第14話 かわいくて憎らしい彼女
六月の二週目に入って、父が倒れて運ばれたと病院から連絡があって、慌てて駆けつける。
父は――俺にとって尊敬する存在であると同時に遠い存在でもあった。母が亡くなってから、その寂しさを埋めるように仕事に没頭した父。子供である自分を省みてくれないことはなかったが、一緒にいられる時間は少なかった。
父が日本で経営を始めてからは年に一度か二度会うだけで、俺が日本に来てからは同じアパートで住めばよかったのかもしれないが……別々に住み、仕事で会うか、時々夕食を一緒に食べるくらいだった。糖尿病だということすら――病院に駆け付けるまで、知らなかったんだ。
「翔真、心配かけて悪かったね」
病室に入ると、起き上がっていた父が穏やかな表情で言う。
病院に向かう途中、命にかかわることだったらどうしようかと胸のつぶれる思いでいたが、今回は過労で風邪をこじらせたのが原因だと聞いて、少し安心した。父の表情からも辛さは感じ取れず、ほっと安堵の吐息を漏らす。
「驚かせないでくださいよ」
そう言って、強がるのがやっとだった。
父はふっと微笑をもらし、ベッドに横になる。
「ああ……」
「先生が入院ついでに検査すると言っていました。父さんは働き過ぎですよ。事務所も大学生のバイトと二人きりでは大変でしょう? 折角ですから、この機会にゆっくり休んでください」
「その言葉に甘えるよ。翔真にもいい機会だろう? 明日からしばらく事務所と葵生ちゃんのこと頼むよ」
そう言った後しばらくして、静かな寝息が聞こえてきた。俺がいるのに寝てしまうなんて、本当に疲れているんだなと痛感する。
※
翌日、父から預かった鍵を持って事務所に向かう。レストランには、父が入院したこと、しばらく代理として事務所勤務することを伝えた。
事務所には日本に来たばかりの頃に数回来ただけだったから、改めて事務所の中をじっくりと見回した。
仕事内容は、昨日父からだいたいの流れを聞き、スケジュールなど詳しく書かれた手帳を渡されたから、それでなんとか出来るだろうと思う。大学で勉強したことを初めて実戦で活かす機会に恵まれ、仕事に対する期待と不安でいっぱいで、事務所に“彼女”がいることを思い出したのは、彼女が来る直前のことだった。
「おはようございまーす」
元気一杯に事務所に入ってきた彼女は、社長席に座った俺を見て瞳が落ちそうなほど目を見開き、何度も瞬きする。
「おはようございます」
俺は顔を上げて彼女を見て言う。彼女はそんな俺の顔をじーっと見つめ、振り返り一旦事務所の外に顔を出してから、室内を見回して首をかしげながら席に着いた。席に着いてからも、しばらくは茫然と何かを考えるようにしている。
なんだ、この反応は?
挙動不審というか、まるでこれでは――あなたは誰ですか――そんな不安そうな顔で座っているから、彼女に声をかける。
「なんですか? なにか分からないことでも?」
まさか、レストランで会ったことを覚えていない――?
俺は少しの動揺を隠して、平静を装って言う。
「いえ、あの……」
そこで言葉を切り、彼女は自分の机の上に置かれた山積みの書類に視線を移した。その書類は、彼女が来る直前に彼女の存在を思い出した俺が置いたものだった。
事務所のバイトだというから、きっと経理とかそうゆう関係のことを大学で専攻しているのだと勝手に決め付けて――
「社長は……今日はいらっしゃらないのですか?」
そう言った彼女を見て、俺のことを覚えていない――と確信し、僅かに胸がチリチリと痛む。
椅子の向きを変えて立ちあがり、彼女の机の前に行く。
「自己紹介がまだでしたね。僕は久我 翔真といいます。社長――久我 銀司の長男です。社長は体調を崩して入院することになったので、しばらくは僕が社長代理を務めます。よろしく」
彼女が俺のことを覚えていないなら、彼女にとっての第一印象が良くなるようにと、極上の笑みを浮かべて手を差し伸べる。
彼女は慌てて立ち上がり、俺の手を軽く掴んだ。
「はじめまして、バイトの長田 葵生といいます。よろしくお願いします」
その彼女の言葉を聞いて、俺のことを覚えていないんじゃないかとさっき確信していたのに――決定打を打たれ、さらに胸が痛んだ。
だけど、そんなことは顔に出せなくてプライドで平静を装い、彼女との会話を早々に切り上げ、仕事に戻った。それなのに――
「あの……」
彼女が声をかけるから、つい苛立つままに“長田さん”を見もせずに言う。
「なんですか?」
「この書類ってどうしたらいいんですか……?」
その言葉に――手にしていたペンを折ってしまった。ペンをそっと机の端に置いてから顔をあげて長田さんを見る。長田さんは書類の一つを手に持ち、呆然と俺の方を見ていた。
俺は勢いよく立ち上がり、その勢いのまま近づいて書類をひったくる。そんな行動、大人げないと思いつつも、さっと目を通して閉じた書類を机の上にばんっと置いて、俺は長田さんを見た。
なぜ、この書類を見て――どうしたらいいんですか? という質問になるんだ?
理解できなくて苛立ちつつも、俺はその気持ちを抑えるように笑顔を貼りつかせる。
「これは、先月の各店の在庫一覧表です。パソコンのここに在庫データがあるので、数字を入力して、在庫の金額を出して下さい」
話しながら長田さんの机に左手をつき、右手でマウスを操作する。パソコンの画面上でマウスを動かし、在庫データを開く。
「いいですか?」
そう言って俺は仕事のやり方を指示した。
彼女の中では“初対面”という状況で、俺は気持ちをなるべくオブラートに包んで行動しようと思ったのだ。
だが、父から彼女は事務のアルバイトと聞いている。在庫管理くらい出来るはずだ。出来ないはずがないんだ。
レストランで見た彼女は、本当に仕事熱心で、細かいところまで気配りができ、迅速かつ丁寧な仕事ぶりは惚れぼれするものがあった。そんな姿を見ていたから、事務所での彼女は父を支える立派な右腕なのだろうと想像して、そんな彼女を少し羨望していた。
いつか、父の側で働く――
そう夢見ていた俺の、その場所に、彼女がいるから――
それなのに――
在庫管理は出来ない。シフト整理も出来ない。なら一体、何が出来るというのか? 彼女は一体、ここで――父の側で――どんな仕事をしているというのか――
「それで時給に見合った仕事をしてると思っているの?」
半分は八つ当たりだったかもしれない。それでもこれが、その時点の彼女に対する俺の気持ちだった。