第九話
「蓮、蓮っ!!」
唯那が蓮のもとに向って飛び込んでくる。
その眼には、こらえきれない涙が溢れていた。
「っ!どうしたのですか、唯那!」
唯那を受けとめながら、ただならぬ唯那の様子に息をのむ。
「なんでっ!教えてくれなかったの・・・!」
もうすぐ、無くなるんだってこと!
ああ、ついにこの日が来てしまった。出来ることなら、唯那が何も知らぬまま、ここを去れたら良いと思っていた。そうすれば、蓮が居なくなった後の唯那を、きっと泣くだろう唯那を見なくて済むと思ったから。それは、蓮のエゴに過ぎないけれども。唯那が悲しむ様を見れば、離れがたく思ってしまう。現に今、離したくないと思っているではないか。このままつなぎ止めたい。壊したくない。相反する気持ちが蓮の心を埋め尽くす。だから、出来ることなら唯那が何も知らぬまま・・・。もう叶わない願いを胸に抱き、唯那を抱く腕に力を込めた。
「細道のところに立て札があったの・・・。あと一週間で、ここを壊すって。」
立て札が・・・。いつ持ってきたのだろうか。蓮にはもう、分からない。自分の存在を忘れてしまった人達の気配を感じることは難しい。それほどまでに蓮の力は弱ってしまったのだ。
「あと、・・一週間・・・。」
ぽつりと蓮は繰り返す。
思ったよりも短い。だが、唯那の心の限界より先で良かったとも思う。
なぜなら、その場合は蓮がそこに存在するのに、唯那を切り離さなくてはならないから。
ここが消えてしまうのであれば、蓮も別の場所へ移り、唯那とまみえることは、きっと二度とない。
そのほうが想いを引きずらずに済むと思う。どちらにしても、辛いことに変わりはないけれども・・・。
「唯那・・・、これからの日を毎日会いに来てくれませんか・・・?」
これくらいなら許されるだろうか。望んでもいいだろうか・・・?なあ、健太殿。
「うん、うん・・っ!絶対、毎日来るから・・・!」
別れを感じ、悲しむ唯那のその叫びは、どうしようもなく力強く、そして、温かく蓮の心に響いた。
怖い。
自分の家に、世界に帰るのがどうしようもなく怖い。
もうすぐここが壊される。
時間がないのだ。蓮と合える時間があと少ししかないのだ。
今帰ってしまったら、二度とこの世界に来られないのではないか?
そんな不安が唯那の心を埋め尽くす。悲しみに心が悲鳴を上げる。
蓮が好きだ。
分かっている。神と人とはともに生きていくことが出来ないものだと。
それでも唯那は惹かれてしまったのだ。
たぶんその気持ちは、初めて足を踏み入れたときから始まっていたのだろう。
水に映る赤。そこに美しくたたずむ蓮に、魅せられていたのだ。
帰るときに感じていたかすかな不安。
時を経るごとに膨らんでいった。
それはまた来ることが出来るのだろうかという不安。
蓮のそばから離れていかなければならないことが、怖かった。
もう二度と逢えなくなる日が、そこに迫っている。
蓮のそばに居たい。
ずっと蓮のそばに・・・。
・・・どうすれば蓮と離れずに済むのだろうか・・・?
