう。
日野咲子はため息を吐く。
「これだけ話題になってさ、まいっちゃうよ。うちにも警察が来たんだ。さっきぃの親友だって、どこからそんな情報得てくるんだろうね。吉村くんの所にもそろそろ来るかも」
「覚悟はしているよ」
そう言って吉村は煎茶を啜る。彼女はチュッパチャプスを舐めきるまでお茶やお菓子には手を出さないつもりらしく、しきりに棒を指で動かしていた。
「あれから、色々考えたのよね」
ぽつりと言う彼女に、吉村は無言であいづちを打つ。
「どうしてさっきぃが死んだのか分からないのは、警察やマスコミだけじゃない。あたしらもそうだったのよ。でもそれは当然のこと。結局、他人の心を本当の意味で知るなんて、たとえ親友や恋人でも出来っこないんだから」
それについては吉村も、別の意味で痛感している。彼には堀中や崎守や堤の三人、当時の不可解な結束力に頭を悩ませるしかないのだから。
「それが、色々考えたこと?」
「そう。で、完全には無理としても、あたしなりに考えてみたのね。どうして大した理由もなく自分の命を断ってしまったのか。つまり、想像力の欠如だと思うのよ」
「そーぞーりょくのケツジョ」初めて聞いた言葉のように吉村は反芻する。
「想像力の欠如。あたしらみたいなガキは何も知らない。事実としては知っていても、子供なりにいくら想像を巡らせてみても、駄目な子は駄目。あたしも、さっきぃと同じだったのかなって、今では思ってる」
「同じ?」
日野咲子はこくりとうなずいた。
「お母さんが死んでも、さっきぃが死んでも、あたし、全然泣けなかったんだ。これっぽっちもだよ。そりゃ確かにびっくりはしたし、実際に死んじゃうところは見たけど、なんていうか、真に迫るものがなくて。これなんだよ。想像の欠如ってやつ」
吉村は何も言えず、間をつなぐように湯飲みを傾けた。死について真に迫るどうこうなど、考えたこともなかった。彼女は中空をぼうっと見つめた。
「知識としては知ってるんだ。でも、あたしたちは全然分かってない。人は死んだら、死ぬんだよ」
「なにそれ」
「いや、本当に」
彼女は顔を下に傾けた。その目は虚しげで、弱々しい。
「本当に、死んじゃうんだってば」
ほとんど囁くように言い、日野咲子はソファを立った。「トイレ貸して」と、ぶっきらぼうに。その声は少し潤んでいた。
「そこの、和室のとなりだよ」
彼女は半分駆けるようにして洗面所に飛び込んでいった。
日も暮れ始め、日野咲子もそろそろ帰ると言い出す。玄関でローファーを履く彼女の後ろ姿を、吉村はささやかに見送っていた。ドアノブに手をかけるところを見届け、部屋の奥に戻ろうとする。
そのときだった。
「さっきぃのことだけど」
吉村は玄関先を見やる。スポーツバッグの紐を片手に強く握り、彼女は真剣な目でこちらを見据えていた。
「悪いけど、三分の一は本人のせいで、三分の一は吉村くんのせいだって思ってるから」
「もう三分の一は?」
「最後はあたし。だから、あたしはあたし自身と、吉村くんを絶対に許さない」
吉村は壁に肩をあずけ、不敵に微笑む。彼女も負けじと微笑み返した。
「あたしさ、よく周りで人が怪我したり、死んじゃったりするところ、よく見るんだよね。呪われてるのよ。あたしの近くにいる人ほど、より悲惨な目にあう」
「うらやましい体質だね」
「ということで、ひとつ吉村くんに宣言します。この体質を使って、あんたに報復してやることに決めました。いくら吉村くんが嫌だって言っても、どこまでも付き纏って、いつか必ず不幸な目に合わせてやる」
そして彼女は右腕を上げ、人差し指をぴんと伸ばし、吉村に突き付けた。その人差し指は呪力の源。指し向けられたものは、すべからく陰惨な末路を遂げる。
「あんた、そのうち死ぬよ」
想像力の欠如、と吉村は心の中で繰り返す。自分の行く末がここからどう展開していくのか、次々と浮かんでくるイメージに、笑いが止まらなかった。
「望むところだ」
日野咲子が家を去ったあと、吉村は部屋でひとり天井を仰ぎ、もう一度、深く想像を巡らせた。
時系列
ボーダーライン(三部) → (四部or五部) → 食人鬼(一部) → ペルソナの笑み(二部) → (四部or五部)