第18話 誘惑フレグランス
初めて抱きしめた彼女の体は想像以上に細く柔らかくて、体の中心がざわつく。軽く手を回しただけなのに、すっぽりと包みこんでしまえる存在に愛おしさを感じ、彼女の体からは甘く芳しい匂いがして、長田さんの耳元に口を寄せる。
「長田さん、さ――」
自分が今どんな行動を取っているのか考えもせずに、ただ感情のまま言葉にする。
「はっ、はぃ!?」
「いい匂いするね。甘くて――食べちゃいたくなるな」
本気で食べるつもりはなかった――それは本当。
ただ、そう言って覗きこんだ長田さんの表情が真っ赤になって、慌ててる様子があまりにも可愛くて、しどろもどろに言葉を呟き……目を瞑ったのを見て――現実の状況に引き戻される。
この状況で目を瞑るのは、反則じゃないだろうか――?
押さえていた理性がすごい勢いで吹っ飛びそうになりながらも、そんな行動を取った後長田さんが拒絶するだろうことにすぐに思い至り、理性を慌てて連れ戻す。
最近、やっと俺に笑顔を見せてくれるようになった長田さん。
家に誘った時も、即答で頷いてくれた。
その信頼を裏切りたくなくて近づけた顔を離し、さっきの行動を誤魔化すために長田さんの髪の一房を掴んで顔の近くに持っていく。
「やっぱり、蜂蜜だ」
平静を装い言う。掴んだ長田さんの髪は僅かに光り、そこから甘い匂いがしている。
「どうしたんですか、これ?」
笑顔を作りながら聞いた俺を、長田さんは大きな目をぱちぱちと瞬かせる。
「長田さん?」
いつまで経っても何も言わない長田さんの顔の前に手をかざすと、ぱっと顔を上げる。
「えっ、わっ……」
「ここ、髪の毛に蜂蜜ついてるみたいだけど、どうしたんですか?」
「えっ、蜂蜜……? あっ、あのですね、お米がないって言ったら友達が食パンをくれて、ハニートーストが食べたくなったんです」
「ハニートースト、ってあの一斤まるごと使って上にアイスとか生クリームとかが乗ってる――?」
「はいっ」
言いながらハニートーストを思い浮かべているのか、長田さんがうっとりと目をとろかせている。その顔を見て、気付かれないように笑みを漏らす。
「それで、上に蜂蜜をかけようと思ったんですけど、うっかり冷蔵してカチコチに固まってしまって」
「ああ……」
冷蔵して固まった蜂蜜――それは大変だと苦笑する。
「でも、どうしてもハニートーストが食べたくて、仕方なく鍋で火をかけて湯せんしたんです。蜂蜜はちゃんと溶けたんですけど……容器がもろくて鍋の中で爆発して……あちこちに蜂蜜をぶちまけてしまって……きっとその時についたんだと思います」
「なるほど、よく見ると服にもついてるし……」
長田さんの服や髪や腕が所々光っている。そこに蜂蜜がついているのだろう。俺は長田さんの手を掴み上に向ける。
「肘にもついてる」
言いながら、顔の目の前にある肘をぺろんと舐める。
「んー、甘い」
そんな俺の行動を呆然と眺めていた長田さんは、少し唇を尖らせてふてくされたように言う。
「久我さんって実は――甘党なんですね」
「ああ、そうだね。よく、わかりましたね」
ふてくされた顔も可愛く思えてしまって、首を傾げて笑う。
「じゃ、夜食はハニートーストで決まりだね」
そう言って、改めてキッチンに向かった。
※
先にお風呂に入った長田さんが、おやすみなさいと言ってゲストルームに入ってから一時間ほど仕事をして一段落ついた俺は、寝室に着替えを取りに行って風呂場に向かう途中、ゲストルームの前で立ち止まった。
扉一枚隔てた向こう側で、彼女が寝ていると思うと胸がざわつく。扉の横の壁にもたれかかり天井を仰ぐ。
今頃になって、自分のした行動が十分大胆だったという気がしてきて、ため息をつく。
すぐ側に彼女がいると思うと触れずにはいられなくて、理性と感情の狭間で揺さぶられて――感情に負けた自分に、もう一度ため息をつく。それでも気分は浮かれて、風呂場に向かって歩き出した。
※
翌朝、学校まで送って行った時の長田さんの様子は普通だったから、あの時のことを長田さんは気にしていないと思っていた。
