十一話
堀ちゃんのお母さんの告別式は、彼女の実家で行われた。隣の厚木市だ。
参列を希望したクラスメイトは七割。希望したといっても事情を説明する暇はあまりなく、予定のない者は明日の午後に駅へ来るようにとのことだった。つまりは半強制参加。
土曜日の晴れた午後。
電車で数十分の駅に降りると、先生が団体乗車券を駅員さんに手渡した。堀ちゃんの家へはバスを乗り継ぎ、着いたころには二時を過ぎていた。すでに多くの参列者が参集しており、自分たちは庭に二列で整列した。縁側が開放されいて、親族関係者がうつむいて数珠を握りしめている。背伸びをすると、広い仏間と、おばさんの遺影と、その下でぴったりと閉じられた棺桶と、念仏をそらんじるお坊さんのつるつる頭が見えた。堀ちゃんの姿は、残念ながらここからじゃ分からない。
「ねえ、これ誰の葬儀?」
となりの男子がこそりと尋ねてくる。自分は首を振って、「しらない」と返した。彼の後ろの男子が耳打ちするように「堀中の母ちゃんらしいぜ」と言った。
となりの男子はあまり興味なさそうに「ふぅん」と相づちを打つ。
「なんで死んだの?」
「しらねえ。つか、それ聞くとか超不謹慎。死ねよお前」
「いやお前のが不謹慎じゃんっ」
二人は互いの背中や腕を小突きあった。列の先頭にいた担任の先生が振り返ると、彼らは慌てて身を縮めた。男子は平気でこういうことを言うのだ。ばかだなと思った。
みんな制服で、派手な防寒具をつけてこないように、とあらかじめ言いつけられている。自分は学校指定の紺のコートを着ていた。サイズがちょっと大きめで、腕を曲げると手のひらが半分隠れた。
自分はひとつだけ、先生の告げた注意事項を破った。コートの下にある赤いリストバンドを、もう片方の手で握る。傷口はとっくに塞がっているし、もう着ける必要はないのだが、今日だけは着けずにはいられなかった。
このリストバンドは、あたしにとっての棺桶だ。そうとしか思えない。やっぱり一番ばかで不謹慎なのは、このあたしかもしれない。
堀ちゃんにはお父さんがいない。代理として彼女の叔父さんが喪主挨拶を務めた。声が遠くて自分にはよく聞こえなかったが、「故人はこれまで多くの習い事に身を投じ、生前まで明るく活発な人物でした」など一部聞き取れた言葉から察するに、自殺したことはあくまで伏せられているらしい。
秋の暮れ。すすり泣く音は、家族や友人など、より棺桶に近い者ほど大きい。まるで、悲しみがそこへと引き寄せられているかのようだった。喪主挨拶が終わると、辺りで鈴虫が鳴き出した。
「さっきぃ、動かないで」
うしろから女子の声。言われたとおり、動かないようにする。声を小さくして「なに」と訊くと、背後の女子はくすくすと笑いながら、「肩、肩」と言った。そこでようやく気づく。
あたしの右肩で、一匹のトンボが羽を休めていた。ぴたりとも動かず。視界の端でそれを確認する。
「かわいい。きっとこの子、さっきぃが気に入ったんだね。ペットみたい」
あたしは最小限のため息を吐き、指先でトンボの羽をつまんだ。トンボの身体は、死んだみたいにあたしの指にゆだねられる。うしろの女子がうれしそうに「ほらやっぱ。仲いい」と音もなく手を叩いた。あたしは、そんなふざけた彼女の口を塞いでしまいたかった。
「トイレいってくる」
つまんだトンボを両手につつみ、隠すようにして列を外れる。
案内書きにしたがって母屋を回る。裏口の壁に『お手洗い』の貼り紙があった。壁に寄り添い、かぶせた左手を解くと、トンボが身体をくねらせていた。先端にある丸っこい二つの球体が、嫌がるようにあたしを捉えていた。さっきまで、あんなに大人しかったのに。
再び左手で覆うと、手の中でトンボが暴れた。
少しずつ、少しずつ。トンボの動きが弱まっていく。
トンボは、自分の意志じゃこの壁を突き破れない。そのことを肌で実感すると、鳥肌が立って、口元が笑って、身震いが止まらなかった。トンボの息が短くなってくる。あたしのペットらしいそいつは、主人にあらがう反逆心を徐々に失くしていく。
いきなり、裏口の扉が開かれた。そこから顔を出したのは堤信吾くんだった。他校の制服を身に纏う彼は、音もなく扉を閉め、ドアノブを握ったまま、冷めた流し目であたしを見た。
トンボは、そこで息絶えた。
◆◆◆
駅で解散となり、クラスメイトが方々へと散っていく。自分は改札前から一歩たりとも動かず、次の電車でやってきた降客の流れを邪魔した。
流れが鎮まると、最後に改札を抜けた堤くんと目が合った。
「告別式、堤くんも来てたなんて、しらなかった」
堤くんはうつむきかげんに眼鏡の位置をなおした。
