八話
自殺少女の苗字が高確率で『堤』だということが判明した。あたしの斜め前で古典文学を読む自殺少女の弟、堤信吾くんは、本当に吉村くんに呼ばれてここへ来たのか怪しくなるほど自分たちに興味を示さず読書に集中しているので、一体ここからどう展開していくのだろうと吉村くんに視線を送ると、彼はニコニコしながら手まり飴を舐めるだけだった。
「それで?」諦めて自分は聞く。
吉村くんは飴で出っぱった頬を掻いた。
「いや、もっと咲子さんの方から食いついていくと思ったんだけど」
この人は思ったより思慮浅いのかもしれない。
自分はだれきった背筋を正して、二つ目の手まり飴に手をかけた。自習スペースの窓に秋の枯れた木の葉が貼りついた。風が吹き、窓枠がきしむ。心にほんの少し余裕が出ると、この図書館は帰宅ラッシュのさなかにも関わらずあり得ないほど閑散としていることに気づく。他のテーブルに着いている者はたったの三人。あたしや吉村くんまで無言になると、奇しくも館内はあるべき姿を正常に維持する形となった。
「じゃ、あとはお二人に任せて」
沈黙に耐えられなくなった吉村くんは、スクールバッグのストラップを大魚でも引っ張りあげるみたいにして一気に持ち上げ、テーブルから離れていった。そんな予測もしていなかった事態に自分は言葉をかけることすら出来ず、遠ざかっていく背中に唖然とするばかりだった。
彼は出入り口付近で一度足を止めて、今日びドラマでも見ないような爽やかなウインクを送った。そういう余計なのが一番いらないんだけどな、と自分は思った。
吉村くんが去り、もう二度と戻ってこないことを確認、というか整理して、改めて堤くんを観察しようと思った。
目が合った。
いつから見られていたのか、堤くんはあたしをじっくり舐めるように見ていた。穴が空くほど、その空いた穴が凍傷を起こしてしまうほど、冷たく。先に観察されてしまったのはあたしの方だったわけだ。びっくりして、合わせた目を逸らせなかった。てっきり彼はリードブックではなくリーディングブックだと思っていたから、油断していた。
堤くんは眼鏡のブリッジの位置を指で調整した。そのままブリッジに指を置いた状態で、レンズ越しにあたしを捉える。その不動の姿勢は、サスペンス映画の頭脳明晰な主人公役のワンカットのようだった。そして犯人はあたし。それとも死体か。そんな目で見られると、まるで自分は生きていない何か、プラスチックか粘土の人形みたいに思えてくる。居心地が悪く、正直言って、この人苦手だなと肌で感じた。
「うちの姉に、興味があるらしいが」
一瞬、誰が発言したのか本気で理解できなかった。この空間にいる人間なんて限られているんだけど、堤くんの顔はほとんど手の甲に隠れているので分からない。ブリッジから指を離して手をおろすと、口元にさっきの言葉の余韻が残っていた。それで遅まきに彼が発言したのだと気づいた。
この人、喋るんだ。いや、喋らなきゃおかしいか。
やっと緊張が解けて、視線をテーブルの木目に落とす。そして考える。
「べつに、興味があるわけじゃないけど」
ひねくれでもなく、そんな風に答える。
「しかし吉村からはそう聞いたが、興味がない? じゃあ、どうして俺はここへ呼ばれたんだ」
「それは自分の知ったことじゃないよ」
堤くんは片眉をひそめた。この場合気分を害したというより、単純に、うまく聞き取れなかったという表情のようだった。そろそろこの一人称も直したい。
「それは、あたしの知ったことじゃないよ」
堤くんは顔を無表情に切り替えて、脱力するような空気を醸し出す。いつでも帰れるように椅子に浅く掛けなおすのを見て、自分はすこし申し訳ない気持ちになった。
「漫画には興味あるけど、作者にはそこまで興味ない」
ちょっと嘘混じりだけど、言い直してみた。
堤くんはまた眼鏡の位置を正した。サイズが合わないのだろうか。それとも癖なのか。
「それは、漫画に興味があるんじゃなくて、単に続きを読みたかったってだけじゃないのか。『少女レゾンデートル』は未完だからな」
