九話
一週間ぶりに廃墟ビルの屋上に立ち、朱色の模様たちを近くで眺める。連日の雨に晒されたためか、ラインとリングはどことなく色落ちしているように見えた。屋上に溜まった砂や埃が固まり、泥や塵となって模様を埋めようとしている。
自分の心配は的中した。昨日まで大変激しい雨で、あれはほとんど嵐と言ってもいいくらいだった。このラインとリングは、自分の目が行き届いている限りは状態を保っていてほしい。
今日は刷毛とラッカースプレーを用意し、汚れてもいいような体操着で来た。
刷毛を使い、ラインやリングにかかる汚れを掃除する。泥が粘着性を持っていて完全には落ちなかったので、雑巾で何度も拭った。
ある程度の汚れを落とすと、ラッカースプレーを振り、慎重に狙いを定めて一吹きだけしてみる。元の色によく似た薄紅色が、リングの一部に染まる。
自分にはまともな塗装の経験がない。コンクリートなどもってのほかだ。まず試しに小さく吹きかけてみて、様子を見ようと思った。
塗装が乾くまで、屋上からの朝日を楽しんだ。
山中へ突き出すように立地されたこの廃セメント工場は木々のざわめきや鳥のさえずりがよく聞こえる。右方の山々から麓の町まで広がる樹林地帯は、ほぼ真白ヶ丘森林公園の敷地となっている。随所に切り開かれた広場や植物園の位置取りが、手にとるようにわかった。
公園の中央口から吉門四丁目にかけて、いくつもの重機の手足が天高く伸びている。この場所から望むそれらはとても小さく、自分には昆虫の触角か何かにしか見えない。ここ吉門六丁目には、虫の行進は届いていない。
五十分ほどが経過した。
もう乾いているだろうとリングに目を落とす。だが、塗装面の水気は五十分前となにも変わっていない。どうしてだろう、とあたしは顔を近づける。水気が飛んでいないどころか、重ね塗りした箇所だけ不細工にしわが寄っている。鮮やかだったはずの薄紅色も、変色し、どぶに混ぜた絵の具みたいな色になっていた。
やっぱり、塗り方を間違えちゃったんだ。
どうしていいか分からなくなった自分は、とにかく道具を鞄に詰め、一度町に下りることにした。
図書館に立ち寄り、塗装に関する本を探してみたけれど、どれも専門的で難しい。そもそも自分は活字が苦手なので、たった二冊目で本にたよる気がなくなってしまった。
父に訊けば、なにか分かるだろうか。
自宅に戻る道中、同じ区域に住む知り合いのお兄さんが、家の塀をペンキで塗り変えていた。彼は父の昔の部下で、一昨年の春に結婚したばかりだ。たしかもう三十代のはずだけど、見た目が若いのでお兄さんという感じがする。一度夫婦でうちに挨拶に来たが、奥さんがなかなかの美人さんで、父がちょっと浮かれていた。
「日曜大工ですか?」
「そうだよ」
お兄さんはにっこりと笑った。
ちょっとした世間話や新婚生活の様子を社交辞令的に聞き流した。天気の話をした後、日曜大工について質問した。ぶっちゃけ父はあてにならないので、塗装について詳しく聞き出そうと考えた。
「なにか作り物でもするの?」
「はい。もうすぐ文化祭で、展示物を作ることになってるから……」
本当は、塗装が必要な展示物なんてうちのクラスは作らない。というか今年の出し物は演劇だ。あたしは、彼がうちの文化祭に来ないことを願った。
「もとの色が気に入らなくて、ラッカースプレーで重ね塗りしようとしたんですけど、ちゃんと色がつかなくて。こう、ぐちゃぐちゃってなっちゃったんです。うまく重ね塗りするには、どうしたらいいかなぁ、って」
お兄さんは腕を組んで考えた。あたしが提示した少ない情報から想像し、的確なアドバイスをするべく必死になっている。彼は父の元部下だから、たぶん、娘のあたしのことも邪険に扱えないのだろう。
「まず、既に塗られている塗料の種類が知りたいな。分かる?」
「分かんないです」分かるわけない。
「じゃあ、対象の素材はどんな物なの?」
コンクリートの地面、と答えようとして思い直す。いくらなんでも不自然だ。
「ブロック塀を組み合わせて作る作品なんですけど。えぇと、屋外に飾るやつです」
同じコンクリート素材を挙げてみたが、ブロック塀で作るって一体どんな作品だろうと自分でも思う。それでもお兄さんは一応納得したようだった。
