第6話 ハニートースト 1
社長が退院した翌日、今日から社長が復帰だと思うと気分は浮かれ、遅刻しかけていたことも忘れてるんるんと鼻歌交じりにスキップして、事務所の入り口をくぐった。
「社長、おっはよーございまーす!」
元気一杯に挨拶した私は、部屋の奥、社長席に座って眉根に深い皺を刻んだ顔に睨まれて、その動きをぴたりと止める。
だって、社長が座っていると思った席には――久我さんが座ってて、すごい機嫌の悪い顔でこっちを睨んでいるんだもの。
ギロッと私を一瞥した久我さんは立ち上がり、机の端に置いていた山積みの書類を抱えると、ドサッと私の机の上に置いて席に戻って行った。
えっと……、確か、今日から社長復帰するはずじゃ……
そう聞きたかったけど、あまりの機嫌の悪さに、今は聞いてはいけないと本能で悟った私は、口を開かずにタイムカードを押し、慌てて席について今日の仕事に取り掛かった。
一旦仕事に集中し出すと、社長じゃなくてなんで久我さんが……とかいう考えも忘れて、目の前の作業に没頭する。
机の左側に山積みにされた書類が半分くらいに減った時、書類越しに見えた社長席に久我さんがいないことに気づく。
時々、久我さんは外回りに行くため事務所を開ける。その時、一応私に声をかけるらしいんだけど、集中している時の私にはその声が届かないらしい。椅子から少し腰を浮かせて書類の向こう側を除きこむと、小さなメモ書きが置かれ、そこに外回りに行ってくる旨が書かれていた。
私はそのメモを机の真ん中の引き出しから取り出したクリアファイルにしまい、引き出しに戻す。ただの連絡事項だけど、なんとなく捨てられなくて、取っておいてしまっている。
壁にかけられた時計に視線を向けると五時を過ぎていて、お腹の虫がきゅるきゅると小さな悲鳴を上げ始めた。
今日のバイトは十三時から十九時までで、食事は出ない日だ。おまけに給料日前であまりちゃんとしたご飯を食べてなくて、今日の朝兼お昼ご飯は、友達にもらったパンを食べるはずだったのに……不手際で食べ損ね、今日はまだ何も食べていなかった。
私は背伸びしながら立ち上がり社長席に近づくと、キョロキョロと辺りに視線をさまよわせる。久我さんはまだ帰ってこないよね――そう扉に向けた視線を、社長の机の上に移動させる。
社長の机は私の机より一回り大きく、その上には、例の“提出ボックス”以外にもさまざまな物が置かれている。その中央、グラスに入ったチョコレートに手を伸ばす。
社長は血糖値を気にしているからチョコなんて食べないだろうし、たぶんこれは久我さんが持ってきたものなんだと思う。一センチ大の丸いチョコが銀紙に包まれ左右を縛られてリボン形になっている。その一つを掴み、銀紙を開いて口に放り込む。
一個くらいわからないよね――という気持ちと、ほんとはこんなことダメだけど――という気持ちの狭間で、空腹を訴える腹の虫に負けてしまった。
舌の上で丁寧にチョコを転がし、噛まずにゆっくりと味わう。ふわっと甘やかな香りが口中に広がり、幸せな気分になる。その味はお徳用パックのチョコではなく、とても高級なチョコの味がして、思わず、ゴクリと飲み込んでしまった。
もしかして、久我さんって――甘党?
