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第10話  危険地帯××



 ひどく殺気立った久我さんの瞳に、一瞬、切なげな光を見た気がして、胸が締め付けられるように痛んだ。

 だから、苦手だけど、飲んだら美味しかったです――そう弁解しようとしたのに、久我さんは手早く荷物をまとめると。


「僕は、明日の打ち合わせをレストランとしてきますので、遅くなると思います。なので、君は定時になったら上がって先に帰っていて下さい」


 そう言って、事務所を出て行ってしまった。

 打ち合わせがあるのは本当だろうけど、まるで私とはこれ以上話したくないというように、背中が私の存在を拒絶していた。



 もやもやした気持ちのまま翌日の夜。

 赤坂店の一周年記念パーティーの受付をやるために、直接レストランへと向かう。赤坂店は以前にも皿洗いに何度か行ったことがある。

 スーツを着てこいと言われて……大学の入学式のときに着たスーツしか持っていなかった私は、昨日の夜慌てて、少しお洒落なYシャツを買ってきた。パーティーだもの、受付と言っても、大学の入学式の格好そのままで行くわけにはいかないでしょ。

 言われた時間よりも少し早くお店に着いたけど、すでに久我さんは来ててキッチンでシェフと話していた。

 昨晩、気まずい雰囲気のまま別れて、どんな顔をして話しかけたらいいのか分からなかったけど、とにかく挨拶しようと思って近づくと、私に気づいた久我さんがこっちを見た。


「長田さん、おはよう」


 そう言った久我さんは何事もなかったように普段の澄ました顔で、怒っている様子もなかった。

 私は昨日から一晩中、どうして久我さんが怒ったのか悩んで、分からなくて、あまりよく眠れなかったっていうのに、いつも通りの久我さんにちくんと胸が痛んだ。

 あんなに悩んで馬鹿みたい。

 入り口に置かれたテーブルの前で一通り受け付けの説明をした久我さんは店の奥に行ってしまった。

 受付の時間までまだあったし、私はキッチンに顔を覗かせる。


「あの、何か手伝うことありますか?」

「おっ、葵生ちゃん。おはよう」

「おはようございます、シェフ」


 シェフとは会議で事務所に来た時など何度か顔を合している。三十半ばですらっとしたシェフは、社長の影響か――たぶんそうだと思うけど、私のことを“葵生ちゃん”と呼ぶ。


「じゃあ、この料理を、あそこのテーブルに並べてくれるか?」

「わかりました」


 キッチンのカウンターに置かれた楕円の大皿料理を、指示されたテーブルに運ぶ途中、店内でホーススタッフの女性数人と久我さんが話している姿が視線の端をかすめる。

 その久我さんの表情は、私には決して見せない毒も棘もない笑顔で、顔を顰めた。

 なによ、あんなににこにこしちゃって――

 久我さん、私以外の女性にはあんな顔で笑うのね。私って本当に恋愛対象外なのね。

 ブツブツと文句を言って、自分の中に渦巻く気持ちに気づいてしまう。

 これじゃまるで、嫉妬しているみたい――

 みたいじゃなくてそうなのかもしれないけど認められなくて、思考から無理やり久我さんのことを押し出して、黙々と料理を運んだ。

 だけど受付の時間になると右隣には久我さんが立ってて、嫌でも意識してしまって、体の右側に全神経があるんじゃないかっていうくらい右側だけが火照る。

 今日のお客様は、食品を取引している業者様、賃貸契約を結んでいる不動産会社など会社関係の人を招待して、料理でおもてなしをする。もちろん、日時が日曜日の夜だから、仕事を切り上げて来る方もいらしてパーティー開始時間をすぎてもぱらぱらとお客様が来るから、しばらく立ちっぱなし。おまけに、横には美味しそうな料理が並び、芳しいいい香りが漂ってきて、お腹が空いてくる。

