十話
廃墟工場からの帰り道、歩道の片隅に座り込む堀ちゃんの背中があった。部活帰りなのだろう、スポーツバッグを背負った制服姿で、ポニーにまとめた髪の毛がちょっとかさついている。
自分は、堀ちゃんに声をかけるか迷う。部活を辞めてから一月近く、たぶん一度も言葉を交わしていない。幸いこちらに気づいていないから知らん顔で通り去ってしまうことも出来たが、こんな路上で屈み込み、物珍しそうに地面を眺めている堀ちゃんの後ろ姿は、すごく懐かしくて、惹かれた。
そこは商店街前の交差点のそばで、ソフィアがトラックに吹き飛ばされた場所に近かった。通行人が迷惑そうな視線を掘ちゃんの頭にふりかける。
「堀ちゃん」
すぐ真後ろから声をかける。彼女は反応を見せない。往来する足踏みのせいか、よほど集中しているのか。
堀ちゃんが人差し指を立てて、地面を示した。瞳は執拗なまでにそこへ向けられていて、そのうち、指先もしくは両目からビームでも飛び出すんじゃないかと思った。
そんなわけがないので、堀ちゃんのとなりに腰をおろして、堀ちゃんと同じ地面を見た。
それは黄色い粘土のような、なにかだった。出来損ないの茹でたパスタの破片にも見える。身体に汚れたスタンプらしきへこみ跡があった。まだ生きているようで、にょきっと突き出た二本のアンテナが、ときおりぴくりと動いた。
これはなんだろう、という無音の疑問に答えたのは、堀ちゃんの重い声。
「なめくじ」
黄色い粘土は、ぴくっ、ぴくっ、と動く。たしかにそれはなめくじで、もっと言えば潰されたなめくじで、というかもう、どこからどう見ても踏んづけられたなめくじ。あまりにリアルなので逆に分からなかった。
「なめくじ」と自分が繰り返すと、堀ちゃんは「自転車に轢かれて、死にかけのなめくじ」と諭すように言った。その声は、まるで最低限の音色まで閉じこめてしまったよう。
あまりに無機質なので、もしかして堀ちゃんは、なめくじの哀れな死に泣いているんじゃないかと思った。だからそっと彼女の顔を覗いてみる。
下を向いているせいで前髪が垂れ、目元を隠している。頬に涙の伝った跡はない。自分は手を伸ばし、堀ちゃんの前髪に触れ、やさしく脇によけた。
堀ちゃんは泣いていなかった。目が赤かったけど、きっと泣きそうだったからじゃなくて、まばたきもせずに凝視しつづけたためだろうと思われた。そう思うことにした。
堀ちゃんはあたしの手を握って立ち上がる。つられて引っ張られた自分は体勢を崩し、なめくじの方へと転びかけたが、堀ちゃんの靴が先になめくじを踏んだ。
「さっきぃ、暇でしょ」
「うん」
「これからお母さんのお見舞いに行くんだ」
お見舞い。お見舞い。当たり前のように言われたけど、それ、自分には初耳。
「ついてく」
堀ちゃんは格好よく笑った。手をつないだまま歩き出す。振り返ると、黄色い半透明な粘土が地面を濡らしていた。
「さっきぃ、知ってた?」
「うん?」
「なめくじって、自転車に轢かれただけで死ぬんだね」
「知ってた」
「もうちょっと出かけるのが早かったら、死ななかったと思う?」
「あれだけ人が多かったら、自転車じゃなくても誰かが踏みつけていたと思う」
「じゃあ、もし出かけていなかったら?」
「今日出かけていなくても、明日死んでいたかもしれない。明日じゃなくても、明後日にも」
「なめくじだから死にやすい」
自分は首を振った。大きく、左右に振った。
「人もいつだって死ぬ」
自分たちがこうして歩いている瞬間だってそう。車道から突き出たトラックに轢されてしまうかもしれない。人混みから、ナイフを持った頭のおかしい殺人者が現れるかもしれない。予期せぬ心臓発作に見舞われてしまうかもしれない。朝食の食材に致死的な劇物が混入していたかもしれない。空から金属の塊や、割れたガラスが落ちてくるかもしれない。今どこかの国が、この町に向けてミサイルを発射しているかもしれない。政府が秘密裏に人口削減案を可決させていて、テロリストの仕業に見せかけ、この町に毒ガスを散布してしまうかもしれない。
ばかみたいな話だね、と堀ちゃんは笑う。
すべての生物に等しく、常にサイコロは振られている。サイコロは人の心にまで影響していて、案外心は未知数に動かしやすいもので、たとえば何かの拍子にあたしが死んでみたいと思ったとき、それはもう簡単に死ねてしまうのだと。たとえば、今すぐビルの屋上にあがって。
堀ちゃんは、もう笑わない。
「さっきぃ」
いつのまにか、病院の駐車場にいた。だだっ広い敷地はほぼ満車。色とりどりに並べられたチロルチョコ。車と車のあいだに自分たちは立っていた。さっきまでつないでいた手の感触がなくなる。
堀ちゃんは右腕を伸ばし、病院の一棟を指す。死にかけのなめくじや、死んだカラスを指したときのように。自分は思う。あの人差し指は呪力の源だ。
「あの窓開いてるところ、お母さんの病室。うちのお母さん覚えてる?」
どうやら堀ちゃんは話題を変えたがっているらしい。あたしは舌打ちしたい気分だった。