「ブロック塀に塗ったのなら、おそらく水性塗料だったんだろうね。でも、ラッカーの重ね塗りでたるんじゃうってことは、油性の可能性もあるなぁ。普通は水性だと思うけど」
「外で飾るのに、水性ですか?」
水性塗料って、名前からして雨風に溶けてしまいそうだ。自分がそう尋ねると、お兄さんは足下に置かれたペイント缶を指した。そこには「水性用丸缶」と書かれている。この家の塀も水性塗料で塗装するらしい。
「水性とは言っても、今の家庭用塗料は進んでいるからね。水性でも雨風に強いものが多い。むしろ、セメント系を塗装したいなら油性はよくないよ。ちょっと難しい話になるかもしれないけど、一応聞いてみる?」
「じゃあ、おねがいします」
お兄さんは楽しそうな笑みを浮かべた。
「まず前提として、コンクリートはアルカリの性質を持っているんだ。通常の油性塗料はアルキド樹脂が含まれているんだけど、そのアルキド樹脂がアルカリには適さない。コンクリートからアルカリが析出するおかげで、せっかく乾いた塗膜も剥離しちゃうんだ。雨風なんかで簡単にね。だから、セメント系には油性じゃなく水性を使うのがかしこい。ここまではいい?」
理解するのに時間がかかりそうだったが、話の腰を折らないよう頷いておく。
「で、僕が疑問なのは、ラッカーを上塗りして塗膜が緩んじゃうってことは、油性塗料が使われている可能性が高いってことなんだよね。変だよ、ブロック塀もコンクリート作りだろうし、わざわざ不適性な油性塗料を使うなんて」
お兄さんはひたすら首をひねり「わからない」を繰り返していた。そのうち、「もしよかったら実物を見に行きたいな」とまで言いだした。かなり行動的な人である。
自分が自信なさげに「文化祭の準備段階だから、一般の人は学校には入れないと思います」ととっさに言い訳すると、彼は残念そうに首肯した。
「まぁどちらにしても、ラッカーで塗り重ねるのはよくないな。予備の水性塗料と道具一式を貸してあげるから、持っていってよ」
思いがけない好意だった。
「あの、お金払います。塗料だってタダじゃないし……」
「いいよいいよ。君のお父さんには随分お世話になったしね。いい文化祭にしてね」
あたしは心が痛くなってきた。でも、それを顔に出さないよう気をつけて、「ありがとうございます」と丁重に頭を下げた。
再び屋上に戻ってくる。余計なところまで色がついてしまわないよう、マスキングテープでリングを囲むように貼り付ける。直径三、四十センチほどの小さな円も、長さ五十センチほどのラインも、道具さえあれば大した苦労もなく作業できそうだ。
お兄さんと同じように、自分も引っかかっていた。
彼の言うことに間違いがなければ、このラインとリングは油性塗料で描かれているのだろう。コンクリートに塗られた油性塗料は雨風に弱い。実際、五日間続いた豪雨によって色が劣化してしまった。どうして自殺少女は、適さないはずの塗料でこの模様を描いてしまったのか。
単に知識がなかったから? それとも、いずれ消えてしまっても構わない印だったから……。
いやそれ以前に、彼女が自殺して三年も経つのだ。自分たちが初めて訪れたのはほんの数ヶ月前だから、そのスパンは少なくとも二年以上。これだけ時間が経っていながら、数ヶ月前の初見時、塗装に目立った劣化が見られなかったことの方がおかしい。
さらにこの廃セメント工場は、ビルの内壁にビートルズのポスターが貼られていたことから推測すると、バブル以前に建設されたのだろう。それだけ古ければ基礎的な環境水準も低く、あちこちの地面の状態が悪いのもうなずける。そんな中、この模様だけがきれいな形を残しているわけがない。
こんな単純なことに、今まで気づけなかったなんて。
マスキングテープを貼ってしまうと、ペイントローラーで防水用シーラーの下塗りをして、そのうえで水性塗料を上塗りしていく。お兄さんに教わった正しい塗装工法だ。
今度は廃墟ビルの下まで降りて、地上に描かれたリングにも同じように上塗りしていく。今度こそ、模様たちが簡単に崩れてしまわないように。
ともかく、今回のことで確信したことがある。
少女がこのラインとリングを描き、自殺して以来、他の誰かがこの模様を維持し続けている。何者かが、何らかの目的で。しかも、わざわざ簡単に剥がれてしまうような方法で……。