第25話 ハッピーシトラス 1
「素敵ですね。好きな人とずっと一緒にいられるなんて……」
赤坂店のスタッフが結婚し二次会を赤坂店のレストランでやることになり、手伝いに来ていた葵生がそう言った――
“結婚”
そんなこと今まで考えたこともなかったが葵生のその言葉を聞いて、俺が結婚を考えるとしたら相手は葵生だけだと思ったし、隣に立つ葵生もそう思ってくれているといいと思った。
でもまだ今すぐにというわけではなく、近い将来、いつか――そんな風に少し考えただけだった。
あの手紙がくるまでは……
※
「葵生、僕と結婚してください」
七月末、付き合い始めて二年――その記念日に横浜に出かけ、夕暮れの大さん橋ふ頭で俺は葵生に言った。
暮れかかるブルーの薄闇の中に周りの建物が黒く浮かび上がり、ライトの明かりがキラキラと宝石のように輝いている。隣で埠頭の手すりから身を乗り出すようにして景色を眺めていた葵生に、俺は一世一代のプロポーズをした。
こんなことを自分が言う日が来るとは思わなかったからすごく緊張して胸は飛び出しそうな勢いで跳ねるし、俺を仰ぎ見た葵生はなんだかいつもよりも綺麗で、視線をそらしたくなる衝動を必死で抑える。
葵生は大学三年の夏。これから就職活動や卒業論文で忙しくなる時期で――俺も本当はこんな時期にプロポーズする予定ではなくて――だから、断られる覚悟でこんな風にしか言えなくて、情けなくて。それなのに――
「はい、よろこんで!」
返ってきた返事はなんとも予想外で、なんとも軽い感じで、俺は唖然とする。
「えっ、いいん、ですか……?」
思わず聞き返してしまうほどあっさりとOKの返事をもらってしまったから、どう反応していいか分からなくて困ってしまう。
葵生は両手を胸の前で握り締めてウキウキとしている……ように見えるから、OKと言ったのは気のせいじゃないのか……?
「はいっ」
葵生はにこりと微笑んで頷く。
「それじゃ……一緒にフランスについて来てくれますか?」
「えっ……?」
俺の言葉に、キョトンと葵生が目を見開いて首をかしげた。
※
先週、フランスの旧友であるセドリックから手紙が届いた。セドリックとは家が近くて小学校から大学までずっと一緒に通った幼馴染というよりも兄弟と言った方がしっくりくるような関係で、大学では一緒に経営学を学び、いつか自分のレストランを持つのが夢だとお互いに話した仲で――そのセドリックから一緒にレストランを経営しないかという誘いの手紙をもらった。
セドリックが経営、俺がレストランのシェフ。気心の知れたセドリックとならやれそうな話だった。
父と一緒にレストラン経営をするというのが夢だが、それはいつでも出来るというか。
日本に来て本格的に料理を勉強し、経営と両立して……将来、俺は経営よりも料理人としてプロを目指したいと、最近感じ始めていた。
父と一緒にCouleur du mielで働くのが嫌なわけではないが、シェフを目指すならいつかは自分の店を持ちたい――そんなことを考えていた時にセドリックから手紙が届き、心が揺れていた。
何より、フランスに戻るということは葵生と遠く離れてしまうことで――
日本で父と一緒に働き、葵生と一緒にいるか。
フランスで親友と店を持ち、葵生と離れてしまうか。
頭の中でいくつもの葛藤を繰り返して答えを出した。
※
一緒にフランスについて来てくれないか――そう言った俺に、葵生はしばらく考えさせてと言った。
葵生がついて来てくれるか、来てくれないか――
どっちの答えだったにしろ、自分の答えはもう出ている訳で。
葵生にも、ちゃんと時間をかけて考えてほしくて、じっくり考えて一週間後に返事をくれるように言った。
フランスへの出立は二週間後。
父にはすでに俺の考えは伝えてあるから、レストランの仕事が終わると事務所には寄らずにすぐに家へ帰り、フランスへの荷造りを始めた。
