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緑のトンネルで

作者: 中山俊文

 

『死はさわやかな夜、

生はむしあつい昼。

はやたそがれて、眠くなる、

昼の疲れがでたのであろう。


枕辺を生い茂った木が見下ろして、

元気のいい小夜鳥がそこで

恋の歌ばかりうたうので、

夢路でさえも歌がきこえた。』(ハイネ。志田麓訳「ブラームス歌曲対訳全集」第2巻より)


 旅に出る前夜、準備がすべて整ってから男はブラームスの歌曲のCDをかけた。夜落ち着いた気分のときに男はよくブラームスを聞く。ハイネの詩による《死はさわやかな夜》の静かな中に情感のこもったメゾソプラノの歌声が心に染み込んでいった。


 六月の中旬だった。男は土日を二回入れて九日連続となる休みをとった。徒歩旅行に出かけたのだ。会社には、少し疲れがたまってきたので温泉にでも浸かってリフレッシュしてくるといった。男の上司は、

「いまはやりのリフレッシュ休暇だな」と案外気軽にこの長い休暇を認めてくれた。男は、自分が願い出ておきながら、簡単に認められたことでかえって定年が近い者の寂しさを感じたりもした。

『温泉にでも』といっておいて徒歩旅行では、日に焼けて出社することになりそうだったが気にしなかった。というより、なぜか休暇が明けて出社するときのイメージが沸かなかったのである。いよいよ次の一週間をまるまる休むという週末の夕方、同僚たちがうらやましさ半分で男の周りに集まってきた。その同僚たちには温泉ではなく徒歩旅行であることを話した。同僚たちは、

「でも温泉にも泊まるのでしょ。じゃ嘘にはなりませんよ」

「本当に疲れがたまっているのだったら、無理しないほうがいいんじゃないですか」などといったが、

「歩いている最中にぽっくり死ねたら理想的だよ。病院で長く寝たあげくに、『やけにしぶといね』なんて陰でいわれながらやっとというのよりずっといいじゃないの。みんな香典をちゃんと用意しといてよ。なんなら餞別代りに先に貰えるともっといいのだけど」と男は冗談で応えた。それから、行き先や一日にどれくらい歩くのかとか、宿はどうするのかなどと質問され、男は旅の計画を話したのだった。


 広島市とはいっても僻地のような町にある自宅を出てから四日目の夕方、男は島根県の旭温泉というところまで来ていた。三、四軒の旅館が寄り集まった山間の小さな温泉場である。男は昨夜の宿から、前に一度泊まったことがあるここの旅館を電話で予約した。そのとき以前泊まったことなどはいわなかったのだが、旅館に着くとフルネームに住所、電話番号まで書かれた宿泊者カードが用意されていた。男が驚いた顔をしていると、宿の主人は、

「一度ご利用いただいていますから」とにこにこして、

「もう足はよくなったのですね。リターンマッチですか」と親しげに話しかけてきた。

 

一月半くらい前のことだ。その時も徒歩で、連休を利用した四泊五日の旅だった。浜田まで行って日本海を見たあと、往きとは違うルートで再び中国山地を越えて広島まで帰るという計画であった。そのためには一日平均四十数キロを歩く必要があった。一泊目の千代田町の宿に着いたときすでに足の裏のマメがつぶれて血が滲んでいた。その足で二日目の四十五キロを歩ききって旭温泉の旅館に着いたときには、豆がつぶれた汁と血の混じったものが染み出して雨に濡れたスニーカーの外側までピンク色になっていた。男は、宿の玄関に座り込んでおそるおそるスニーカーを脱いだ。足の裏の指の付け根から土踏まずまでの皮が全部剥けていた。部屋に案内されたとき、男は畳が血で汚れるからとことわって、スリッパのまま部屋に上がった。

 次の日は日本海が見られるはずだったが、足の状態はもう限界に達していた。翌朝旅館の車でハイウェイバスの停留所まで送ってもらい、バスとタクシーを乗り継いで帰宅したのだった。

 男はそのときの反省に従って、一日に歩く距離を二十五キロから三十キロくらいにとどめることにした。そのペースで四日間歩いてきたが足に異常はなく、疲れが蓄積するような感じもなかった。これならあと三日間問題なく歩けるだろう。