少女レゾンデートルのラストは、本体のソフィアが影のソフィアを手斧で消し去り、屋上へ上がるところで終わっている。一見、竜頭蛇尾の尻切れトンボのようだし、続きが気になるといえばそうだけど、今は別の見解もある。
「あたし、あの漫画自体も好きだし、あの途切れ方も、あのままで良かったんだと思う。あれはあれで完結していたんじゃないか、って。きみのお姉さんのことだから、きみの方がよく分かるかもしれないけど……とにかく、あたしはあれで満足だった」
堤くんは、ほとんど音を立てずフッと笑った。
「中学生らしくない、渋い見方をするんだな」
中学生らしくないといえば、堤くんの口調の方だろうと自分は思った。吉村くんの様子からして、たぶん堤くんは自分とも同い年だろうに、どうしてこんなにも芝居がかった偉そうな話し方なんだろう。
堤くんは『太宰治全集Ⅲ』を閉じてカバーに収めた。そして椅子を立ち、仕切り板一枚を挟んだ一般書架コーナーに入った。戻ってきた堤くんの手には、さきほどの本はなかった。
「ここで騒ぐのは迷惑だから、話したいなら表でする。行くぞ」
「さっきの本、貸りないの?」
「あれは閲覧専用だ」
飴がぜんぜん溶けていないことを知って、舌の上で数回転がし、自分は堤くんについていった。
真白ヶ丘森林公園は中央入り口がもっとも賑わっており、中央入り口のそばには商店街や市役所などがあって人通りも多い。また、『森林公園前』という地下駅が、来年にも開業する予定だという。かつてはただのベッドタウンに過ぎなかったこの町も、真白ヶ丘森林公園が切り開かれて十年弱、めまぐるしい都市開発が繰り返された。自殺少女のガセ情報があった吉門四丁目区域が分譲されようとしているのも、その煽りだ。
自分もこの公園に出入りする際はよく中央口を使うけど、今日は西口から入園した。図書館からだと西の方が近いのだ。
堤くんは西口を入り、右に折れて進み、『スミレ園』に入った。チューリップを始めとした様々な花が埋め込み式の花壇で咲いている休憩所だ。中央に噴水があり、その雛壇の石垣には『天からの授かりもの』という文字が彫られている。うさんくさいミネラルウォーターみたいだ。
この休憩所には、『彫刻園』には飾られない小さなオブジェが多数ある。いわゆる微妙に売れていないアーティストの作品たち。『彫刻園』に並べられたオブジェクトたちは、テレビ出演するような作家の作品ばかりだ。この前の早朝番組では、とある外国人アーティストが手がけた彫像の数々が紹介されており、真白ヶ丘森林公園の様子も何度か画面に映りこんだ。
彼らのような華々しいスポットを受けるか受けないか、そんな絶妙なラインの彫刻・造形作家の作品群が『スミレ園』にはある。あの有名な公園に置いてもらえるだけで御の字なのよ、といつだったか美術の先生が語っていた。
長方形に長い石像のそばに、木製ベンチが二脚並んでいた。左方のベンチに若いサラリーマンが座っている。若いサラリーマンは低い寝息を立てながら、背もたれに頭を預けて居眠りしていた。足下にはビジネスバッグが横たわり、開いたファスナーから書類がはみ出ていた。
自分たちは空っぽの右のベンチに腰掛けた。
途中の自販機で買ったおしるこのプルタブを上げ、生温かい汁を啜る。冷える夕方だったから、妙においしい。「堤くんも飲む?」と訊いてみたが、返事はなかった。
堤くんは神妙な顔をして、しぼみかけた菜の花の花壇を見つめていた。秋でも生き残ったままの菜の花の生命力に関心しているようにも見えたが、ふと顔をのぞき込むと目を閉じていたので、自分の勘違いだった。
さっきの話だが、と堤くんは薄く瞼を開いて切り出した。
「未完の名作、というのがあるだろう」
たぶんこれは、『少女レゾンデートル』を指しているんじゃないんだろう。あれは一介のしがないweb漫画でしかなく、名作と呼ぶには、いくら作者の実の弟だからって誇張し過ぎだから。もっと広義の、著名な作者が作った作品のことだろう。
