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第5話  胃袋神話 2



 ここの事務所は、神田駅近くの商業ビルのワンフロアをいくつかの会社で間借りし、そのワンルームを事務所としている。室内にはキッチンが設備され、広々の二十坪。従業員が二人だけにしては広すぎるが、業務用の冷蔵庫二台がかなりの場所をとり、それ以外にも書類の入った棚がたくさんあって、広すぎるということはなかった。

 で、キッチン設備があるにも関わらず、私と社長は今まで一度も使ったことがない。時々シェフが来て試作品を作るらしいから、調理器具は揃っているものの、立ち入ることはなかった――その場所から良い匂いが漂ってきて、私の足はふらふらと導かれるようにキッチンに向かった。



 久我さんはどこから取り出したのか、デニム地のブルーのエプロンを身につけ、何やら調理をしている様子。

 そぉーっと後ろから覗き込むと、コンロにかけられた鍋には白い液体がふつふつと湯気を出し、久我さんはそれをお玉で丁寧にかき混ぜている。

 何作ってるんだろう……?

 自然な疑問が湧いてくる。私といる時に、久我さんが食事を摂ったことは一度もない。だから、久我さんが食べるために作ってるという発想はなく、なんのために作っているのかが疑問だった。

 カチッと、コンロの火を止めると、どこから取り出したのか、フランスパンを切りトースターで焼き、皿に並べたその上に何かを乗せて、よそった白い液体と共に、キッチン横にあるダイニングテーブルにカタンと置く。


「どうぞ」


 言いながらダイニングテーブルに手をついた久我さんは、得意満面の顔でふっと笑った。

 えっと、私にどうしろと……

 その行動の意味がわからなくて、私はおろおろとその場に踏みとどまる。その瞬間、久我さんの顔から笑顔が消え、すっと瞳に鋭い輝きが走る。

 あまりに怖い表情にびくりと体を震わせ、ダイニングテーブルに近づくと、久我さんが椅子を引いたので、促されるまま席に座る。目の前には、パンとスープカップに入った白い液体。


「どうぞ、召し上がれ」


 その言葉でやっと、食べろってことだとは分かったんだけど……今はもうすぐ二時になろうとしている。小腹は空いてるけど、さっきお昼ご飯食べたばかりだし。そう思って戸惑いがちにスプーンを握る。ちらっと横に立った久我さんに視線を向けると、じーっと、私の動作を一つも漏らさない様な鋭い視線で見つめられてて、慌てて白い液体を一口すくって口に運ぶ。

 口の中でふわ~っと広がる磯の薫り。一センチ角に切られた野菜が、ほくほくと口の中を転がっていく。


「わっ、おいしい……」


 思わず言ってしまい、はっと口を押さえる。恐る恐る久我さんに視線を向けると、天使の様に美しくキラキラと輝く微笑みを浮かべていて、心臓が飛び出しそうなほどビックリした。

 耳から零れるさらさらの蜂蜜色の髪が、よけいに久我さんの美しさを倍増させ、その笑顔が眩しすぎて目をそらす。


「これ……シチューじゃないですよね?」


 話をそらすように白い液体を口に運びながら尋ねる。


「シチューじゃなくて、クラムチャウダーですよ」

「へぇー、クラムチャウダー。なんかお洒落な名前……あっ、アサリまで入ってるんですね」


 そう言った私の横で、はぁーっと盛大なため息とともに額に手を当ててうなだれる久我さんに視線を向ける。

 なっ、なんのため息……?

 床からわずかに顔を上げた久我さんと私の視線が合うと、久我さんはもう一度大きなため息をつくとともに、首を左右に振って腰に手を当てて肩を落とした。


「あさりが入っていて当然ですよ……。“クラム”イコール“二枚貝”、つまりアサリやハマグリのことなんですから。アサリが入ってなければ、ただのチャウダーです」


 いかにも呆れたというため息に苛立つよりも、自分の知識のなさに恥ずかしくなる。


「そうなんですか……」


 ぱくりともう一口頬張って、スプーンを机に置き、私が食べている間、ずっと横で立ったままの久我さんを見上げる。


「あの、久我さんって、お料理とてもお上手なんですね。でも、どうしていきなり料理なんて始めたんですか?」


 食べる前から思ってた疑問をぶつける。

 すると久我さんはじーっと私の顔をしばらく見てから、こう言ったの。


「君が食事代をお金では受け取れないというから、作ったんだ」


 へっ? そんなこと、私、言ったっけ?


「さっき僕が食事代を渡したのは、貸したわけじゃない」


 ひょっとしなくても、久我さん……何か怒ってる?


「“これで買ってきなさい”って渡したんだ。それなのに、たったおにぎり一つだけしか買わずに、お金は後日返すだって? そんなに君は……」


 もしかしてあのお金は、貸すつもりじゃなくて、普通に“おごって”くれるつもりで……?

 ぶつぶつ嫌味を言い続ける久我さんに、私は深々と頭を下げた。


「ありがとうございます」


 いつもインケンだから、お金もただ貸してくれただけだと思ったのに、違かったんだ……

 そのことに久我さんの優しさを感じて、私はお礼を言った。



「これからバイトの時は、長田さんの食事は僕が作るよ」


 しばらく黙りこんでいた久我さんが、ぽつりと言い、その言葉に私はぱっと顔を上げる。


「ほっ、ほんとうですか……?」


 “作ってくれる”という言葉に本当にびっくりしたから。それに、久我さんの作ったクラムチャウダーはめちゃくちゃ美味しくて、料理上手なのはすぐに分かった。こんなに美味しいご飯をバイトに来る度に味わえるなんて、夢のような幸せ……

 “食事つき”の条件が消えて、このバイトに魅力をなくしかけていたけど、久我さんの美味しい手料理が食べられるなんて……

 ごくりと唾を飲み込んで久我さんを見つめれば、いつもの厭味ったらしい笑いでもなく、天使の様な眩しすぎる笑顔でもなく、ほんのりと頬を染めた柔らかい笑みを浮かべていて、胸の奥がきゅっと鷲掴みにされた――

 


  ※



「どうしたのよ、機嫌いいじゃない?」


 ミチルに言われ、何のことか分からずに首をかしげる。


「そうかな?」

「そうだよ、一昨日のお昼は『お金ないから奢ってぇ~!』って言って泣きついてきたのに、どうしたのよ? まだ給料日前だから、金欠なのは継続中なんでしょ?」

「実は……バイトの“食事つき”の条件が復活したの!」


 私は拳を握りしめて、力強く言った。


「えっ? 復活?」


 その言葉にミチルは、眉根を寄せて私をみつめた。


「うん。あのインケン社長代理がね、手料理作ってくれたの、昨日。それでこれからも時間があれば社長代理が作ってくれるって言うの! しかも、その料理がプロ並みにめちゃくちゃ美味しくってね」


 ほくほくとした笑顔で言った私をより一層眉間の皺を深くして、胡散臭いものでも見た様な顔になるミチル。


「ちょっと……数日前まではあんなバイト辞めるって言ってたのに、いいように胃袋掴まれてるんじゃないの、そのインケン社長代理に?」

「えっ、そんなことないよ? それに、社長は明日には退院するし、社長代理ももうしばらくの間だけでしょ」



 そう思ったのに――、私の苦難のバイト生活がまだまだ続くとは、この時の私は気づくすべもなく。

 楽観主義の私は『今度は久我さん何作ってくれるのかなぁ~』とかご飯に想像をめぐらせ締りのない頬をして、ミチルにつねられることになる。






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