「堀中とは幼稚園からの幼なじみだしな。母親にもよくしてもらった」
世間は狭いなと思う。頭の中で、堤くんと繋がる人々を整理した。自殺した姉。堀ちゃん。吉村くん。そしてあたし。それらの相関図は一見、縦にも横にも繋がっているように見えるが、現状、それぞれが無言に他者の橋渡しをしているに過ぎず、決してみんなが一体となることはない。誰かが誰かをかばい、騙して、匿いあう。呼吸を止め、相手の顔色をうかがいながら慎重に。
「吉村くんは?」と、自分はたしかめるように言った。
「来ていない。というか、恐らくやつは何も知らないだろう」
そして堤くんは自嘲するようにささやく。
「その方がいいんだよな?」
その嘲りは、自分たち三人の愚かしさを対外的に評価したものだった。いつまでも続かない。堀ちゃんが言ったように、堤くんも暗に忠告している。
自分は黙って微笑み返した。分かってる。今はもう、それほどこの関係を維持する気はなくなったから。
また次の電車が到着する前に、自分たちは足並みをそろえて駅をあとにした。
吉門町の四丁目を二人で歩いた。あたしは、嫌な予感をずっと胸に抱いている。まもなくして当然のごとく予感は的中し、公園にほど近い吉門四丁目のある一軒家で、堤くんは足を止めた。
「親が戻ってくるまでには、帰ってくれ」
そっけなく言って堤くんは玄関を開けた。ひしひしと、あの空気感が現実となって全身を打つ。リビングに通されると、あたしの頭はもうとろけるように朧気だった。
少女レゾンデートルのワンシーンだ。ソフィアはこの一室で、母親の首筋に鋏を突き立てようとした。いや、そういう妄想をした。キッチンをちらりと見て確信。間違いなく、ここが舞台だ。
堤くんは冷蔵庫を開け、ジュースのパックを出して一杯注いでくれた。それがグレープジュースだったので胸が高鳴る。このさい彼でもなんでもいいので、あたしはアイスピックで氷を砕く後ろ姿が見たかった。だけど、堤くんは氷を用意してくれなかった。
「そこに座って、ちょっと待ってろ」
言われたとおりにテーブルに着き、グラスを傾ける。甘酸っぱい香りと味が、ほのかに心を満たした。
堤くんは二階に上がり、数分して戻ってきた。その手には一冊のクロッキー帳があった。A4サイズのどこにでもあるリングノート。
「それが約束していたラフ画だが、それ一冊しか残っていなかった。悪いな」
「ううん、いいよ」
表紙を開くと、様々な風景画が鉛筆書きで描かれていた。そのほとんどが見覚えのあるもので、森林公園そばの町の風景が主だった。あたしは手の震えを抑えることができない。これが自殺少女の直筆なのだと思うと、いてもたってもいられなかった。
鉛筆画のほとんどは四丁目だけど、知らない場所もある。これらの場所は、単なる興味だけでなく、確かめに行く必要があるものばかりだ。
「これ……」
クロッキー帳を閉じ、期待を込めて堤くんを見上げる。彼はしばらくの沈黙を置き、小さくうなずいた。
「持っていけばいい。ただし、気が済んだら返してくれ」
「ありがとう」
堤くんが気を悪くするかもしれなかったが、こぼれる笑みは引っ込んでくれなくて、あたしはクロッキー帳を何度も見返した。そのうち空気が重くなり、視線がなんとなく痛くなる。
グレープジュースを飲み干すとリビングを出た。玄関先でも「ごめんね。本当にありがとう」とお礼を言った。堤くんは押し黙ったまま返事をせず、じっとあたしの顔を見つめた。
「あの、どうしたの」
やっぱり返してくれ、と言われてしまうのだろうか。不安げに彼の顔色を窺う。しかしあたしは、これをすぐに返すわけにはいかなかった。
堤くんは無感情な瞳に、いつかのような驚きを浮かべた。はっと我に返ったような、そんな表情。唇を噛み、あごを引いて前髪を掻き上げた。
「似過ぎている」
掻き上げた手を後頭部まで持ってきて、苛立たしげに後ろ髪を鷲掴む。
「やっぱり、駄目だ」
最後に、きつく睨み据えるような目をして、手をこちらに突き出した。
「返せ」
あたしはつよく否定し、嘆願した。「やだ。おねがい」。そのまま後ろ手にドアを開ける。堤くんが蹴るようにつっかけを履いて追いかけてくる。あたしはとっさにクロッキー帳を守るようにしたが、すぐに肩を掴まれてしまう。彼の目は、焦りと後悔に塗れていた。
「返せっ」
あたしは一つ呼吸をし、肩ごと堤くんに体当たりした。予期せぬ反抗に、堤くんはあっさりと土間に尻餅をついた。
「ほんと、ごめん」
叫ぶように言い残し、あたしは玄関を飛び出した。
◆◆◆
やっぱりおかしい。
