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HONEY*POISON ―甘い蜜には毒がある―  作者: 滝沢美月
side2:SYOMA
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第26話  ハッピーシトラス 2

 葵生の言葉を聞いてからなんだか投げやりに日々を過ごし、予定よりも二日早い便でフランスに戻ることにした。

 俺は黒いスーツケースと手持ち鞄を左手に、右手には二十一時五十五分発パリ行きのチケットを持って成田空港の四階、チェックインカウンターを目指して歩く。

 時刻は二十時になろうとしている。

 チェックインカウンターで搭乗手続きを済ませ、夕食でも食べようかと思った時、携帯のディスプレイが光っているのに気づく。

 最近、葵生からの着信を無視するために、音もバイブレーションも切っているから、メールや着信があってもすぐには気づかないし、極力携帯も見ないようにしていたから、ぜんぜん気づかなかった。

 もしかして――

 その気持ちを隠して恐る恐る携帯を開くと、二件の着信と一通のメール。


 八月五日十八時〇二分 着信 葵生


 着信は予想通り葵生と、それよりも早い時間に……


 八月五日十六時五十四分 着信 父さん


 予想外に父さんからの着信だった。

 父さん――何の用事だったんだ?

 そう思いながらメールを開くと、そこに答えがあった。


『From:父さん

 電話が繋がらなかったので、急ぎ、用件のみ伝えます。

 さっき、葵生ちゃんが成田空港に向かうと言って事務所を出ました。

 お前達、どうなっているの? 葵生ちゃんは翔真がフランスに行ったらもう戻って来ないと勘違いしているようだけど、フランスには一週間だけ戻ると伝えていないのか?

 とにかく、空港でちゃんと会って話しなさい!」


 そんなメールで、色々と驚く。


 あれ、俺、フランスに行くのは一週間だけって伝えてなかっただろうか……?

 あっ、そういえば、フランスに一緒に来てとしか言っていないかも……

 予想外にプロポーズに即答されて動揺していて、なんでフランスに戻るのかとか説明していなかった。

 俺は立ち止まり、顔を伏せてぐしゃぐしゃっと頭をかく。

 ロビーを歩く人たちが、急に立ち止まった俺を不審な視線で見ながら避けて通り過ぎていくけど、そんな視線も気にならなくて。

 あー。

 上げた顔は情けないくらいにやけていて、緩んだ口元に手を当てる。

 そうか、葵生が空港に向かっているのか……


 会わなければ――


 そう思った時、手に持ったままだった携帯が着信を知らせて光っていることに気づく。

 ディスプレイを見ると着信は葵生からで、急く気持ちとは裏腹にゆっくりと携帯を開き通話ボタンを押す。


「もしもし……?」

『…………』


 電話に出たのに返事がないから一旦携帯を顔から離し画面を見て、通話中であることを確認する。確かに繋がっていて、もう一度話しかける。


「もしもし、葵生?」

『……、翔……真……さんっ! 今どこですか!? まだ出発ロビーにいますか? もう奥に、もう……っ!? 私、今、空港に……着いて……』


 突然大きな声が聞こえて、思わず携帯を耳から離す。

 葵生の声から緊張感や切羽詰まった様子が伝わってきて、胸がぎゅっと締め付けられる。

 俺がフランスに行ってもう戻って来ないと思って空港まで駆けつけてくれた――勘違いからでも、それだけで嬉しくて心が暖まる。


「まだ、出発ロビーにいますよ」


 俺はふわりと微笑んで言う。


『いまっ、改札出てエスカレーターに乗ったので、そのまま……そこで、待ってて下さい!』

「ああ」


 走っているのかはぁはぁ息をつきながら喋る葵生に対して、俺は穏やかな口調で頷く。


『私、翔真さんに言わなければ、きゃっ……』


 葵生の悲鳴のような声の後、ガシャンと機械的な音が響く。転んだか……?


