序章
荒涼な廃墟ビルの上、彼女は屋上の縁に立つ。
縁には半径二〇センチほどのフラフープ型の赤い円が描かれている。彼女はぴったりとその円の中におさまっていた。すぐ前方の足もとには、赤い一本のライン。赤いラインは、まるで足場の有無を隔てるかのように引かれていた。
吉村は知っている。屋上の下、はるか下方の地面にも、同様に赤いフラフープが描かれていることを。
誰かが言う。屋上の縁にある円は生、ビル真下の地面の円は死、そして、縁の端に引かれたラインは二つの境界を現しているのだと。
生の円から境界のラインを飛び越え、死の円へと急降下。
彼女は鼻歌を唄いながら、ローファーのつま先でラインをなぞった。吹き荒れる風が制服のスカートを揺らす。
彼女は本気なのだ。吉村は、手にしたものをパーカーのポケットに仕舞った。そのまま、ポケットに両手を入れて彼女の動向をうかがう。
ふと、鼻歌が止む。彼女は首だけを傾げ、吉村を振り返った。
「やっぱり、分かんないよ」
哀しげな声に、吉村は微笑む。
「どういうことかな」
彼女はつま先を引っ込め、ローファーを脱いで円の中に並べた。両足をそろえ、ラインの前に立ち直す。顔を前に向け、遠くに夕日が沈んでいく様を眺望した。
「あたし、生きるのが辛いわけじゃないんだよ。ぜんぜん。それなりに苦しいことや辛いこともあったけど、それでも人並みだったって自分でも思う。むしろ楽しいことの方が多かったかも。これ、結構まじめに。なのに、なんで死んじゃうんだろうね。あたしさ、ずーっと考えてたんだ。なんであたし、死んじゃうんだろうって。――でも、やっと分かった気がする」
彼女は地面の赤いラインを指さした。
「越えてくださいって言ってるようなものだよ、これ。あたし、もう我慢できない。越えちゃいたい。境界線のこと考えるたびに胸を掻き毟りたくなって、飛び越える夢ばっかり見てさ、辛抱たまらんっていうか。ねえ、そういうのって吉村くんにもあるよね。ちょっとくらい、いいじゃんって」
「どうだろう」
吉村は後頭部を搔いて考える。
「でも、言われてみればあるかもね。校則破ったりとか、ほんの弾みで万引きしちゃったときとか。ふっと無意識に体が動いて、越えてはいけない一線を越えてしまう」
「惜しいけど、だいたいそんな感じ」
二人は顔を見合わせ、ほぼ同時に笑った。強風が彼らの笑い声を飛ばし、乱暴に髪を撫でつける。
風が静止したのは、夕日も完全に落ちきった頃だった。彼女のシルエットは黒く、口に含んだ飴玉が頬の裏側を這って転がるのが分かった。
「吉村くん」
急に声を小さくする彼女に、吉村は「どうしたの」と怪訝に応える。
「あんたのこと、結構好きだったよ」
吉村はさらに当惑し小さく苦笑う。この状況で告白されるなんて、なかなか奇妙だと思う。
「僕も好きだったよ、咲子さん」
彼女は目をしばたかせた。吉村は目を凝らし、その細かな表情の変化を見る。やがて彼女は頬を緩め、笑って言うのだった。
「ばーか」
再び風が吹き荒れる。それは屋上の塵を巻き上げ、視界を覆った。吉村は目を閉じ、風が止むのを待った。
瞼を押し上げたとき、彼女はもうそこにはいなかった。音もなく、そこにいたという気配すら残さないほどの空虚感を示していた。ゆっくりと赤い円とラインに近づき、身を乗り出してビルの下を見おろす。
彼女は地面に細い体を横たえ、四肢をあらゆる方向へと投げ出していた。頭から流れ出る赤いものが、じんわりと広がっていった。
長い時間をかけ、噛みしめるように階段を降り、吉村は地上を踏んだ。
化石のように寂れたビルの入り口を抜けると、彼女の遺体を眺める。耳や目から血を吹き出し、耐えず彼女の中身は外へと放出されていく。
腰を屈めてその顔をよく見る。綺麗だった顔は、そのほとんどが潰れ、見るも無残に変形している。もはや原型など認識できない。身体の方も強い衝撃を受け、あちこちから骨が突き出ている。唇をぽっかりと開き、端から舌が垂れ下がる。口の中を見つめながら、吉村は不審な点に気付く。
あるはずのものが、そこにはなかった。
念のため周辺を探してみる。携帯のライトをかざし、周囲の地面を見て回る。いくら探しても、不審の種は見当たらなかった。もう一度彼女のそばに膝をつけ、口元とその地面に注目する。
やっぱりおかしい。彼女はたしかに、飴を舐めていたはずだ。
普通ならば、落下するショックで思わず飲み込んでしまったのだろうと考える。だがそれでは違和感が残る。口から吐き出されたような赤い跡が、地面を伝って十五センチほど伸びている。その血痕の先に飴玉はない。それとも、これはなにかの勘違いだろうか。
そのとき、彼女の瞳がかすかに揺れた。少し目を離せば見逃してしまうほど小さな動きだった。
「咲子さん」
また、瞳は揺れる。瞼はただの肉片と化し、眼球は赤黒い。
「君、本当に咲子さんだよね?」
静寂が辺りを包み込む。
彼女の瞳は、もう二度と動かなかった。