「覚えてるよ。もう何年も会ってなかったけど」
彼女の言う通り、ある一室の窓が開いており、白いカーテンが風にたなびいていた。目を凝らせば、サッシに青白い指がかかっているのが見えた。やがて、見覚えのある女性が顔が出す。
年々、堀ちゃんは彼女に似て美人になっていく。そのうち双子みたいになって見分けがつかなくなるのかも。しかし一方の彼女は、あいかわらず年分相応な若々しい顔つきだがいくらか痩せてしまったように見える。窓枠に両手をかけ、日光浴でもするみたいに目を細めていた。指先と同じように青白い顔はアイスクリームで、そのまま日の光を浴びれば溶けてしまいそうだ。
堀ちゃんは弱々しく、彼女に向けて手を振った。距離があるためか彼女は気付かない。堀ちゃんは諦めて手を降ろした。
「さっきぃにひとつだけ言っておくけど」
「うん」
堀ちゃんは正対するようにあたしの正面に回り込んで、まともに視線を絡めてきた。
「吉村くんに会うの、もうやめなよ」
あんまり寒いことを言うものだから、季節が冬に変わってしまったのかと思った。どうしてだろう。堀ちゃんと話すの、久しぶりだからかな。頭が痛い。こんなの暗黙の了解だと思っていたのに。なんだかもう、堀ちゃんの考えていることが分からなくなってきた。
「吉村くんのこと、知ってたんだ」
「はぐらかさないでよ。そんなの今さらじゃない」
「今さらって」思わず笑ってしまう。「それ、堀ちゃんの言えた台詞じゃないよ」
とつぜん、二の腕をつよく掴まれた。堀ちゃんは苛立ったようにあたしに詰め寄る。顔の作りがいいから、睨むと余計迫力が増して見える。
「ふざけんな。お互いもう知ったかぶりはもうやめようっつってんの。あたしら騙されてるよ、あいつに。分かりきったことじゃん。おかしいよ、知っててこんな下らない茶番いつまでも続けて。一度三人で顔合わせてさ、全部本当のこと、」
自分は力任せに堀ちゃんの手を振りほどいた。堀ちゃんはびっくりして後退りした。
「分かんないかな。今が一番バランスいいんだよ。堀ちゃんもだんだん普通の子になってきたみたいだし、自分だって今の状況結構楽しんでるし、やりたいことしてるって感じがする。お互いのためになるなら、このままが一番だと思うな」
「いつまでも続かないよ」
「あーっ、わかった。堀ちゃん嫉妬してるんだ? 自分と吉村くんが仲良くしてるの、悔しいんだ」
彼女は愕然として、開いた口も閉ざせず、喉をつまらせる。
「どうしてそうなるの?」
ちょっと、いたずらし過ぎたかな。でももう、止まる気がしない。
「初めて吉村くんと会ったのって、実は堀ちゃんの方が早かったんだよね。自分が清美たちとお化けビルに行った次の日だよ。あの日の放課後、堀ちゃん部活さぼって一人でお化けビル行ったよね。そのときでしょ、吉村くんに会ったの」
堀ちゃんは目を伏せた。震える手が、拳をつくる。
「あたしの方が先に目をつけたのに、なんでって、堀ちゃんは悔しかったんだ。ずっとおかしいと思ってたけど、そういうことだったのか。だからこんな風に取り返しのつかないことになっちゃったんだね。ねえ、自分で蒔いた種なのにどうしてあたしのせいにするの? おかしいこと言ってるのって堀ちゃんの方だよ。どうにかしたいなら、堀ちゃんが責任持って解決してよ。ばか」
自分は体操服の上着のポケットから手まり飴を出して、ねちっこく時間をかけて包装をやぶり、口に含んだ。おいしい、と微笑んで堀ちゃんの横を通り過ぎる。そこであたしは目を見張る。
「あんたさ――」
振り返った堀ちゃんも、言葉を失った。
窓から身を乗り出す堀ちゃんのお母さんの姿が、目に飛び込んできた。お辞儀するみたいにして頭を垂れ、長い髪を下へと伸ばす。今日、そうすることが決まっていたかのように行動に無駄なく、躊躇の加減もないほど深く。そして彼女は手を離し、呆気なく落下した。強風に煽られることもなく地面へと一直線。すぐさま彼女の身体は生垣の向こうに隠れていく。
ゴツン、という激しい音が響いた。一秒遅れ、生々しい振動が足元から伝わる。
やってくる冷たい静寂。
空は嘘みたいに晴れ渡っていた。風は何事もなく白いカーテンをもてあそぶ。口の中で飴を転がすと、溶けた液体が奥歯を触った。
方々から上がり始める悲鳴に、堀ちゃんは弾かれるように駆けだした。自分は息を整え、ゆっくりと彼女の後を追う。
駐車場を抜け、生垣の角を曲がる。まばらな人だかりが出来ていた。人々の間から、赤黒い異物まじりの血液がアスファルトに広がっていくのが見えた。
膝を落とし、母親の遺体を見下ろす堀ちゃんの横顔。唇を震わせ、瞳はいまだ信じがたいという風に見開かれている。そんな顔をする堀ちゃんは初めてかもしれない。この一連の出来事で自分を最も驚かせたのは、なめくじや、吉村くんや、おばさんのことでも何でもなく、彼女のそんな表情だった。
手のひらに力を込め、生垣の葉をちぎる。悔しいのは、こっちのほう。
あたしにも、その顔を見せてよ。