それなのに、夕方バイトに来た長田さんは、事務所に入ってきた時にちらりと俺の顔を見た以外は俺の方を見ようとはせずに、棚に戻す資料を持って棚のある場所にそそくさと行ってしまった。
その場所は、ちょうど机が置かれている場所からは棚で隔てられた場所で、同じ事務所にいるにも関わらず、ずっとお互いの姿を見ないままで時間が流れていった。
俺は話しかける口実にお茶のペットボトルを二本買い、長田さんがいる事務所の奥に向かった。
「長田さん」
資料の整理はほとんど終わったのか、床にはもう資料が置かれてなくて、長田さんが握りしめているのが最後のようだった。
ただ、長田さんはネジの切れたねじまき人形のようにぴたりと動きを止めていて、その肩に手を置いて声をかけると、あからさまに驚いたようにビクッと体を震わせて振り返るから、俺の胸はちくりと痛む。
「あっ、ごめん、驚かせちゃった?」
「いえ……どうしたんですか?」
「少し、休憩しませんか。今日はずっと書類整理して立ちっぱなしで疲れたでしょう?」
そんなあからさまに困った顔をされると、俺もどうしたらいいか分からなくなってしまう。
「はい、そうします……」
小さな声で長田さんが言ったから、俺はキッチンに置かれたダイニングテーブルの方へ歩き、机の上にペットボトルのお茶を置いた。
「じゃあ、こっち頂きます」
買ってきたのはココアとマンゴーティー。長田さんがどんなものが好きなのか分からなかったけど、ハニートーストが好きだと言っていたのを思い出し、甘い飲み物を選んでみた。
長田さんは迷わずマンゴーティーを取ったから、それが好きなのだろうと勝手に思い込んでしまった。
まさか、嫌いだとは知らずに――
俺の気のせいではなくあの日から、俺と長田さんの間には微妙な空気が流れていた。
挨拶もする、仕事もいつも通り手際はいい――それなのに、俺とは目を合わせないし、話しかけようとすると逃げられる。
だから、せめてもの繋がりにと、長田さんの好きなマンゴーティーを毎日買うようにした。お茶を渡す瞬間だけは、俺の方をちゃんと見てくれるから。
だけど時間は無情に流れ、父が退院してから一週間。いい加減仕事復帰すると決めた父に、明後日の月曜から事務所に戻ると告げられ、明日の赤坂店の一周年パーティーが長田さんと一緒に仕事をする最後の日となる。
俺はお茶を渡しながら、長田さんに言う。
「社長は明後日から復帰することになりました。退院後、念のため自宅で療養していましたが、いい加減復帰したいと言うので、月曜日から戻ることになりました」
その瞬間、最近では見ることのなかった、輝くばかりの笑顔を見せるから――なんだか胸が切なくなる。
社長が復帰すると聞くと、そんな嬉しそうな顔をするんですね――
そういえば、社長が退院した次の日も、満面の笑みで事務所に出勤してきたな……あれはもしかして、社長がいると思ったから……?
そう思うと胸が苦しくて、いつものように嫌みも言えなくなってしまう。ただ、沈んだ気持ちを悟られないように、強がるのが精一杯だった。
「……それで僕が社長代理を務めるのは明日までとなりますが、明日行われる赤坂店の一周年感謝パーティーの受付を私とあなたがすることになっています。明日はスーツで来て下さいね」
「はい、わかりました。ところで、久我さん……」
長田さんが手元に持ったマンゴーティーを見つめて。
「買って頂いてこんなこと言うのもあれなんですが、私、マンゴーティーって苦手なんですよね……」
その言葉が、とどめの一撃とばかりに胸に突き刺さる。
「そうですか、それは気が効かなくてすみませんでした」
怒りを隠すように笑顔を貼りつかせ、だけど、言葉に棘を含ませずにはいられなかった――
胸が痛む――
恋とはなんとも恐ろしい病のようだ。
自分がこんなに長田さんの言葉に一喜一憂して、切なくなるなんて――
もう取り繕うのも誤魔化すのも限界で、それ以上長田さんと顔を合わせているのが辛くて――
「僕は、明日の打ち合わせをレストランとしてきますので、遅くなると思います。なので、君は定時になったら上がって先に帰っていて下さい」
そう言って、逃げるように事務所を後にした。