紙一枚だけ
――夜、勇者は部屋に戻ってからも、しばらく考え込んでいた。
机の上には、使わなかった紙が一枚。
折り目も、インクの染みもない、ただの白。
それを無意識に指でなぞりながら、昼の境界を思い出す。
空だった文箱。
二度、確かめるように開けてしまった自分。
「……待ってたわけじゃない」
そう呟いてみても、
言葉は部屋の中で曖昧に溶けるだけだった。
文通は、返事が来るものだ。
来ない日があっても、それは不自然じゃない。
分かっている。理解している。
それでも――
今日、何も書かなかったことが、
正しかったのかどうかだけは、判断がつかなかった。
紙を前にすると、相手の文字が浮かぶ。
少し強気で、不器用で、
言葉を削りきれずに残した跡。
顔も知らない。
声も知らない。
それなのに、書こうとすると手が止まる。
(……人だ、って思ったからか)
それに気づいた瞬間、
勇者はゆっくりと紙を伏せた。
今は、書かない。
それでいい。
境界は、まだ必要だ。
守るためじゃない――
壊さないために。
♦︎♦︎♦︎
⦅魔王視点⦆
その頃、魔王の城でも、灯りはまだ落ちていなかった。
書斎の窓から差し込む月光が、床に細い線を描いている。
魔王は机に向かったまま、指先で何もない天板を叩いていた。
――来ていない。
分かっている。
勇者が必ず書く理由など、どこにもない。
それでも、
「今日は来ているはずだ」と、どこかで思っていた。
(……なぜ、そう思った)
文箱に触れていないのに、
境界の向こうの気配が、妙に近い。
返事を書かなかった。
その選択が、相手にどう映るのか。
重く受け取らせてしまっただろうか。
それとも――安堵、だろうか。
「考えすぎだ」
呟いても、胸の奥は静まらない。
魔王は椅子から立ち上がり、
部屋の隅に置かれた文箱の前で足を止めた。
蓋を開けることは、ない。
ここには何も入っていないと知っている。
それなのに、
空であることを、確かめたい衝動があった。
(……彼は、今頃)
文字から作り上げた輪郭が、また浮かぶ。
剣だこだらけの手。
少し不器用な言い回し。
真面目すぎて、逃げ場を作らない言葉。
――人だ。
それを認めた瞬間、
魔王ははっきりと理解してしまった。
文通は、もう安全な遊びではない。
だが、危険だと分かっても、切り離せない。
境界は、紙一枚分しかない。
その事実が、今夜はやけに現実味を帯びていた。
魔王は文箱から離れ、机に戻る。
紙を一枚、引き出しから取り出した。
書かない。
今日は、書かない。
そう決めたはずなのに、
ペン先は、紙の上で止まったままだった。
――返事がない夜に、
同じように、相手も迷っている。
その可能性が、
何よりも厄介だった。