そんな疑問が頭をよぎり、すぐさま否定するように頭をふる。
最近では、私のご飯を作るついでに――というか一人分作るのも二人分作るのも同じという久我さん理論で、久我さんの手料理を一緒に食べるようになったが、それ以前は昼も夜もご飯を食べている姿を見たことのない久我さんから、甘党というイメージはしっくりこなかった。
貧乏だから仕方なく、ご飯を抜いたり少量で我慢してるけど、ちゃんと食べられるなら食べたいと思うし、出された物は残さず食べるというポリシーを持った、私は食べるのが大好きな人間。
それに対して久我さんは、貧乏だから食べてない――ってことはないと思う。でも、だからといって、年頃の乙女みたいにダイエットな訳ないし、空腹でお腹を鳴らしたりふらつく姿も見たことがない。思うに……久我さんの空腹中枢は麻痺してるのじゃないかしら。
そんなことを考えながら、集中力の切れた私は鈍ったタイピングをしてなかなか仕事が進まない。
しばらくして、バサバサっという音に入り口を振り返ると久我さんがいた。
「ただいま戻りました。長田さん、タオル取ってもらえますか?」
そう言った久我さんの服は肩とズボンが濡れ、髪の毛からは水が滴っている。手に持っていた傘を入り口の傘立てに入れた久我さんに、私は棚から取り出したタオルを持って駆けつける。
「どうしたんですか?」
びしょびしょの姿で雨が降ってきたことは分かったけど、あまりに尋常じゃない濡れ方に思わず聞いてしまった。
タオルで、蜂蜜色の髪を拭きながら久我さんは、少し掠れた声で言う。
「季節外れの台風が近づいて来てるっていうニュース見てないですか? どうやら予想外に早く関東に接近してるようで、外はすごい風と雨ですよ」
えっ……台風?
最近、課題が忙しくてあまりテレビ見てなかったから、台風が近づいてるなんて知らなかった。だから傘も持ってきてないし……って、それよりも私には気がかりなことがある。
「まだ早いですが、今日はもう事務所も閉めましょう。大丈夫だとは思いますが、電車が止まったら困りますからね」
そう言った久我さんから離れ、鞄から取り出した携帯で乗り換え案内の情報を見た私は、顔が真っ青――
「もう、遅いです……」
ぽつりと漏らした私の言葉に、久我さんがえっ? っと聞き返す。
「もう止まってるんです、電車……」
半泣きになって、久我さんを見つめる。
私が家に帰るために乗る電車・京葉線は、海岸沿いを走るから雨風に非常に弱い。ちょっとの風でも間引き運転・一部区間運転見合わせるのだ。現に、手元の携帯の画面に真っ赤な文字で武蔵野線運転見合わせと書かれている。これでは家に帰れない……
呆然自失の私に近づいた久我さんは、携帯を除きこみ、顎に手を当てて考え込む。
どうしよう……明日提出の課題をやらなきゃいけないから、どうしても家に帰らないといけないのに、他の電車で帰ることは難しい。家に帰れないなら――
「あの、私、事務所に泊らせて頂いてもいいですか?」
「事務所に?」
「はい、あの、実は明日提出の課題をやらなければならなくて、パソコンを使いたいんです。家には帰れそうにもないので……」
私はダメもとで、手を握りしめて言ったのだけど。
「事務所には……泊らせる訳にはいかないな……」
久我さんは眉間に皺を寄せて、少し張りつめた空気を漂わせて言った。
やっぱり、そうよね。でも、駅前のネットカフェに行くにもお金がないし――そう思った時。
「女の子を一人で泊らせるなんて、心配で出来ないな――」
思いもよらない久我さんの言葉に、ぱっと顔を上げて久我さんを見上げる。
「えっ……?」
久我さんの声はいつもの皮肉気な声ではなく、本当に心配そうな声だったから。
「あのさ……」
「はいっ!?」
あまり聞いたことのない声に、ドキリとして、慌てて返事をする。
「それなら僕の部屋に来る? 浜松町だからここからそんなに遠くないし、明日は学校まで車で送って行くよ?」
ふわりと微笑んだ久我さんは紳士的で、思わずその表情に見とれてしまう。
「ゲストルームがあるから、課題が終わったらそこで休んだらいいよ。僕もその方が安心だから」
そう言われて私は――思わず頷いていた。