「有名どころで言えば夏目漱石の『明暗』、芥川龍之介の『邪宗門』、ドエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、手塚治の『火の鳥』」
有名どころといっても、古典文学や外国小説は堅苦しいイメージがあるので、自分は読んだことがない。でも『火の鳥』なら読んだ。公民館の図書コーナーで、小学生のときに。
そういった事情を正直に話したら、堤くんは深くうなずいて続けた。
「まぁ、読んだことがなくてもいい。俺としては『火の鳥』はまだ腑に落ちる。逆に、読んだことを後悔したのが『邪宗門』、『カラマーゾフの兄弟』だった。二つとも読んだのは二、三年前だったが、あの物語の世界にいまだ足を引っ張られているような、閉じこめられているような気分になる」
「閉じこめられる」
「そう。未完結作品と不完全作品の違いはそこにある。不完全作品はたしかな世界観が形成されていないことが多い。登場人物たちの息づかいが聞こえてくるような、あたかもその世界が存在しているかのようなリアリティ、そして人間や社会に訴えかけるようなテーマ性を含んだ作品だからこそ、未完の名作と呼ばれる。読者が閉じこめられるかどうかは人それぞれとしても、物語の登場人物たちは確実に閉じこめられているんだ。完結されなかった作品の中で、登場人物は今も迷っている。たとえ道筋を知っていたとしても、自ら進む術を持っていない。永遠に閉じこめられているんだ、彼らは」
わかるような、わからないような。
「幽霊みたいなもの?」
「それに近いかもな」
堤くんは皮肉っぽく微笑した。
「そういうの、想像したことないか。映画でもアニメでも漫画でもなんでもいい。ひとつ仮想の物語を作るごとに、仮想の世界がこの宇宙のどこかに生まれる。オムニバースの一つになるんだ。それら一つ一つの世界に落としどころをつけなかったらどうなる。永遠に時間の閉じられた、終わりのない世界というものが果たしてあっていいのか」
自分は口を挟まなかった。話が大げさ過ぎておもしろかったけど、堤くんが苛立たしげに眼鏡を触り、髪をいじっているところを見ると、邪推なことは言えなかった。
「俺も、『未完の名作』なんて呼びたくはないんだ。『完結した凡作』は『未完の名作』に勝ると信じたい。本当は『未完結作品』と呼んでいいのに、そんな言葉では収まらないほど素晴らしい『未完結作品』が、この世には溢れかえっているんだ」
図書館の窓にもへばりついた木の葉が、スミレ園にも舞う。菜の花畑に咲いた一本が、風にあおられ、ぽきりと茎を折った。
「物語を終わらせないまま、作者は死んじゃいけない」
もしかして、と思う。
堤くんがこの一連の話に『少女レゾンデートル』を一切挙げようとしないのは、もしかして彼の気恥ずかしさから来るものだったんじゃないか。自分のような素人が見ても、『少女レゾンデートル』は漫画として未熟な作品だった。画力はそこそこだけど、もうひとつ肝心なストーリーが、めちゃくちゃ。それでも、「この漫画には何かがある」と、体の芯に訴えかけるものがあったのは、全くの嘘じゃない。
お姉さんが描いたあの漫画を一番評価していたのは、もしかして、堤くんだったんじゃないか、なんて。
二羽のカラスが仲むつまじく揃って着陸し、徒歩で居眠りサラリーマンに近づいた。自分には、その二羽のカラスは夫婦に見えた。仲が良さそうに見えたという理由で。実際は夫婦でもなんでもなく、友達だったり、知り合いだったり、ともすれば目的地が一緒だったってだけの他人かもしれない。
一羽のカラスが「じゃまだ」と暴れだし、もう一羽のカラスが空へと逃げ出す。それを見て、二羽が他人同士だと思い知らされた。
勝利したカラスは、悠然とサラリーマンに近づいていく。そっと地面に横たわるビジネスバッグに首を伸ばし、くちばしで中を漁った。
サラリーマンは、死んだみたいに眠っている。