「葵生? 大丈夫ですか?」


 余裕だった気持ちに不安が生じ、一歩二歩と立ち止まっていた足を動かし、終いには駆け出す。

 おそらく葵生は電車でここまで来たのだろう。だとすれば、あのエスカレーターを登ってくるだろうと推測して空港を駆け足で移動する。すでにスーツケースを預けた後で手持ち鞄一つだけで身軽な俺は、一目散にエスカレーターを目指した。



 ちょうど俺がエスカレーター降り場に着いたとき、葵生がエスカレーターを上ってくる姿が見えて、自然と頬が緩む。


「葵生……」

「翔真さん……」


 葵生が泣きそうな顔でエスカレーターを駆け上り、その勢いのまま俺の胸に飛び込んできたから、俺は両手を広げて抱きしめる。

 ふわり。

 腕の中の葵生から甘酸っぱい匂いが香ってきて、思わずくすりと笑いが漏れる。


「葵生、今日は何をこぼしたの?」


 そう言いながら、葵生の頭に顔を埋め、髪の毛の匂いをかぐ。

 本当は、今はそんなことはどうでもよくてもっと大事な話があったし、葵生に合わせる顔がなくてフランスへの出発を数日早めたとかいうことも忘れて、久しぶりに感じる葵生の温もりと香りに胸が締め付けられて、いつものような言葉のじゃれあいでそう言わずにはいられなかった。


「なんだか甘酸っぱい香りがするけど……もしかして、レモンシトラスジュース? 蜂蜜の次はシトラスを髪に付けてるの?」


 葵生の頭から顔を離し、髪の一房を掴んで鼻に近づけてくんっとかぐ。

 その俺の行動に葵生は目を白黒させ、それから下を向き、どんっと頭を思い切り俺の胸に当ててきた。


「翔真さんはずるい……ずっと怒ってて、私のこと無視してたくせに、そんな笑顔見せるなんて。勝手にフランスに帰ろうとするなんてずるいっ。私、いっぱい言いたいことがあって急いで来たのに、そんな顔されたら、何も言えなくなっちゃう……」


 全体重を俺にかけるように倒れこんでくるから、俺は葵生を支えるように、もう一度抱きしめた。

 あー、このまま誤解なんて解かないで、フランスに連れて行っちゃいたいな……

 そんなことを考えてしまった自分に照れて天井を仰ぐ。

 だけど今は、葵生が空港に駆けつけてくれたことだけで満足しなければいけないと思ったから。

 俺は葵生の頭をぽんぽんっと優しくなでる。


「ごめん、ずっと無視してて。葵生に振られた情けない僕の姿を見られたくなくて、ずっと会えなかった」

「えっ……違っ……」


 葵生が俺を仰ぎ見て、すごい勢いで首を振る。


「違います、私、振ってなんか……」


 その言葉に、俺は首をかしげる。


「だけど葵生は、プロポーズの返事を取り消したいって言っていましたよね? いいんですよ、それで。僕も時期が悪いと思っていました。今はこうして葵生が空港まで来てくれただけで嬉しいです」


 あの日言えなかった言葉を、俺は葵生をまっすぐ見て言う。


「あと、一つ誤解しているようなので訂正させて下さい。フランスには少しの間戻るだけなので、帰ってきたら、また仲良くしてくれますか?」


 そう言って手を差し出した俺から視線をそらした葵生は、下を向いて肩を震わせてるから、どうしたのだろうと思っていると。

 ぱっと上げた顔はりんごよりも赤く頬を染め、きっと意志の強い瞳で見上げてくる。


「嫌ですっ!」


 その言葉が胸に刺さる――

 そうか、振られたのにまた仲良くしてほしいなんて、ずうずうしいお願いだったか――

 そう思ったのに。


「あの言葉はっ! プロポーズの返事を取り消せないですよね、って言ったのは、私、ちゃんと翔真さんに返事をしてなかったから――嬉しかったんです。確かに最初、結婚なんて現実味がなくて、翔真さんと結婚イコール社長がお父さんになるってことでうきうきしてたのは本当です、すみません。でも、後で冷静になってみると、翔真さんがどんなに真剣に想いを伝えてくれたかが分かって、それに対して私はぜんぜんちゃんと答えられてなくて……つまり何が言いたいかというと、返事はYESなんですっ! 私もフランスに行きますっ!!」