 ああ、こんなことなら早めの夕飯を食べてから来れば良かったなぁ。パーティが終わったら残り物を貰えるかもしれないけど、もうお腹はペコペコで……


「マックのポテト食べたい……」


 欲求を思わず声に出してしまい、隣にいた久我さんが呆れた声で言う。


「横にはご馳走があるというのに、食べたいのはマックですか」

「悪かったですね。私は庶民だから、あんな豪華な料理は食べ慣れていないんです。それよりもあの塩味のきいたポテトが……」


 揚げたてのポテトを想像しながら手を震わせていると、久我さんの忍び笑う声が聞こえて仰ぎ見る。


「あっ、笑ってないですよ」


 そう言って口元を押さえた久我さんは明らかに笑ってて――でも、馬鹿にしたような顔でも呆れたような顔でもなくて、瞳を細めて笑ったその顔は魅力的で、胸がきゅっとなる。

 まるであの日見た久我さんの笑顔みたいで、私は視線をそらした。 



 その後、取引先の社長さんが来て、久我さんは挨拶にホールへ行ってしまった。

 招待客もほぼ揃った頃、料理を作り終えたシェフに呼ばれてキッチンに行くと、私用にと言って取り分けてくれていた料理を包んでもらい、先に帰っていいと言われた。

 今日の仕事は受付だけだし、シェフが帰っていいって言うなら、いいよね。

 私は久我さんに挨拶しようかと思ったけど、まだ話し込んでたので、シェフと近くにいたスタッフに挨拶をして帰ることにした。

 そう、たとえ今日が、久我さんと一緒に仕事する最後の日だとしても――

 久我さんが社長代理として来て、約一ヵ月。

 初日は、いきなり普段やってない仕事を押し付けられて頭にきたし、仕事のことになるとちょっとしたミスもネチネチと指摘してくるし、インケンだし――だけど、仕事は迅速正確で、仕事のことを抜くと優しいところもあって、料理が上手で――この一ヵ月、それなりに充実した日々だった。

 もう久我さんと会うこともないと思うと寂しく感じるけど、久我さんが社長代理として事務所にいたことが、非日常だったんだ。

 久我さんのマンションで抱きしめられたこと、昨日、一瞬見せた切なそうな顔を思い出して――頭を大きく左右に振る。

 明日からは社長が復帰する。もう久我さんのことを考えるのはやめよう。



  ※



 翌日から社長が復帰して、私の日常が戻ってきた。

 社長と和気あいあいとしゃべったり、一緒に昼食を食べたり、一ヵ月前の楽しかったバイトそのものだった。

 だけど、心は何か無くしたみたいに満たされなくて――

 街を歩いていて視界の端を蜂蜜色の物が霞めると、思わず振り向いてしまい、それが思い描いていたものと違くて、がっくりと肩を落として。

 なんだか上の空で覇気なく、時間は過ぎて行って――



 日曜日。事務所に行くと社長がにこやかな顔で告げた。


「葵生ちゃん、今日は赤坂店のヘルプに行って来てくれるかな? 急にバイトの子が休みになったらしくて」

「はい、わかりました」


 以前にも赤坂店にはヘルプに行ったことがあるから、私も笑顔で答える。


「では、行ってきます」


 事務所に着いてそうそう荷物をまとめて、社長にそう言い、私は駅に向かった。



「おはようございまーす」


 キッチンやホールにいるスタッフに挨拶しながら奥の従業員用のロッカールームに向かう。

 いちおそれなりのお値段のイタリアン料理のお店だからホールに出る訳に行かず、ヘルプと行ってもキッチンでの皿洗いのみ。だけど、これが次から次に洗い物が出てくるし、ずっと同じ場所に立ちっぱなしだから、それなりに重労働なんだよね。

 まあ、単純作業は好きだし、集中しだすとあっという間なんだけどね。

 そんなことを考えながら、ロッカールームに用意された白いシャツを羽織りキッチンに向かう。キッチンにはシェフの他にキッチンスタッフが三人。みんな忙しそうにしているから、会釈だけして洗い場に向かう。

 すでに洗い場は洗い物だらけで、私は早速、作業に取り掛かる。

 まず、流しにバケツを置きそこに水を張る。次にスポンジで一枚一枚洗い、汚れを落とすようにバケツにつけてから、横の自動食器洗い乾燥機――ウォッシャーに入れるトレーに並べて行く。トレーの中が食器で一杯になったら、ウォッシャーに押し込み、扉を閉めてスイッチを押す。ウォッシャーが動いている間も、次々と皿を洗い、他のトレーに置いていく。ウォッシャーが止まると、入れた場所とは反対側からトレーを取り出し、次のトレーを入れる。その繰り返し。

 しばらくすると、シェフが洗い場に来た。


「葵生ちゃん、来てくれて助かるよ」

「いえ、皿洗いしか手伝えなくて申し訳ないです」

「そんなことないよ。じゃ、よろしくね」

「はい。わかりました」


 シェフがそう言ってキッチンの持ち場に戻る。その後ろ姿を見ていたら、一人のキッチンスタッフの人と目があった様な気がした。

 その人は、長身で眼鏡をかけてて、距離が少しあってよく顔は見えないけど、私を見てた?

 顔に見覚えがあるような気がするのは、きっと以前にもこのお店に来たことがあるからで、でもシェフ以外のキッチンスタッフの人とは話したことがなくて、どうして見られているのか分からなくて首をかしげる。


「お願いします」


 ホールスタッフが下げてきた食器を洗い場のカウンターに置いていったので、キッチンから視線を外して、もう一度見た時には、その人はもうこっちを見ていなかった。

 やっぱり、気のせい?

 私は首を何度か傾げながら、置かれた食器を引き寄せて流しに置いた。




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