第21話 in your heart 1
事務所でパソコンに向かっていると、机の横にかけた鞄の中で携帯が振動しているのに気づいて、キーボードに乗せた指を止める。
視線をパソコン画面に固定したまま右手だけでキーを押し、前かがみになって左手を鞄の中に突っ込んで、携帯を探り、携帯ストラップを握って引っ張り出す。
コイン大の猫のぬいぐるみのストラップには鈴がついていて、軽快な音色を響かせる。
私は相変わらずパソコンに視線を向けたままで携帯の画面をパチンと開き、ようやく視線を正面から左手に移す。
さっきの着信は思った通りメールで、私はため息を一つついてからメールを開く。
『From:久我さん
こんにちは。今日は早番で二十時には上がれます。家まで送るので、バイトが終わり次第レストランに来て下さい』
という久我さんからのメール……
うーん……、突っ込みどころが満載でどこから突っ込んでいいやら……
私のところになぜ久我さんからこんなメールが届いたかというと、三日前――
「好きですよ、長田さん」
天使も慌てて逃げ出すような妖しく麗しい微笑みの久我さんがそう言った。
だけどその笑顔は、いつも裏に怒りや嘘を隠している時に向ける笑顔だって知っているから、怖くて信じられなくて――
でも有無を言わせぬ鋭い視線で見つめられて。
わかるよね――そんな無言の威圧に怯えて、私は慌てて首を縦に振った。
それから車に乗った久我さんは鼻歌でも歌いそうなほど上機嫌で、本当に家まで送ってくれた。その様子を見ていたら、とてもさっきの言葉が嘘だったとは思えなくて――でもあれが告白とも思えなくて――
私は家に着くまでの間、ずっと頭が混乱しっぱなしだった。
家に着くと、車から降りてきた久我さんが小さなメモを渡してきた。
「これは――?」
そこには携帯番号とアドレスが書かれていて、久我さんの連絡先だとは分かったんだけど、なんで渡されたのか疑問に思うと。
「なにかあったら連絡して下さい。僕からも連絡しますから」
そう言われたけど――
久我さんは、私の連絡先を知ってるの?
その疑問が頭から離れなくて、私は家に帰ってからすぐに久我さんのアドレスを携帯に入力して、手ばやくメールを打つ。
『To:久我さん
長田です。今日は送って頂きありがとうございます。気をつけて帰って下さいね。おやすみなさい』
そう送ったのだけど――返事はなくて、音沙汰なしであれから三日が経った。
※
家に送ってくれるのは嬉しいけど、私の予定とか聞いてくれないのね……
まあ、予定なんて何にもないし、ちょうど今日のバイトは十九時までだから後片づけして電車に乗って赤坂に向かったらちょうどいい時間かもしれないけど、ずいぶん勝手じゃない?
私は返信をせずに携帯を閉じて、机の端に置く。
私にどうしろと――?
っていうか、私と久我さんって、今どうゆう関係なの――?
あの日、嫌いかって聞かれて、嫌いじゃないって答えて、好きって言われて、信じられなくて。
でも私は、インケンで嫌味で恐ろしいほど妖艶に笑う久我さんが好きで――
信じていいのかな、久我さんの言葉……
久我さんが私のことを好きって言ってくれた――ってことは、私達両思い!?
……
…………
待って! 私……言ってない……
私は久我さんに好きって言ってないじゃない……!
その事実に初めて気付いた私は、愕然する。
だめじゃん! ちゃんと言わなきゃ――ってか、この際、はっきりさせるべきでしょ!?
