第8話 ハニートースト 3
「やっぱり、蜂蜜だ」
その声に、噛みつかれると思ってぎゅっと瞑ってた目を恐る恐る開ける。
息も掛かりそうなほど間近にあった久我さんの顔は普通の距離になってて、久我さんは私の髪の毛を一房掴んで、にこりと笑っていた。
「どうしたんですか、これ?」
そう聞かれても、さっきまでの行動に思考が囚われ、固まったようにただ久我さんを見つめた。
さっきの久我さんはなんだったの――!?
いつものインケンなカンジでも、不機嫌な時に出る極甘な笑顔でもなく、妖しく艶めかしい微笑みで――
ドクンッ、ドクンッ――って聞こえてしまうんじゃないかってくらい心臓の音が大きく耳に響く。
「長田さん?」
呆然としてる私の目の前に、久我さんの手が翳されて、はっと我に返る。
「えっ、わっ……」
「ここ、髪の毛に蜂蜜ついてるみたいだけど、どうしたんですか?」
さっきの妖艶な久我さんはどこへやら、いつもの久我さんに戻ってて、目を瞬かせる。
「えっ、蜂蜜……?」
蜂蜜――その言葉に、思わず久我さんの髪の毛を見てしまう。部屋に着いた時は僅かに濡れて透けるようにキラキラと輝いていた蜂蜜色の髪はすっかり乾き、さらさらと顔の横を揺れている。
「あっ、あのですね――」
やっと思考が正常に機能し始め、今朝の出来事を思い出して話す。
「お米がないって言ったら友達が食パンをくれて、ハニートーストが食べたくなったんです」
「ハニートースト、ってあの一斤まるごと使って上にアイスとか生クリームとかが乗ってる――?」
「はいっ」
私はハニートーストを想像し、うっとりと瞳を細める。
「それで、上に蜂蜜をかけようと思ったんですけど、うっかり冷蔵してカチコチに固まってしまって」
蜂蜜って、冷蔵保存っぽいけど実は常温保存なんだよね。だから冷蔵庫に入れた日には、カチコチに固まって押しても叩いても出てこないんだ……
「ああ……」
固まった蜂蜜を想像したのか、久我さんが苦笑する。
「でも、どうしてもハニートーストが食べたくて、仕方なく鍋で火をかけて湯せんしたんです。蜂蜜はちゃんと溶けたんですけど……容器がもろくて鍋の中で爆発して……あちこちに蜂蜜をぶちまけてしまって……きっとその時についたんだと思います」
「なるほど、よく見ると服にもついてるし……」
言いながら久我さんは私の腕を掴んで上に向け、肘が久我さんの顔に近づき――ぺロリ、肘をなめられてしまった――
「肘にもついてる。んー、甘い」
恥ずかしがりもせず、さらりとやってのけた久我さんを呆然と見つめつつ、私はある確信を抱く――
「久我さんって実は――甘党なんですね」
「ああ、そうだね。よく、わかりましたね」
首を傾げてにこりと笑った久我さんはキッチンに向かう。
「じゃ、夜食はハニートーストで決まりだね」
そう言って冷蔵庫を開ける久我さんの後ろ姿を見て――私は確信する。
久我さんって普段は真面目くさいのに、実は――遊び人なんだ!
だって、抱きしめらて、あんな妖しい瞳で見つめて、耳元で息かけられて、食べちゃいたいとか言っておいた後で――すごく普通に接してきて、普段遊び慣れてないとあんな変貌ぶりはできないはずよ!
そうよ、あんなことを言ったのも私をからかって――なんてインケンなの!
私はぎゅっと締め付けられる胸を押さえて、心の中で悪態をついた。
※
その後、食パンを前にあーでもないこーでもないと四苦八苦する久我さんに、私がハニートーストの作り方を伝授し、二人で美味しく頂いて、時刻は深夜二時を過ぎていた。
食べたすぐ後に寝るのもどうかと思ったけど、明日は――もう今日だけど、一限から講義があるから、少しでも多く寝るために、案内されたゲストルームのベッドに入った。
翌朝。
身支度を整えてゲストルームを出ると、ダイニングテーブルの上には美味しそうな朝ごはんが用意されていた。
色とりどりのグリーンサラダ、オムレツ、トースト、ミネストローネ……
「簡単な物しか作ってないですけど、どうぞ」
久我さんは謙遜して言うけど、豪華な朝食に、数時間前にハニートーストを食べたばかりなのに腹の虫が暴れ出す。
「泊めて頂いた上に、朝食まで用意させてしまって、スミマセン……」
そう言いながらも、すでに席に座ってサラダを頬張る私を見て、久我さんがくすっと笑う。
「いいですよ、長田さんはよく食べるところがいいとこですから」
えっと、それは褒め言葉ですか……?