やがてカラスが何かを探り当てる。さっと首を引っこめた。カラスのくちばしに挟まれた物は、よく見ると腕時計だった。なぜ腕時計が腕ではなくバッグの中にあるのか疑問だった。考えても仕方ないけど。
じいっと横目で眺めていると、カラスと目があった。瞳も羽毛も黒いから、ちょっと遠くからだと区別がつかないけれど、それでも目があったのだと、うっすらと本能で察した。
小学六年生のとき、堀ちゃんと一緒に見たカラスを思い出した。合気道道場の裏手の林でのこと。カラスの死骸と、それを睥睨する木の上のカラスたち。生きるために必死なカラスたち。生きるためなら、仲間の死骸をも差しだし、新たな食料、命を奪ってしまう、冷酷かつひたむきなカラスたち。
目の前のカラスもそんな冷酷な目をしてあたしを見ている。現実はもっと厳しいんだぞって、教えようとしているみたいに。
とつぜん、色んな思いみたいな、記憶みたいな、映像みたいな、苦渋や苦痛みたいなものが胸の内になだれ込んできた。
都内の武道館で受身をし損なって半身不随になった女の人。雪の中、猟銃に撃たれて息絶えた子狐。川に飛び込んで入水自殺した禿げおじさん。太った女子高生のトンカチにやられ、口から脳みそを吐き出す猫。くるった拳銃男に射殺されたサングラスの恐い人。マンションの上空から降ってきて、地面に叩きつけられて、焼く前のハンバーグみたいになった赤ちゃん。
よして頭をよぎる、堀ちゃんの言葉。
『あたしもさっきぃも、もし飛び降り自殺したら、こんな風になるんだよ』
あたしは果物ナイフが欲しかった。そうすれば思いっきり刃を手首に突き立てるなり、あのカラスの目をくり抜くなり、なんでも解消法があった。現実的には本気で手首を突いたりする勇気はないし、カラスを狙おうたってきっと逃げられちゃうけど、あくまでイメージなら、自分はなんでも出来た。
イメージするだけなら、罪にはならない。
誰も傷つかないし、誰も命を落とさない。
本当に、そうだろうか。
『いま、二つの世界が生まれた』
そう、イメージすることにより、世界は二つに分かれる。二つどころじゃないかもしれない。百とか、千とか、万とか、数え切れないほど多様な世界が生まれてしまうかもしれない。さっき堤くんも言っていた、オムニバースだかマルチユニバースだ。
半身不随の女の人も、雪の中で死んだ子狐も、入水自殺のおじさんも、ピンク白子の猫も、射殺された恐い顔の人も、ハンバーグの赤ちゃんも、こっちの世界で彼らは最悪のパターンを負ってしまった。誰かがイメージして、彼らにボーダーラインを越えさせてしまったのかもしれないのだ。
いま行ったあたしのイメージのせいで、別の世界のあたしは手首から血を噴出し、また別の世界でカラスは目をくり抜かれている。むかついたり堪えられなくなったら、想像の中でいくらだって傷つけ、殺してしまう。イメージ、妄想、空想、創造、そこから生み出される別次元の物語。人間以外の動物にはない罪深い空想力。
あたしの右手は、まだ果物ナイフを探していた。見ると、夕日を浴びる右掌は、じっとりと汗に濡れていた。
となりから堤くんの声がする。
「姉は、なんでも最後までやり遂げるやつだった。読み始めた本は、今まで一冊も途中で投げ出そうとしなかった。長期休暇の宿題はすべて一週間以内に仕上げた。お年玉は目標の二十万円貯まるまで絶対に使わなかった。親が「肩叩き五百回お願い」と冗談で言うと、本当に五百回やろうとして笑われていた。最初で最後、『少女レゾンデートル』だけだった。姉が自分の意思で、最後までやり遂げなかったのは」
スカートのポケットからハンカチを出して、掌をぬぐった。それから堤くんの言葉に相槌する。
「きっとお姉さんは、怖くなっちゃったんだよ」
堤くんはクールな眼差しに些少の戸惑いを混ぜた。
「だって、最後まで描いたら、もう片方の世界のお姉さんが死んじゃうもんね」
秋風が止み、林の間に夕日が落ち窪む。カラスは腕時計をくわえたまま、どこかへ羽ばたいていった。