一週間後、足りなくなった材料を取りに従業員用のロッカールームに行った時、部屋の中から葵生の声が聞こえて、ドアノブにかけた手の力を止める。
「えっー、久我君にプロポーズされたの!?」
驚いた様子のマネージャーの声が聞こえる。
「それで何て返事したの?」
「はいって即答してしまって……」
「えー、おめでとう! じゃあ、結婚するんだね!?」
「いえ、それが……」
そこで葵生が言いよどみ言葉を切る。
「久我さんに結婚って言われて、私の頭の中ではイコール社長がお父さんになるって考えにすぐに結びついてたんです。だから、はいって答えちゃったんですけど……」
「あはっ、葵生ちゃん、社長のこと本当のお父さんみたいに慕ってるものね」
「はい……それで後になって“久我さんと結婚”って改めて考えたら、もう頭の中がパニックで、どうしていいか分からなくなって。おまけに、一緒にフランスに来て欲しいだなんて――私どうしたらいいのか分からなくて……」
その言葉に、胸がざわりと騒ぎ出す。
「今更、プロポーズの返事を取り消すことも出来ませんし……」
葵生は沈んだ声で言い、語尾が小さくなる。
俺自身、どうしてあんなにあっさりとOKの返事を貰えたのか不思議だったが、葵生は俺との結婚にOKしたのではなく、俺と結婚することで社長が父親になることが嬉しくて頷いただけだったんだ――
衝撃の事実に俺は愕然とし、ドアノブにかけたままだった手に力が入り、ギィーと軋んだ音を出して扉が開いてしまった。
その音に振り返った葵生と視線が合い、俺は胸の内でくすぶる感情をいつもの様に笑顔で隠すことも出来なくて、怒りの感情を露に眉根を寄せて葵生を見つめた。
「あっ……」
突然現れた俺に話を聞かれていたことに気付いて、葵生が泣きそうな顔で俺を見る。
苛立たしくて、悔しくて、切なくて――一言では言い表せない感情が胸に押し寄せて、俺はすっと葵生から視線をそらした。
視線をそらした瞬間、葵生が切なげに顔を歪めたのに気付いていたが、俺はそれすらも無視して、ロッカールームの椅子に座る葵生とマネージャーの横を無言で通り過ぎて奥の棚に向かい、必要な材料を取ってすぐに踵を返す。
「あっ、翔真、さ……」
瞳を潤ませて葵生が何か言おうとしていたが、聞こえない振りをして足早に部屋を出た。
※
今日、本当は仕事後に葵生と会いプロポーズの返事を聞く予定だったが、すでに答えを聞いてしまったし、今、葵生には会いたくなくて……
今会うと、さっきみたいに胸に燻る苛立ちを露にしてしまうのは確実で、どんなにひどい態度をとってしまうか自分でも想像がつかない。それに、振られて落ち込んでいる無様な姿を見られたくなくて、葵生に簡潔に会わないとメールをして自宅にまっすぐ帰った。
はぁー。
電気も付けずに自宅のリビングのソファーに深く腰をかけ、両膝の上に肘をついて上半身を前かがみにし、床を見てため息をつく。
カーテンの開いた窓から月明かりが差し込み、薄っすらと室内を照らしている。
両手をぎゅっと握り、額に拳をつけたり離したりして、もう一度ため息をつく。
葵生と一緒に二年を過ごし、自分の中から気持ちが溢れるほど葵生を愛していたなんて……振られて、立ち直れないほど落ち込んで、初めて気づくなんて、かっこ悪すぎだ。
愛しているのに気持ちを受け入れられないというのは、こんなに辛い事なんだな……
当分、葵生に会いたくない――というか、会えないと思った。
フランスへの出立まで一週間、荷造りもほとんど済ませ、後はレストランでの仕事をするだけだ。シェフに言えば、数日早くフランスに立つことも可能かもしれない。
合わせる顔がないのなら、早く、日本を離れたかった――
そう思い立ったらいてもたっても居られず、シェフに連絡をするため、立ち上がり電話に手を伸ばした。




