第9話 紅茶テイスター
ミチルが変なこと言うから――
私は憤慨しながら、床に置いた資料を順番に棚に戻して行く。今日は、久我さんが仕事で使った資料を棚に戻す仕事。山積みのファイルに囲まれ、さっきまで集中してやってたんだけど、ふっとあることを思い出して完全に集中力が切れてしまったのだ。
『社長代理ってさ、葵生のこと好きなんだね』
ミチルの言葉を思い出して頭を振って、あの夜のことを思い出してしまう。
『いい匂いするね。甘くて――食べちゃいたくなるな』
突然抱きしめられ、耳元で囁かれた甘い声。
獲物を狙う獣のように瞳を妖艶に輝かせ、魅惑的な笑みで真っ正面から見据えられ……あわやキスされそうになって――
思い出したくないことを自分で思い出して、かぁーっと顔が赤くなってくる。
その時の胸の高鳴りを思い出して、そっと胸に手を当てる。
あんな艶めかしい顔であんなことされたら、誰だってドキドキするわよ。
自分に言い聞かせるようにそう言って、鼓動を落ち着かせるように瞳を閉じた。その瞬間。
「長田さん」
急に肩に手を置かれて、私はあからさまにビクッと体を震わせて振り返る。
「あっ、ごめん、驚かせちゃった?」
事務所には私達しかいないんだから当たり前だけど、後ろには久我さんが立ってて、思わず視線をそらしてしまった。
だって、色々と思い出してただでさえドキドキしてるのに、その元凶が目の前に現れて平常心を保つことができなかったの。
「いえ……どうしたんですか?」
「少し、休憩しませんか。今日はずっと書類整理して立ちっぱなしで疲れたでしょう?」
気遣わしげに見てくる久我さん。
なんだか久我さんと顔を合わせているのが耐えられなくて、書類整理を理由に今日は棚が置かれた事務所の奥に籠っていた。だって、ここからは棚を隔てて社長席が見えないから。
だけど、ずっと立ちっぱなしで疲れたのは確かで、こうやって久我さんを避け続ける訳にもいかず……
「はい、そうします……」
そう言った私は久我さんに促され、キッチンに置かれたダイニングテーブルの席に座る。
「はい、好きな方をどうぞ」
久我さんが机の上に二本のペットボトルを置いて、そう言った。一本はマンゴーティー、もう一本は甘いココア。
なんとも甘党の久我さんらしいチョイスに苦笑が漏れる。
「じゃあ、こっち頂きます」
そう言って私はマンゴーティーを手に取り、蓋を開けて口をつけた。
実はココアって、苦手……なんだよね。
だけど……マンゴーも苦手なんだよね……私。
基本的に好き嫌いはないんだけど、南国フルーツ系って苦手で。マンゴーもあのぐにゅっとした感触と甘みと苦みが……
そう思いながらも、せっかく買ってきてくれた久我さんにどっちも苦手ですとは言えなくて、一気にマンゴーティーを飲み干した。
※
久我さんの“あの”言動に含みはないと分かっていても――どうしても、久我さんを意識してしまって、いつも以上に気まずい雰囲気のまま一週間が過ぎる。
久我さんはいつも通り澄ました顔で大量の仕事を押し付けてくるし、ちょっとのミスも目ざとく指摘してくる厳しさは相変わらずで、だけど、時折、じーっと私を見る視線を感じて体が強張った。
そんな私と久我さんの間に流れたギクシャクとした空気をほぐすためか、バイトに行くと必ず久我さんがマンゴーティーを買ってくれるようになった。
たぶん、迷わずマンゴーティーを選んだことと一気飲みしたから、私がマンゴーティー好きと誤解したみたい。
初めて飲んだマンゴーティーは想像と違って苦味はなくて、マンゴーというよりも桃のようなさわやかな味わいだった。だけど、所詮マンゴーはマンゴー……
ここははっきりと、実は好きじゃないと告げようと思ったんだけど、私よりも先に、久我さんから衝撃の真実が告げられる――
「社長は明後日から復帰することになりました。退院後、念のため自宅で療養していましたが、いい加減復帰したいと言うので、月曜日から戻ることになりました」
社長が復帰すると聞いて、私はぱっと顔を輝かせた。
「……それで僕が社長代理を務めるのは明日までとなりますが」
そこで一旦言葉を切った久我さんは、あからさまにうきうきしている私に、冷たい一瞥を投げかける。
「明日行われる赤坂店の一周年感謝パーティーの受付を私とあなたがすることになっています。明日はスーツで来て下さいね」
そう言えば、先週そんな話聞いたな……っていうか、久我さん、また不機嫌?
言葉に含まれる棘に気づいて、首をかしげる。
ついさっき、笑顔でマンゴーティーを渡してきたばかりなのに。ほんとに感情の起伏が激しいというか、久我さんの怒りポイントは最後まで謎だ。
そう思いながら、今日で久我さんと事務所で過ごすのは最後なんだから言わなければよかったのに、またまた私は余計な事を言ってしまった。
「はい、わかりました。ところで、久我さん。買って頂いてこんなこと言うのもあれなんですが、私、マンゴーティーって苦手なんですよね……」
手元を見ながら言って、久我さんの顔を見上げると、怒っている時に見せる極甘の眩しいほどの笑顔を浮かべていて――私は体を凍りつかせた。
「そうですか、それは気が効かなくてすみませんでした」
久我さんの周りには怒りオーラが全開なのに、言い方がやたら丁寧なのが余計怖い。
私もしかして、地雷を踏んでしまった――!?