第7話 ハニートースト 2
「そうと決まれば、どこかで夕飯食べてから帰ろうか。長田さんは何が食べたいですか?」
言いながら社長席へ行き、荷物をまとめ出した久我さん。
はっと、我に返った私は、とんでもないことになってしまったと、その時気づく――
久我さんの――男性の家に一晩泊るなんて。
僕の部屋に来る? ――そう言った時の久我さんが、あまりにも紳士的で、思わず頷いてしまったけど、とんでもなく大胆なことをしようとしてるのでは――!?
だけど戸惑っている暇もなく、いつものインケンな口調で急かされて私は、手早くやりかけの仕事を切り上げ、荷物をまとめて、入り口で待つ久我さんの元に向かった。
神田駅高架下のレストランで早めの夕食を済ませ、電車に揺られて浜松町へ。
浜松町――汐留ですか!?
久我さん、なんてリッチなとこに住んでるんですか!?
案内されたのは、駅から徒歩二分――ううん、駅前って言っていい場所に建った見上げるほど高い高層マンションの一室。玄関を入り廊下を進むと、広々としたリビングにはアイランドキッチンがある。家具はごく最低限しか置かれていなくて、生活感が感じられないほど綺麗だった。
「適当にくつろいでいて」
そう言われて、リビングのソファーの置かれた場所のさらに奥の窓辺による。窓には激しく雨が打ち付け、あらぶる漆黒の闇が広がっている。
天気が良かったら、きっと夜景が綺麗なんだろうなぁ……
そんなことを考えつつ、頭の片隅で、この雨風ではどうあがいても今日は家に帰ることができないと確信して、ため息をつく。
夕飯を食べたので、時刻は十九時四十分。今から課題をやるなら夜中までには終わるかな……。不幸中の幸いだったのは、課題の資料を持っていたから、家じゃなくても出来るということ。
久我さんは隣の部屋から持て来たノートパソコンをダイニングテーブルの上に置き、起動させていた。ダイニングテーブルはお洒落な黒塗りの二人掛け。久我さんに呼ばれて、窓辺からダイニングテーブルに向かう。
「このパソコンを使って下さい」
「ありがとうございます」
そう言った私の横で、久我さんがさりげなくパソコンの置かれた席の椅子を引いた。私は促されるままその椅子の前に行き、久我さんが座らせてくれた。
その好意がなんだか照れ臭くて、久我さんの顔が見られなかった。
雑念を払うように顔を思いっきり左右に振って、私は、目の前のパソコンに向かった。
しばらくして、カタンッと音がして顔を上げると、久我さんがミニノートパソコンをダイニングテーブルに置き、私の向かいの席に座った。その様子を呆然と見つめていると。
「僕のことは気にしなくていいですから、課題を続けて下さい」
そう言われて、口から出かかった言葉を飲み込む。
一人暮らしでノートパソコンを二台も持っていることが、まず驚きだった。仕事で見かける書類を見つめつつパソコンに向かう久我さん。明らかに仕事をしてるのはわかるのに、私の方が画面の大きなパソコンを使って申し訳ないと思って――久我さんが使ってるミニノートパソコンが、普段事務所でも使っているものだと気づいて、何も言えなくなってしまった。
私は再び課題に集中するべく、目の前のパソコン以外を視界と思考から断ち切った――
※
「終わったぁー!」
もうすぐ日付が変わろうとしている時刻。やっと課題が終わって、雄たけびを上げた。
「お疲れ様です。どうしますか、すぐに寝ますか? お風呂も使いたければ使っていいですよ?」
「久我さんはまだ寝ないんですか?」
「僕はもう少し、切りのいいところまでやるつもりです。長田さんは先に休んでいて結構ですよ」
そう言われて、どうしようかと考える。着替えはないけど、入れるならお風呂は入りたい。でもでも、年頃の娘が男性の部屋でお風呂を借りるって――どうなの!?
そんな葛藤を頭の中で繰り広げてると――
ぐぅ~~~~~~きゅるきゅるきゅるぅ~……
私にとって一番の欲求である腹の虫が、猛烈な叫びを上げた。
あまりの恥ずかしさに、私はぱっとお腹に手を当てて縮こまる。
「もしかして、お腹すいたの――?」
当然の反応といえば、そうなんだけど、久我さんが目を見開いてほんとに驚いた顔をしてるから、余計に恥ずかしい。
「すっ、すみません。今日は朝も昼も食べてなくてっ」
慌てて言い訳して、ぺこぺこと頭を下げる。あっ、穴があったら、入りたいっ。
絶対久我さんは呆れた顔してる、そう思ったのに。
「じゃあ、何か食べる?」
予想外のことを言われ、きょとんと見返してしまう。
「お腹すいてるなら、何か作るよ?」
そう言ってぱたんとパソコンの画面を閉じた久我さんは、キッチンに向かっていく。慌ててその後を追いかけたら、急に立ち止まった久我さんの背中にドンっとぶつかってしまった。
「大丈夫ですか、長田さん? 何が食べたいですか?」
くるりと振り返った久我さんに真上から覗きこまれて、なんだか恥ずかしくなる。久我さんの瞳の中に写ってる自分が分かるくらいの距離で、しばらく見つめてくる久我さん。
何が食べたいか――そう聞かれて、朝から食べたかったアレを思い出したんだけど――その瞬間。
ふわっ。
久我さんに覆いかぶさるように抱きしめられ、思考回路がテンパる。
なっ、なっ、なになになに――!?
急になにぃ――――!?
体を硬直させ、久我さんの出方を待っていると、さらりと耳元に久我さんの髪が当たり、唇が触れる――
イヤぁ――――――っ
「長田さん、さ――」
耳元で囁かれた声は、いつもインケンな久我さんからは想像できないくらい艶っぽく、ほんとに久我さん!? って思うくらい甘く響いて、体中、毒がまわったように痺れが走る。
「はっ、はぃ!?」
ドギマギして、声が裏返ってしまう。
「いい匂いするね。甘くて――食べちゃいたくなるな」
そう言って、耳元から顔の正面に移動した久我さんが、ふわりと笑う。その瞳は、獲物を狙う獣のように鋭く、魅惑的な笑みで真っ正面から見据えられ……かぁーっと自分でも分かるくらい顔が真っ赤になっていく。
「あっ、あの……」
今にも噛みつかれそうで、私はどうしたら久我さんの行動を止められるか頭をフル回転で考えたんだけど、何も思いつかなくて。
どんどんと、久我さんの顔が迫って来て、私はぎゅっと目を瞑った――




