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断章・二

 小さなパン屋から出てきた堀中佳代の手には、小振りな紙袋がぶら下がっていた。

 寒くなってきたなと感じていた吉村は、店の前で学ランの下にパーカーを着込み、フードを制服の首もとから露出させた。うなじにかかる窮屈さが、今は心地よい。

「ねえ、買ってきたよ」

 堀中佳代が紙袋を肩の高さまで持ち上げた。

「ありがと堀中さん。あれ売ってた? ソフィアパン」

「そんな名前じゃなかったけど、これでいいの?」

 と言って、彼女は紙袋の口を広げて見せる。中には女の子の顔の形をしたキャラクターパンが二つ。噂どおりロシアン帽を被った女の子のキャラクターで、頬がほんのりとピンク色に染まっている。ロシアン帽の部分はココアパウダーやチョコレートで色づけされているらしい。

「そっくりだ。やっぱり、このパンがソフィアのモデルだったんだね」

「ですかね。あたし知らないけど」

 吉村はパン屋を振り返る。ガラス越しのレジから、バイトらしい男性が微笑ましげにこちらを見ていた。自殺少女の父親を連想しようとしたが、しかし彼は若すぎた。高校生くらいに見える。堤信吾の話によると、彼ら姉弟の父親は現在、現場ではなく本社勤務だという。

 あの漫画が描かれて三年以上経つ。少しずつ、人や街の風景は変わっていく。残念な気持ちが全くないわけではない。でも、まだこのパンが作られていただけ良かったな、と吉村は思うのだった。



 咲子と堤を引き合わせたのは五日前。あの日の翌日から、梅雨以来の記録的な雨量の豪雨が降りすさいだ。数日ぶりに見る秋晴れは目に痛く、雨上がりの湿気と冷気は依然として街中に立ちこめている。

 中央口から入り、遊歩道を十五分歩いて『スミレ園』を訪れる。土曜日の昼下がり、中央の噴水は涼しい音を立てて水しぶきを上げる。まだ乾いていない地面は、日光を浴びてきらきらと光っていた。

 堀中佳代がふらりとそばの段差に座ろうとするのを制止して、吉村は「あっちに座ろうよ」と、長方形の石のオブジェクトの袂、二連のベンチを指した。

 しぶしぶ吉村に従う堀中佳代は、ベンチの端にスポーツバッグを置き、肩をぐるりと回した。吉村はパン屋の紙袋を彼女に手渡し、丁寧に座った。

「あたし、二つも食べないよ」

「いいよ、無理しなくて。部活帰りだからお腹減ってるでしょ」

「無理してない。あたし小食なの。ていうか、疲れ過ぎて逆に食べらんない。吉村くん全部食べてよ」

 紙袋を突き返される。吉村は「そっか」と笑って一個目をかじった。イチゴのジャムが入っていた。

「この時期でも、休日に部活あるんだね。お疲れさま」

 堀中佳代はあからさまに顔をしかめた。

「ねえ吉村くん、あんた今日何回『お疲れさま』って言った? あたし、そんな疲れた顔してる?」

 吉村はジャムをよく味わいながら、彼女の顔を見る。眉間にしわを寄せ、ちょっと目つきが危ない。いつもより不機嫌そうで、いつもより疲れていそうだった。

「馬に三時間引きずられた罪人みたいな顔してる」

「ぶん殴られたいの?」

 本当に殴る真似をするので、面倒くさいなあと思いつつ、吉村は身構える演技をした。意外にも彼女はあっさりおふざけを中断したので、よっぽど疲れてるんだな、と少し不憫になった。

 一個目を食べ尽くし、二個目を手にする。今度はチョコだった。

 二連のベンチの中央にはスタンド灰皿が置かれていた。堀中は灰皿寄りに座っている。手持ちぶさたに髪をかきあげていた。

「煙草、吸わないの?」

「こんな場所で、しかも制服姿で吸えるわけないでしょ」彼女は心底だるそうに答えた。「つーかあたし、煙草やめたし」

 吉村の口元は自然に緩んだ。

「あのとき、僕がやめろって言ったから?」

「馬鹿じゃないの。違うし。あたしって一応スポーツマンだし、期待の星だし、全国大会も控えてるしさ。ていうか知ってた? 煙草って一本吸うごとに寿命一分減るんだって。こわくない? それ知ってから急に恐ろしくなってさあ。寿命一分って、なんていうか妙に具体的じゃない。誰も早死なんてしたくないじゃん、だって」