顔を上げ壁掛け時計の時間を確認すると、時刻は十二時少し前だった。私は顎に手を当てて。
うーん……
しばらく悩んだ後、決意を込めた瞳で一人頷き、立ち上がって社長席に近づいて静かに声をかけた。
「あの、社長。お願いしたいことがあるのですが――」
※
壁掛け時計の時刻は十六時を過ぎたとこ。
「それでは、行ってきますっ!」
私は今日中にやらなければいけない仕事をすべて終えて手早く机の上を片づけ立ち上がる。肩にかけた鞄の持ち手を握りしめ、正面に座る社長に言う。
「はい、気をつけていってらっしゃい」
社長は穏やかな笑顔で私を見送る。
「はいっ!」
私は意気込んで言い、外に駆けだした――
五十分後、事務所に戻ってきた私は社長に声をかけ、事務所の奥に籠り――それから更に一時間三十分後。
「コレ、社長用に砂糖少なめで作りました。今日、我が儘を聞いて頂いたお礼です」
そう言って私は社長の机の上に小さな箱を置く。
「私の分も作ってくれたんですか? ありがとうございます」
社長がにこりと笑うから、私もつられて照れ笑いする。
社長が喜んでくれて良かった。社長って――お父さんみたいなんだよね。うちはずっとお父さんと二人で暮らしで、私はお父さんのことがすっごく好きでべたべたに甘えて。でもお父さんは、私が十四歳の時に事故で亡くなった――
事務所で初めて会った社長は、柔らかい雰囲気とか話し方とかどことなくお父さんに似てて、聞いたら年齢も一緒だし、お父さんのように慕っている。社長も、私くらいの子供がいるからって、ただのバイトとしてじゃなく、葵生ちゃんって名前で呼んですごく良くしてくれて。まあ、あの時はその子供っていうのが、久我さんのことだとは知らなかったけど――
そう考えて、あんなお父さんのいる久我さんが羨ましくなる。いいな、久我さんはお父さんが側にいて。
まだまだ先だけど――いつか、私が結婚する時は、お父さんと一緒に教会のバージンロードを歩くのが夢だったのに――そんな私の夢は、もう叶うことはない。
じわり……視界がにじみ、慌てて目元を拭う。
私はあの後事務所を出て、今は電車の座席に座って赤坂に向かっている途中。こんな電車の中で泣くなんて恥ずかしい――
でも、お父さんのことを思い出したら急に寂しくなって、涙が溢れる。
大きく左右に揺れ、電車が減速していく。
「赤坂ー、赤坂ー」
扉が開き、ホームに放送が流れ、私は慌てて立ち上がり電車を降りた。手にはしっかりと鞄と小さな紙袋を持って。
赤坂駅を出て赤坂見附方面に歩いて十分くらい、そこにCouleurdu miel赤坂店がある。
お店の前に着いて、お店に入るかどうか迷う。
なんとなく、久我さんと待ち合わせてるっていうのを、シェフとか他のスタッフの人に見られたくなくて躊躇する。その時、鞄の中で携帯が鳴りだす。
取り出すと久我さんからの電話で、慌てて通話ボタンを押した。
「はいっ……」
『あっ、長田さん?』
そう言った久我さんの声は戸惑っているように聞こえた。
「はい」
『今どこ?』
「今? お店の前に着いたところです」
言って、携帯を耳から離して携帯画面を見ると二十時十二分。
『そうですか。メールの返事がないから、来ないのかと思いました』
「あっ……」
その言葉には少し棘が含まれているのを感じつつ、メールの返事をしてなかったことを思い出して、口に手を当てる。
「すみません……忘れていました」
『そう……ですか。で、今、店の前なんですね? 僕は今終わったところなのでこれから着替えますから、店の中で待てて下さい』
「えっ、店の中で……ですか?」
『そうですよ、外で待たせる訳には行きませんからね』
「はい、わかりました」
そう言われたら従うしかなくて、電話を切ってそおっとお店を覗き、それから店内に足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ~」
人の気配に奥からマネージャーが現れて、私はお辞儀する。
「こんばんは、あの……」
なんて説明すればいいのか……そう頭の中で必死に考えていると。
「ああ、久我君のこと待ってるのよね。彼から聞いてるよ、渡す書類があるんですってね。葵生ちゃんも大変ね、あっ、そっちの席に座ってていいからね」
「えっ、あっ、はい。ありがとうございます」
なに? 仕事の用事があるってことに……なってる??
わー、久我さんらしい。さすが、インケンでそつがない!
インケンは関係ないけど、私の中で久我さんっていったらまず“インケン”が最初に思い浮かぶんだもの……
席に座って待っているとすぐに久我さんが現れて、私をじろりと見下ろす。
なっ、なに……もしかしてインケンっとか考えてたのバレてる!?
怯える私に向けられた久我さんの鋭い視線が、ふっと和らぎ。
「お待たせしました。じゃ、行きますか? お疲れ様です」
そう言って店の入り口に向かい、シェフや他のスタッフに挨拶する久我さん。
気づくと、すでに入り口の所で扉を開けて私が来るのを待っているから、慌てて後を追った。




