第11話 ココロの扉をたたいて
社長が戻って来てから――久我さんが事務所に来ないようになってから――三週間が経つ。
いつも通りのはずなのに、何かが変わった私の生活。
バイトの仕事内容は社長が入院する前とがらりと変わって、久我さんが来なくなってからも久我さんから教わった経理などの仕事をしている。だけど社長は、ねちねちインケンつけたり細かいミスを指摘したりはしない。
久我さんにされていた時はあんなに厭味ったらしく感じて嫌だったのに――それさえもコミュニケーションだったように物足りなく感じて、心の中にぽっかりと穴が空いたような、虚無感に襲われた。
その時になって――インケンで仕事のことになるとネチネチと容赦なくて、時には怒りが隠された天使も逃げ出すほど極上の笑みを見せたり、ほんのりと頬を染めた柔らかい笑みを浮かべたり、時には妖艶に囁いたり、実はすごく料理の上手な久我さんが――いつの間にか、激しく私の心の扉を叩いて居座っていたことに気づく。
それなのに――
久我さんは今はどこにもいない――
最後に見た久我さんはパーティで招待客と話している後ろ姿――
今頃になって気づくなんて、なんて私は鈍いんだろう――
“久我さんが好き”
たったそれだけのことに気づくのに、久我さんと離れて、久我さんの存在の大きさを思い知って、それでようやく気づくなんて。
伝票整理していた手を止め、ぱたりとファイルを閉じる。
だけど、今頃気づいた私は、どうしたらいいのだろうか?
久我さんはきっと、私のことなんてなんとも思っていない。むしろ嫌われているかもしれない。それでも――
久我さんに会いたい――それが、私の気持ちだった。
連絡先は知らなくて、でも知っているからと久我さんの家に行く勇気はさすがになくて。
社長に連絡先を聞こうか。でも連絡して会って、それから私はどうするつもり……どうしたいのだろう……
いまいち自分の気持ちの整理もつかなくて。
あー、やめよ、やめよ。
私に恋なんて似合わないし、今は大学生活とバイトでいっぱいいっぱいなはずよ。それに、どうせ実らない恋だって分かっているなら、早めに諦めた方が傷つくことも少ないはず。
久我さんのことなんて、すぐに忘れられる――そう思ったのに。
仕事に集中することができなくて、頭の中から久我さんのことが離れなくて。
久我さんってまるで、美しい花にある毒みたい。見た目は本当に花にも負けないくらい美しい。きりっとした二重、通った鼻梁、薄く形の良い唇、そして一番目を引くのは、蜂蜜色の羨ましいくらいサラサラの髪。
あまりに美しいから、ついほいほいと近寄っちゃって、その花から出てる毒に知らずにどんどん感染しちゃったのよ。
だって、そうでしょ!?
あんな艶めかしい声と表情で、耳元で囁かれて、あの時ドキドキしたり胸が締め付けられるように痛んだのは、仕方がないことだったのよ。誰でもあんな目にあったら、同じく鼓動が破裂するんじゃないかってくらいドキドキするのよ!
だから――そう、私の久我さんに対する気持ちは恋なんかじゃない。久我さんの毒にあてられただけなのよ。
ゆっくり時間をかければ、毒は体から抜けて、いつかは久我さんのことを考えてもドキドキなんてしなくなるのよ。
そう、だから忘れるのよ、私!
胸元をかき合わせ、そう自分に言い聞かせた。
※
夕方、レストランの新作の試食に行く社長に一緒に行こうと誘われ、やりかけの仕事を脇によけ、ファイルを棚に戻しに行く。
今日は途中、なんだか余計な考え事をしてしまい、仕事がぜんぜんはかどらなかった。そんな中途半端な仕事しかできないのにレストランで夕食を食べるのは気が引けたが、一人で行くのはつまらないからと社長に言われたら、ついていくしかない。
実際、新作料理にはすごく興味があるし、行くと決めたらさっきまでの雑念はすっ飛んでしまった。
赤坂店に着いたのは八時過ぎ。店内は半分ほどの席が埋まっていて、私と社長はシェフに挨拶してからキッチンに近い席に座った。
しばらくすると、次々と料理が運ばれてくる。私はデジカメを持っていることを思い出し、鞄から取り出して一皿ずつ写真を撮ってから料理を味わった。
社長はメモ帳を出し、料理の見た目、味、感想などを書きとめて、私にも感想を聞いてきた。私はそんなに舌が超えているわけじゃないから、美味しいか美味しくない、ちょっとした気づいたことを言った。こんな時、もっと気の効いたことを言えればいいけど、普段家でもあまり料理しないからたいしたことは言えなくて、なんて役に立たないんだろうとへこんでしまう。
すべての料理を食べ終えると、社長はメモ帳を持ってキッチンに行ってしまった。
時刻はすでに九時半をすぎ、店内のお客様もまばらになっている。
一人席に取り残された私は、することがなくてなんとなく店内を眺めていた。
「お飲み物のお代わりはいかがですか?」
そう声をかけられて顔を上げると、そこにはキッチンスタッフの一人が立っていた。確か……そうだ、お皿洗いの手伝いに来た時、私のことを見てた人だ。
ホールスタッフは何人か名前も知ってるし、手伝いに来た時に話すこともあるけど、キッチンスタッフとは話す機会がなかった。だから、会ったことはあっても話すのは初めてで。
「大丈夫ですよ、もうお腹一杯なので。あの、はじめまして。私、以前に何度かお皿洗いに来たことがある長田と言います」
そう自己紹介したら、キッチンスタッフの彼は黒ぶち眼鏡の奥で一瞬眉を顰めた。その表情に違和感を覚えたんだけど。
「はじめまして……」
掠れた声で言い、じーっと見つめられて、私は首をかしげる。この間もそうだったけど、この人、私の顔をずっと見てて……私の顔に何かついているのかしら?
そんなことを考えて、あることに気づく。
眼鏡の奥のきりっとした二重、通った鼻梁、薄く形の良い唇、そして――コック帽の脇から微かに見えるのは蜂蜜色の――
「こ……が、さん……?」
そうだ! こんなに美しい顔を見間違えるはずがない。何よりも蜂蜜色の髪の人がそうそう他にいるはずがないんだ。どうして今まで気づかなっかったんだろう!?
久我さんがレストランのキッチンにいるはずがないという先入観? だって、久我さんって、スーツ着てオフィスでバリバリ働いているっていうイメージで――そう考えて、事務所に久我さんが一度もスーツを着て来たことがないこと、料理がすごく上手だったことを思い出す。
その瞬間、なにもかもの辻褄が合う。
事務所で初めて久我さんに会った時、あの時も私が「はじめまして」って言ったらさっきみたいに一瞬眉を顰めたんだ。
あれより前にレストランで会ったことがあるのに「はじめまして」なんて私が言ったから――
久我さんが社長代理を辞めた後のレストランでも、久我さんに挨拶の一つもしない私を久我さんは見ていたんだ。
「やっと気づいたんだね」
呆れ気味に言いながらコック帽を脱いだ久我さんのさらさらの蜂蜜色の髪が頬の横で揺れる。
「レストランに来た時もまったく僕に気づかないで、約一ヵ月一緒に働いた仲なのに、君は本当に薄情だな」
“君”っていう言葉から久我さんが怒っているって分かるのに、そんな嫌味も久しぶりに聞くと懐かしくて頬が緩む。
「まったく、君は……」
その後もぐちぐちと久我さんが言ってたけどその言葉は耳まで届かなくて、胸がいっぱいになって――ぽろり、瞳から涙がこぼれ落ちた。