何もない日
――境界の丘は、いつもより風が強かった。
草を揺らす音が、やけに耳につく。
雲の切れ間から差す光は淡く、昼とも夕ともつかない。
文箱は、そこにあった。
位置も、傷の数も、昨日と変わらない。
勇者はしばらく立ったまま、それを見下ろしていた。
急ぐ理由はない。けれど、時間をかける理由もなかった。
ゆっくりと蓋を開ける。
――中は、空だった。
紙の白も、文字の気配もない。
木の底に溜まった影だけが、静かに揺れている。
「……そうか」
声に出す必要はなかったが、
出してしまった声は、思ったよりも軽かった。
返事が来ないこと自体は、珍しくない。
そういう日もある。
それだけの話だ。
勇者は文箱を閉じ――
もう一度、そっと開いた。
空であることを、
確かめ直すように……
――あの言葉を重く受け止めすぎてるのかもしれない。
今日も、紙は持ってきている。
それでも、文を書こうという気にはなれなかった。
相手を急かすことは、したくなかった。
――境界は、保たれたままでいい。
分かっているはずなのに……
「……どんな字、してたっけ」
ふと、そんなことを考えてしまう。
丁寧すぎない文字。
少しだけ線が細くて、
ところどころ、迷いが残るような形。
読みやすい。
けれど、整いすぎていない。
書き手の癖が、
そのまま残っている字。
――ああ。
それを「文字」だと思っていた時点で、
もう遅かったのかもしれない。
誰かが、書いている。
手を動かし、考え、迷いながら。
文字の向こうに、
意識がある。
勇者は、紙を膝の上に置いたまま、
しばらく動けずにいた。
想像しようとするな。
顔も、声も、立場も。
そう思うほど、
逆に、浮かんでしまう。
机に向かう背中。
少し丸まった肩。
書き終えたあと、深く息を吐く仕草。
それは、概念じゃない。
偶然でも、仕組みでもない。
境界の向こうで、
同じように時間を使っている誰か。
勇者は、紙を折り、
そっと文箱の横に置いた。
今日は、書かない。
書けば、
その「誰か」に、手を伸ばしてしまう。
風が、紙の端をわずかに揺らす。
境界は、まだそこにあった。
――まだ




