輪郭のない人
――夜は、城の中ほど静かだった。
玉座の間から離れた小さな書斎で、魔王は灯りを落としたまま座っている。
窓の外に広がる闇は深く、遠くで魔物の羽音が一度だけ聞こえたが、それきりだ。
机の上には、何もない。
紙も、ペンも、――言葉も。
それでも視線は、部屋の隅に置かれた文箱から、どうしても離れなかった。
空だと分かっている。
返事が届くには、まだ早すぎる時間だということも理解している。
――それでも。
たった一行を書いてしまったことが、
この静けさを、以前とは別のものにしてしまった。
「余計なことをしたな」
声に出すと、思ったよりも乾いていた。
後悔なのか、安堵なのか、自分でも判別がつかない。
あの文箱は、境界の向こうにある。
本来、交わってはいけない場所に置かれたものだ。
それを知っていながら、
魔王は今夜も、そこに届くはずのない気配を待っていた。
ふと時計を見れば、ずいぶんと時間が経っていた。
――ダメだ、政務に戻れ。
文箱のことを考えるたびに、政務に支障が出る。
政務に意識を戻そうとするが、結局、視線が向いてしまう。
「返信を待っているわけじゃ、ない……」
そう言い聞かせる必要がある時点で、もう遅いのだろう。
♦︎♦︎♦︎
相手のことを、考えるつもりはなかった。
名前も、顔も、立場も知らない。
知らないままでいると決めた関係だ。
それなのに――
文字を思い出すことは、止められなかった。
少しだけ硬い字。
揃えすぎない行間。
書き直した跡が、そのまま残っているところ。
几帳面ではない。
だが、雑でもない。
言葉を選びながら、
選びきれなかった部分も、そのまま差し出してくる。
ペンを持つ手。
力を入れすぎて、指先が白くなっているかもしれない。
書きながら、ときどき止まる。
その間、何を考えているのか。
きっと、相手も下を向いている。
机に近づきすぎて、
肩が少し丸くなっている姿勢。
そんな細部ばかりが、
勝手に浮かんでは消えていく。
――違う。
これは想像ではない。
ただの、情報の整理だ。
文字から分かることを、並べているだけだ。
そう言い聞かせても、
相手はもう「誰か」になってしまっていた。
概念でも、偶然でもない。
この時間の向こうで、同じように手を止める存在。
それに気づいた瞬間、
魔王は初めて、文箱から目を逸らした。
これ以上考えれば、
境界は、確実に近づいてしまう。
――近づいてしまう、と。
♦︎♦︎♦︎
だからこそ、あの一行が、何度も浮かんでしまう。
――あなたに会えなくなったら……
それは、少しだけ嫌だと思いました。
おそらく、これは本心だろう。
だが、こんなこと書くつもりではなかったはずだ。
たしかに、この文通の関係は楽しい。
――ほんとにそれだけなのか?
これには、何か違うものも混じっているのではないか
そんな気がしている。
でも……
もし相手が人間だったら、私はどうするだろうか、
関係を断つのか。
それとも、続けるのか……
――いや、考える必要はない。
境界は、越えてはならない。




