十二話
「ずいぶん遅かったな、って自分で思わない?」
刃は月光に照り返され、光の塊が懐中電灯のように辺りをなぞった。
「仕方ないじゃん。こういうの苦手だもん。それに、これだけ似せられちゃったら誰だって騙されるよ」
吉村くんは緩慢な足どりで近づいてくる。ある一定の距離まで来ると、歩みを止めた。
「本物の廃墟ビルは? あの工事中の建物なのかな。でも、ここまで廃れたビルがあんな町中にあったとも思えないけど」
自分は驚くほど冷静だった。クロッキー帳を預かり、数日間町を駆けずり回って、その間中、頭がしびれっぱなし。感覚も麻痺している。
「悪いけど、いくら探し回ってもあの四丁目にはないよ。それどころか、この市に本物の舞台はない。彼女、もとは厚木市民だからね。最後は地元に帰っていったんじゃないかな」
あたしは信じられない思いで頭を振った。最後の最後で舞台を変えるなんて反則だ。それは見つかりもしない。
「死んだ女の子のこと、吉村くんは知ってたの」
「話だけではね。もっと詳しく知りたいなら、堤くんや堀中さんに訊くべきだったね」
吉村くんは軽く両手を開いた。右手のバタフライナイフがちらつく。死の門番然とした佇まいを表現していた。
堤くんと堀ちゃん。彼らが昔からの繋がりを持っていたと知ってから、一本の糸がぷつんと切れた気がしていた。二人は幼稚園からの幼なじみで、同じ地域の出身で、たぶん堀ちゃんは、自殺少女についてのあらましも大方知っていたのだろう。
ぷつんと切れたというのは、そういう意味。どうやら自分は、堀ちゃんにまで嘘を吐かれていたということだった。悔しさに唇を噛むと、猛烈に飴が舐めたくなった。
「この模様、吉村くんが描いたんだ」
吉村くんは、そうなんだよ、とうなずいた。
「大変だったよ、雨が降るたびに薄れちゃってさ。まぁいい暇つぶしにもなるしってことで、大して調べもせずに続けていたけど」
「知り合いのお兄さんが言ってたよ。油性のペンキはよくないんだってさ。コンクリートじゃ上手く乗らないみたい」
「そうなの?」
感心する吉村くんは汚れを知らない少年そのもので、こんな詰めの甘い人に騙されていた自分も、なかなか鈍感だったんだなとおかしくなる。
「でもね、全然ばれないってのも、それはそれで楽しくないじゃない。結果的には咲子さんに見破られて、僕はよかったと思ってる」
「あたしもハラハラしたし、楽しかったよ」
それを聞いて、吉村くんは満足そうに笑う。
そう、結局この人は楽しければいいんだ。なんとなく、そんな雰囲気がする。健全なようで、実はすごく不健全。あたしも、たぶん、みんなもそう。利己的な騙しあいを平気でするあたしたちは、真っ当な人間じゃ全然なくて、心の中に一体のお化けを飼っているみたい。
「みんな、嘘つき妖怪だったんだね」
吉村くんはぷっと吹き出した。
「面白いね、そのフレーズ。嘘つき妖怪。それ、僕も今日から使っていい?」
「いいよ」
あたしたちはささやかに笑い合う。
手まり飴は一つしか残っていなかった。これが最後かもしれないと思うと、咥内は瞬時に唾液で満たされた。口に含むと、やさしい甘味が広がった。
吉村くんがまた一歩、歩を進める。
「いいよ、もう来なくて」
彼は微笑みをなくし、真顔であたしを見つめた。
「あとは自分でやるから。本当は吉村くん、殺したくないんでしょ」
そして自分は、自分の足で縁に上った。両足を赤いフラフープ円に収める。たった十センチの段差の上に立つだけで、うんと背が高くなって、急に偉くなった気分になる。吉村くんを少し見下ろす形になる。
背中を向け、すっかり暗んでしまった町を望んだ。さらに気分が良くなって、自然と鼻歌があふれてきた。靴の先で、死のラインをなぞる。
ラインを眺めていると、体重がなくなるような錯覚を受けた。息を呑む。赤い色素が眼球に入り込み、視界が一瞬、またたいた。
なんて、悪魔的。
ふいに後ろを見ると、吉村くんはナイフを閉じてパーカーに仕舞っていた。そのまま、右手をポケットに入れる。あたしが本気なのだと、彼は悟ったようだ。
「やっぱり、分かんないよ」
吉村くんは一瞬不安げに眉をひそめたが、すぐに笑みを繕った。
「どういうことかな」
あたしの手はじっとりと汗に濡れていた。涼しい風に触れ、掌が冷えた。靴を脱いで足もとに揃えて並べた。
「あたし、生きるのが辛いわけじゃないんだよ。ぜんぜん。それなりに苦しいことや辛いこともあったけど、それでも人並みだったって、自分でも思う。むしろ楽しかったことの方が多かったかも。これ、結構まじめに。なのに、なんで死んじゃうんだろうね。あたし、ずーっと考えてたんだ。なんであたし、死んじゃうんだろうって」
でも、やっと分かった。
その手で、宣言するように赤いラインを指す。堀ちゃんが死を予報したときのように、人差し指を向ける。赤いラインは静かにあたしを見つめ返す。
「越えてくださいって言ってるようなものだよ、これ。もう我慢できない」
越えちゃいたい。
境界線のことを考えるたびに胸をかきむしって、その結末を空想をして、毎日毎日、あたしは赤いラインのことばかりを考えている。どれだけ多重世界が生まれ、幾人ものあたしが短い一生に終わりを告げても、あたしはもう辛抱ならない。どうしてもこのラインを思ってしまう。