「はぁ……」
「食べたら学校まで送りますからね、支度ができたら声をかけて下さい」
私より先に朝食を食べ終えた久我さんは、空になった皿をキッチンに戻しながら言って、寝室に消えて行った。
私は久我さんの手作り朝食を味わって食べ、キッチンに皿を運ぶ。時計を見るとまだ時間に余裕があったから、朝食を作ってもらったお礼として皿洗いをすることにした。
久しぶりに朝からちゃんとした物を食べて気分が良くて、鼻歌交じりにお皿洗いをしていると、久我さんが寝室から出てきたから、私は慌てて最後の一枚の泡を落とし、食器乾燥機に皿を置いた。
「すみません、お待たせしました」
そう言った私を見て、久我さんがふっと甘やかな笑みを浮かべた。あまりに綺麗な顔に驚いて瞬いた――次の瞬間には、久我さんは普段の澄ました顔で玄関に向かって歩き出していた。
だからその笑みは見間違えだと思って、すぐに久我さんの後を追った。
学校に向かう車の中。男性の――誰かが運転する車の助手席に乗ること自体初めてで、異常に緊張してしまい、視線のやり場に困る。胸元にあたるシートベルトを握りしめて、早く学校に着いてほしいと願う。
久我さんはそんな私の緊張に気づいていないようで、時々世間話を振ってくるから、私はそれにただ相槌を返すのがやっとだった。
「いってらっしゃい」
駅から学校に向かう通りで降ろしてもらった私に、久我さんがわざわざ車から降りてきてそう言った。
「はい。本当にいろいろとお世話になりました」
一言じゃ言い表せないほど、この半日でお世話になったのは本当で、私は深々と頭を下げる。
その時。ぽんっと肩を叩かれて振り返ると。
「おはよ、葵生」
後ろに立っていたのは、ミチルだった。
「あっ、おはよ……」
突然現れたミチルに呆然としていると、ミチルは私から横にいる久我さんに視線を移す。その瞳の色がゆっくりと揺れる。
「どうも」
軽く頭を下げながら、視線を久我さんに向けたままミチルが言う。私は慌てて、久我さんにミチルを紹介した。
「彼女は同じ学科の豊橋ミチルさん。ミチル、バイト先でお世話になってる久我さん」
久我さんを紹介するとミチルは、ああ、例の社長代理ね――そう言うように首を動かす。
「いつも長田さんにはお世話になっています」
ふわりと笑顔で言った久我さんに、ミチルはぺこりと挨拶する。
「葵生、そろそろ行かないと講義に遅れるよ」
「あっ、うん。久我さん、送って頂いてありがとうございます」
「どういたしまして、じゃあ」
「はい、ありがとうございました」
歩道から運転席に周り車に乗り込む久我さんに、もう一度頭を下げ、発進音を響かせて走りだした車を見送った。
去っていく車を見ていると、横から視線を感じてミチルを振り向く。ミチルは、じーっと私の顔を意味深な瞳で見つめていた。
「なっ、なに?」
「あの人が、葵生が言ってた“社長代理”でしょ?」
「あー……」
私はミチルから目線をそらして頬をかく。
「蜂蜜色の髪――そう言ってたんだから、すぐに分かるわよ」
「そっか……そうだよね」
「それにしても、朝から車で送ってもらうなんて、どうゆう急展開があったわけ?」
にやりと口の端を持ち上げたミチルに、この後、私は質問責めにあうことになる――
イラストはyuneko様に描いて頂きました。
イケメンの翔真、戸惑ってる葵生がナイスです(^^)b
感謝です!