 それから堀中は吉村を流し見、舌打ちした。

「ねえ、そのニヤニヤするのやめてよ。きもちわるい」

「これはニヤニヤじゃなくて、ニコニコだよ」

 彼女はもう一度舌打ちした。そんなに嫌がらなくてもいいのにな、と吉村はパンを食べる。

 煙の混じらない爽やかな空気があたりを包む。右隣に設置されたベンチでは、若い男性会社員が居眠りしている。寝顔は心地よさそうだが、ビジネスバッグを親の形見でも掴むようにぎゅっと胸に抱いている。ときどき、苦々しい表情を浮かべ、短くうなされた。いったい彼になにがあったのだろう。

「本当に、吉村くんがやめろって言ったからやめたわけじゃないよ」

 ふいに彼女が口ずさむ。ソフィアのパンを器用に帽子の部分だけ残して食べていた吉村は、目だけを動かして彼女を見た。

「けっこう危なくてさ、うちの母親」

「なんの話?」

「あたしのお母さんの話。摂食障害ってやつで、かれこれ半年も入退院繰り返してんの。で、そろそろ危ないかなって、あたしも覚悟決めてるんだけど」

 吉村は首をひねった。

「摂食障害って、そこまで危ないかな」

「普通はそうでもないけど、度合いにもよるから。身体より心の問題なわけ。実は、このあともお見舞いに行くんだよね。これが一触即発、毎回大変で」

「そうなんだ。じゃあ僕も何か手伝う?」

 堀中は申し訳程度の愛想笑いをして首を横に振った。

「いいよ、気ぃ使わなくて。それに男連れてったら、無駄に混乱させるだけでしょ。出来るだけそっとしときたいのよ」

 あーあ、と彼女は背伸びをして、組んだ両手を膝に落とした。

「あんなんだからお父さんにも見捨てられちゃうんだよね。命をソマツにするのってさ、なんだかんだで、やっぱいいことじゃない。大した理由もなく死ぬのって、みんなに失礼。土下座しろって感じ」

 狡猾なカラスがやってきて、居眠りするサラリーマンの周囲をうろうろと彷徨う。彼は起きないが、心なしかバッグを抱く手にも力がこもった。

「ほら、あのカラスにだって失礼だよ。人間が頂点に君臨する世の中、その人間相手に命がけでネコババ食らわそうとしてんのよ。ほんと泣けるわ」

 吉村は肩透かしを食らったような気分だった。

「咲子さんが話す堀中さんと、実際の堀中さんって、死生観が全く違うよね。堀中さんはもっと自由で、残酷で、死を見るのが大好きな女の子なんだって、咲子さんは言ってたのに」

 堀中佳代は、無言でカラスを見つめる。吉村は続けた。

「君は、僕に似ていると思ってたのにな」

 彼女はため息を吐いて瞼を閉じ、目頭をおさえた。

「あたしは変わったの。じゃなきゃ、煙草なんかやめない。死にたくないし、誰かが死んでいくのも、もう見たくない」

「咲子さんが聞いたらどう思うだろう。最近、彼女と話してないんだよね。どうして咲子さんのこと見ていてあげないの?」

「もう無理なんだよ、さっきぃは」

「誰かが死んでいくの、見たくないのに?」

 もういいという風にスポーツバッグを乱暴に取り、彼女は吉村から離れていく。

「堀中さん」

 声を張ると、驚いたカラスが飛び立っていった。

「咲子さんがあそこを越えたら、堀中のせいだからね」

 しばらくの沈黙のあと、堀中佳代は勢いよく振り返り、「じゃあ、あんたが代わりに死ね!」とヒステリックに叫んだ。広場中に響きわたる声で、若いサラリーマンが飛び起きる。バッグを抱いたまま立ち上がり、しきりにあたりを見回していた。

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