「ねえ、そういうのって、吉村くんにもあるよね。ちょっとくらい、いいじゃんって」
「どうだろう」
吉村くんは斜め上の夜空を見上げた。
「でも、言われてみればあるかもね。校則破ったりとか、ほんの弾みで万引きしちゃったときとか、ふっと無意識に体が動いて、越えてはいけない一線を越えてしまう」
思いがけず庶民的な答えが返ってきたので、目から鱗だった。異常なように見せかけて、案外普通な人かもしれない。
「惜しいけど、だいたいそんな感じ」
また二人して笑い合うと、突如として屋上に強風が吹き荒れた。髪をおさえ、風が止むのを待つ。
やがて凪が訪れると、周囲の空気は一転していた。シリアスで、少しスパイスが混じっている。そう感じたのは、もしかしたら自分だけかもしれないけれど。
ひとつ、手まり飴を口の中で反転させ、口を開く。
「吉村くん」
声色を変えるあたしに、吉村くんは怪訝に「どうしたの」と答える。やはり空気の変化を感じていたのは、自分だけだったようだ。一人相撲は滑稽だ。この人はあたしに似ているようで、どこかが違っている。今はちょっとだけ、そんな彼がいとおしくもあった。
「あんたのこと、結構好きだったよ」
予想だにしていなかったのか、吉村くんはきょとんとして押し黙る。暗くてよかったと思う。いきなり変なことを言ってしまったものだから、あたしの顔は熱を帯びてひどいことになっている。
吉村くんは小さく笑って言う。
「僕も好きだったよ、咲子さん」
頬の熱が、さっと引いた。
そっか。そうだったんだ。
吉村くん、最後まで気づかなかったんだね。
どこまで間抜けなんだろう。どこまで鈍感なんだろう。人を疑うことを知らなさすぎる。ばかじゃないだろうか。思いっきり大笑いしてやりたかった。でも、この胸のもやつきはなんだろう。あたしの口元は、中途半端に緩むだけだった。
「ばーか」
再び突風がやってくる。今度のは一層つよく、屋上の塵や埃を勢いよく巻き上げた。吉村くんの姿が薄れて見える。
もう一度、ばか、と言って、あたしは後ろへと倒れ込むようにボーダーラインを越えた。体重が軽くなり、全身の血液が巡りを早めた。強風はあたしをあおり、身体が空中で半回転する。視線のはるか先には、あのリングがあった。
生の円から境界のラインを飛び越え、死の円へと急降下。
なんて容易くて、なんて運命的なんだろう。風に乗り、リングが視界の中心に来る。ゆっくりと着陸していくカラスのように、あたしはそこへと吸い込まれていった。
吉村くん。君はあたしを騙したかもしれないけど、あたしも君を騙した。そしてあたしは君の仕掛けを見破り、君は見破れなかった。だから今回はあたしの勝ち。だけど一番いいところで、堀ちゃんに負けてしまった。
それともどうだろう。あたしが死んだら、堀ちゃんは悲しんでくれるかな。彼女のお母さんが飛び降りたときみたいに。それなら、おあいこかもしれない。そういうことにしておこう。
地面が迫る。死の円を正確に目で捉える。あと八メートルか七メートルくらい。走馬燈はなく、なのにその一瞬はやけに長かった。
それこそ、気が狂ってしまいそうなほどに。
ああ、どうしよう。
やっちゃった。
もう越えちゃったんだよね。
ここまで長いものなのか。いつ殺してくれるんだろう。早くしてほしい。近いはずなのに、とてつもなく遠い。
早くしてよ。早くしないと。
死にたくなくなっちゃうよ。
――なにも、本当に越えることはなかったんじゃないか?
そんな自問がよぎる。すると、一気に恐怖が全身を覆った。
もしかしてあたし、そんなに死にたくなかったのかもしれない。こんなのただの好奇心だった。どうかしていたんだ。あの赤いラインに魅せられ、狂わされていた。吉村くんは直接あたしを殺さなかったかもしれないけど、間接的には殺されたようなものだった。
猟銃に打たれた子狐が、入水自殺したおじさんが、マンションから投げ出された赤ちゃんが、堀ちゃんのお母さんの最期が、様々な死が、据えた肉や血の臭い、飛び散り、損壊した醜い遺体の数々が、生々しくリアルに甦る。あたしも、もうすぐそうなる。
どうにかして戻れないかなぁ。戻れないか。もう戻れない。越えちゃったものは、もう二度と。
じゃあ落ちることは前提として、生きて帰ることは出来ないものだろうか。両腕で頭を守るとか。地面を叩いて転がるとか。合気道や柔道でさんざん、受け身習ったじゃん。いけるよきっと。
いや無理。十七、十八メートルからって、あり得ない。武道はこの高さを想定していない。しかもあたし、頭から落ちてる。首の骨だって折れる。絶対無理。何が護身だ。役立たず。
死の円が、こちらへおいでと手招きする。怪物のように大きな口を開けて待ちうける。あたしを喰い殺そうと真っ赤な牙を向く。
眼前、ほんの一メートル先で。
『さっきぃも、もし飛び降り自殺したら、こんな風になるんだよ』
いやだ!
やっぱり、いやだ。
そんなのやだ。
死にたくない。
やだ。
やだやだやだ!
後悔。
死にたくない。
ああ。
もう目の前。
受け身。
間に合わない。
逃げられない。
もうそこ。
死。
終わり。
あああ。
ああ。
aaa