その日、唯那が戻ったのはすでに日が暮れた後だった。
「!」
さすがにもう帰っただろうと思っていた健太がそこにいたので唯那は息を飲む。
「待っててくれたの・・・?」
「ああ、うん。きっと遅くなるだろうと思ったから。」
暗い中、一人で帰らせるわけにはいかないしな。と健太はつぶやく。
きっとそれだけではない。落ち込んで帰ってくる唯那を心配してくれたのだ。現に真っ赤に目をはらした唯那を覗き込む目は心配であふれている。そんな健太の優しさに気付き、唯那は小さな声で「ありがとう。」と言った。
けれど、そんな健太の気遣いも今の唯那には無力で、考えるのは蓮のそばにいたいということだけ。今だって、帰りたくないと駄々をこねる唯那は蓮に無理やり帰されたのだ。蓮の意思は固く、唯那が何を言っても聞いてくれなかった。唯那が思うのは、ずっと蓮のそばに、ただそれだけだった。
翌日、学校へ着いた健太は、そこに唯那の姿があることにほっとした。もしかしたら、学校を休み、蓮の元へ行くのではないかと危惧していたのだ。昨日、戻ってきた唯那は目を真っ赤に泣き腫らし、健太が声をかけてもどこか上の空だった。それは今日も続いているらしく、千由紀の声にも「うん。」としか反応せず、心配したらしい千由紀にどうかしたのかと聞かれた。まさか、本当のことを言うわけにもいかず、
「昨日から少し具合が悪いみたいなんだ。」
と答えておいた。
その唯那から、放課後、声をかけられた。
「健太、お願いがあるの。私、学校休んで蓮の所へ行く。協力してくれる?」
唯那の目を見て思った。ああ、これは何を言っても聞かないと。
だから、健太は「分かった。」と言うしかない。そうすることしか出来ない自分に不甲斐なさを感じながら。
唯那はずっと考えていた。だけど、考えても考えてもどうしたら良いのか分からない。ただただ、蓮の所に行きたい。そのことだけがぐるぐると頭の中を駆け回る。こんなにも授業に身が入らなかったのは初めてだ。本当は今日だって学校に来ている場合ではないと思っていた。だから、健太にお願いした。健太には迷惑を掛けるけれど、きっと唯那の欠席の理由を上手く誤魔化してくれるだろう。学校を休むことには引け目を感じるが、今はそれよりも蓮のことが大切だった。
刻一刻と容赦なく時は進んでいく。
核心には触れないまま、表面上は穏やかな日が過ぎていく。
蓮も唯那もその場の空気に白々しさを感じながらも、自らこの時間を手放すことを恐れて、雑談に花を咲かせる。
唯那の頭の片隅は、蓮と離れずに済む方法は本当にないのかと答えのでない問いを繰り返し、説いていた。そして、考えていて思い至ってしまった『蓮はどうなるのか』という恐ろしい問いが出来あがっていた。真剣に考えるにはあまりに恐ろしく、唯那はそのことについて、蓮に聞くことが出来ないまま、その数日が瞬く間に過ぎて行った。
工事の日が翌日へと迫ったその日の夕刻。
それまで現実から目を背けるようにしていた他愛のない話を区切り、蓮は姿勢を正し、真剣な面持ちで口を開く。
「明日は来てはいけません。いえ、来ないでください。」
硬い表情で蓮が言う。
「どうして!?」
「危険だからです。明日、この場所は崩れます。巻き添えを食って欲しくないのです。」
「ううん、危険だっていいの!蓮と一緒にいたいの!」
「いいえ、駄目です。」
本音を言えば蓮とて明日も唯那に逢いたい。最後の瞬間まで唯那と共にいたい。しかし、それでは唯那を危険にさらすことになるのだ。それは蓮の望むところではない。
だから、
「さよならです。唯那。」
蓮は唯那を突き離した。
唯那の様子が気になり、夕方、細道へ向かった健太は細道に座り込む唯那を見つけた。
「唯那・・・?どうかしたのか?」
健太の言葉にその背がぴくりと反応した。
「健・・太?」
その声は弱弱しく響く。
「蓮に、『明日は来るな』って・・・もう、『さよなら』だって・・・」
ヒュウと唯那の喉が鳴り、嗚咽が混じる。
「それは・・・でも、明日が最後だろ・・・?」
確かに工事は明日だったはずだ。
こくりと唯那はうなずく。
「でもっ、危険だから駄目だって!・・・危なくたっていいの。蓮と一緒にいたいのに・・・。」
そうか、蓮は唯那を危険にさらさないために。
「唄が聞こえないの。呼んでも声が聞こえないの。」
閉じたのか。
唯那の嘆きを、蓮の心中を思い、健太の心も重くなる。
見上げた空は、茜色に染まり、蓮の元にある大きな鳥居を思い起こさせる。
綺麗な色なのにとても悲しい色だった―――。