あれから数日間、休日や放課後に何度も町へ出かけ、クロッキー帳と真白ヶ丘市とを見比べた。堤くんによると、彼の姉、自殺少女は『少女レゾンデートル』の背景にここ真白ヶ丘市を使ったのだという。実際漫画にも、この町の風景が再現されている。下準備としてのノートも自分の手にある。いくらでも確かめることができた。
これは偶然だろうか。
ノートに描かれた風景を頼りに数日間、時間を見つけて歩き回った。その結果、自分は同じような場所ばかりを行き来していることに気づく。森林公園のそばから、吉門四丁目にかけて。
公園前交差点。商店街にかかるアーチ。堤くんの自宅とリビング。電動のこぎり男が登場する夜道の原型と思われる路地も四丁目で発見した。ソフィアがフォークでめった刺しにされた、あの小学校も。彼らの父が働いていたパン屋も。その他漫画にはなかった背景も何枚かあるが、それらも全て四丁目。
これは、偶然だろうか。
ラストの舞台、廃墟ビルだけが六丁目にある。この場所からは五丁目を挟むため距離がある。あの廃墟ビルに似た建物は、たしかにクロッキー帳に描かれている。ひび割れた壁や、所々で鉄骨が露出した柱、竜の化石のような内装も、酷似していた。
細い路地を抜けていると、突然、目の前に通行止めの看板が現れた。顔を上げると、街中には不釣合いな開けた空き地があった。その中心で、工事用の白い幕のかかった背の高い建物が鎮座していた。交通整理をしていた警備員さんが、大きな身体を揺らして近づいてくる。
「どうしたお嬢ちゃん。この向こうに行きたいなら、回り道していくしかないよ」
「あの建物って、前はなんだったんですか」
警備員さんは後ろを親指で示して、「あれ?」と訝しげに言った。自分はうなずく。
「さて、なんだったかな。とっくに取り壊されちゃってるし、おじさんもここに配属されて七日目だしなぁ。一応、来年末にはここにスーパーが建てられる予定だけどね」
あてならないな、と自分は諦める。その場でクロッキー帳の廃墟ビルのデッサンを開き、空き地との差異を見比べる。似ているといえば似ているが、中に入れてもらえない以上、これ以上の確証は得られない。廃墟ビルに関した絵を何枚か眺めているうちに、あたしはある一枚に目を止めた。
ビルの内装を模写した絵だった。強烈な違和感を覚える。記憶を掘り下げていると、やがてその光景に辿り着く。あとは、実物と照らし合わせるだけ。
日はもう傾き始めていたが、あたしはそのまま、その足で廃セメント工場へ向かった。
夕日の差し込む廃墟ビルの内部は、かろうじて壁面の様子を確認できるだけの明るさを残していた。
さきほど開いたページを眺めながら、指の腹で壁をなぞる。ビートルズのポスターの端が、かさりと崩れる。受付カウンターの壁だった。クロッキー帳にあるカウンターの絵には、これだけ目立つはずなのに、そのようなポスターは描かれていない。
あたしは階段を上り、屋上の地面を踏んだ。
縁に残されたラインとリングは、あたしが塗装し直したお陰で今回はきちんと形を保っている。赤い曲線に触れると、背筋がかすかに粟立った。
「そっか」
赤いリングを撫でつけながら、ぽつりと口ずさむ。
「初めてここに来た日、幸司くんと清美はお化けビルの噂についてちょっとした言い合いになった。お化けビルは六丁目にあるのか、それとも四丁目にあるのか。この模様があったせいで、そのときは結局、幸司くんの言うこの六丁目で結論が出たけれど」
あたしの声は屋上に響きわたる。タンクや塔屋に跳ね返り、音はあちこちに飛散した。
「あたしらは騙されている、って堀ちゃんは言っていたけど、もっと抽象的な意味かと思ってた。心とか、そういう精神的な問題。でも違ったんだ。あたしはずっと勘違いしてた」
クロッキー帳を閉じ、胸にかかえる。これがなければ、自分はいつまでも同じところをぐるぐると旋回し続けていただろう。表紙の厚紙が熱を持つまで、ぎゅっと抱きしめる。
「何が違っているとか、どこがずれていたとか、どうすれ違っていたとか、そんな問題じゃない。全部が間違っていた。用意された舞台も、向けられた好意も、全部」
ゆっくりと立ち上がり、うしろを振り向く。よく聞こえるように、声を大きくしてあたしは言い放つ。
「自殺少女が飛び降りたのは、ここじゃない」
階段室の奥の暗闇で、人影がうごめいた。やがて姿を見せた吉村くんは、パーカーのポケットに右手を差し入れ、一歩ずつこちらへ近づいてきた。
「で――ここで死ぬのは、あたし?」
吉村くんは右手をポケットから抜き、回転させるように高速でそれを操る。バタフライナイフの刃が月明かりを浴びると、彼はにっこりと微笑んだ。
「正解」