 頬を染めて上目づかいで言う葵生が可愛くて――

 その言葉が嬉しくて――

 俺は葵生を抱き上げて、驚いた顔で見下ろす葵生を見て口角を上げて微笑んで、肩の高さでぎゅっと抱きしめる。


「ありがとうっ」


 嬉しくて幸せで――抱きしめて葵生から香ってくるシトラスフレーバーが幸せの香りに感じて、俺はふっと笑いを漏らして言う。


「それで――やっぱり、こぼしたんですか? レモンシトラスジュース」


 嫌味な感じに言った俺から、葵生がぱっと顔を離して唇を尖らせて言う。


「違いますっ。今日レモンシトラスジュースの発注があって飲んだことがないって言ったら社長が試飲していいって言うから、飲ませてもらって……」

「その時にこぼしたんですね」


 俺は納得したように頷き、抱き上げていた葵生を床に降ろして、にやりと笑う。

 そんな俺を葵生がふてくされた顔で見上げてくるから、ぽんぽんっと頭をなで、尋ねる。


「それで、僕の聞き間違いでなければフランスに行くって言ったように思いますが?」

「あっ、はいっ!」

「パスポートは持ってるんですか?」

「なっ、ありますよ。高校の修学旅行でアメリカに行ったんですから!」

「ほぉ、修学旅行で海外とは、近頃の日本の学生は豪華ですね」

「それよりも、あのっ、フランスに帰るのは一週間だけって……」


 葵生が先を急かすように聞いてくる。


「ああ、ええ。旧友から手紙が届いたんでね、久しぶりに会おうということになりまして。日本に来てから三年間、一度もフランスには戻っていませんし、祖父母にも挨拶――葵生を会わせたいと思ったのでフランスに一緒に来てほしいと言ったんです」

「あっ、なんだ、私はてっきりもうフランスに行ったら戻ってこないのかと……」

「誤解させてしまったのは、ちゃんと伝えてなかった僕のミスですね、すみません。でも冷静に考えれば、分かるでしょう? 葵生はまだ大学が一年以上残っているんです、そんな葵生をフランスに連れて行こうなんて思っていませんよ?」


 そう言って、俺はくすりと笑って葵生を見おろす。



  ※



 セドリックからレストラン経営の話を持ちかけられて、悩んだ結果――俺はその話を断ることにした。とても魅力的な話だったが、まだまだ、自分の店を持つには勉強不足だと感じたし、このまま料理人としても経営者としても中途半端なままCouleur(クル・ドゥ・ミエル) du mielの仕事を放り投げることは出来なくて。

 料理と経営――

 いつかはどちらかの道を選択するとしても、もう少し時間をかけて迷ってもいいかもしれないと感じたから。

 セドリックにはすぐに電話で断りの返事をしたが、断るにしても久しぶりに会って話しがしたいと言われ、フランスに戻ることにした。

 フランスに戻るなら、ついでに祖父母と母に葵生を紹介したくなって――

 紹介するなら、“彼女”ではなく、ちゃんと結婚を考えている相手だと伝えたくて、付き合って二年も経つし、葵生にプロポーズをするに至ったのだ。



  ※



「とにかく、フランスに一緒に行くならチケットを急いで取りましょう。まだ席が空いていればいいですが」


 そう言って俺は葵生の腰に腕を回して促し、チェックインカウンターに歩き出した。

 俺の腕の中でほのかに香るハッピーシトラスの香りに包まれて、海を渡り母国に――幸せの香りを運んでいく。



※ 話的にはここでハッピーエンド・完結ですが、もう数話お付き合い下さいm(_ _)m 

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