今回の旅に、男は目的地を定めなかった。夕方早い時間に宿に着いて一番風呂に入り、ゆっくりと食事をしてから、地図で翌日何処まで行くかを決めて、電話で宿を予約するというパターンを繰り返してここまで来た。ただ、八日目に鉄道かバスで家に帰るということだけを決めていた。七日間どんなに一生懸命歩いても、乗り物を使えば一日で家に帰り着けるところまでしか行けない。休暇の残り一日は、仕事に復帰するための骨休みの日とした。

一人旅の宿では、テレビにあきたら寝るしかない。普段の生活よりずっと早寝だから睡眠時間も十分に取れる。程よい疲れで夜は熟睡できるだろうと思っていた。

だが実際にはこの三晩、寝苦しい思いをした。蒸し暑い夜が続いたせいだと男は思った。

 明日は五日目。浜田までは楽に行き着ける距離である。いよいよ中国山地を横断して、日本海が見えるところに到達する。前回目前にして断念した区間である。そう思うとこの成り行き任せの旅にも小さな目標が生まれたような気がした。浜田駅前のホテルが予約できた。

 この夜、男は軽い胸痛を覚えた。胸痛は過去にもあって、医者に見てもらったことがある。五年くらい前のことだ。医者からは、『いますぐどうということではないが、狭心症や心筋梗塞に気をつけるように』といわれていた。それからも胸痛はときどきあったが、いずれも軽いものであった。この日も間もなくおさまり、いつの間にか眠りに落ちていった。

 

 その夜夢を見た。

男は、教室で生徒達に冬休みの注意をしている。そのとき優等生の女の子が立ち上がって、

「先生、これ出さなくていいのですか」といいながら大きな賞状のようなものを高く差し上げて見せた。それは学期末に集めることにしていたものだが、そのことを男はすっかり忘れていたのだ。しまったと思ったが顔には出さず、

「そう、持ってきた人は出しなさい」とみんなにいった。女の子は両手いっぱいに提出する物を抱えてきて教壇の机の上に置いた。するともうひとりやはり優秀な女の子が同じように一抱え持ってきた。男は提出されたものを重ねなおした。

 勉強はあまりできないが、目が大きくて背が高く人懐こい女の子や、いつもニコニコ顔の背が低くてすばしこい男の子が、こっちを見ている。だが提出する者はもういなかった。

生徒たちはいつのまにか教室ではなくて、グランドに並んで男の指示を待っている。男は二階のポーチにいる。そのとき、休憩時間のチャイムがなったのでしばらく自由にさせておくことにした。これで少し時間が稼げる。男は部屋の中に入った。部屋の真中にある大きなテーブルの上には、乱雑に広げられたままのたくさんの新聞などに混じって、先ほど二人の女の子が提出したものが積まれている。男はあらためてそれらを調べた。百メートル走記録証、またそれとは別の記録会の賞状、計算練習の答えが書いてあるメモの束。紙の両端に丸い穴が並んでいるコンピューターの記録用紙に、膨大な数の計算問題が解かれているもの。どうやらこれは優等生の女の子のものだ。彼女の家は酒屋だからこのような用紙があるのだ。提出されたものは大きさも形もばらばらで、どれが誰のものかさえわからなくなっていた。

 午後一時の時報が聞こえた。休憩が終わる時間だ。ポーチに出てみると、男のクラスの生徒達はもうグランドに並んでいる。しかし、人数が揃っていないようだ。並んだ列の長さがさっきの半分くらいしかない。グランドの端から始まっている林の奥から、あるいはコンビニのような店の方から、そして何処からともなく三々五々と生徒たちが戻ってきている。でもそれらは男のクラスの生徒ではない。男は、ポーチの手すりから身を乗り出して、自分のクラスの生徒が戻ってきていないか見ようとした。男のとなりで若い男が同じように身を乗り出している。以前男も所属していたアマチュアオーケストラでトロンボーンを吹いている音楽仲間だ。あまりにも身を乗り出しすぎて彼の足は床から離れている。男は危ないからやめるようにいったが、若い男はいうことを聞かず幅の狭いポーチの手すりに、なんと外側に足を出して腰掛けているではないか。男はびっくりして、

「やめなさい」と叫んだ。だが喉がかすれて声が出ない。彼はさらに尻を外側に浅くずらせた。そして足を伸ばすと届きそうなところに停めてあった、黄色くて天井の高い車の屋根に降りた。彼は少しだけ開いていた窓の隙間から運転席に滑り込むと、威張ったようにそっくり返った姿勢でエンジンをかけた。下唇を突き出した彼の得意そうな顔が、男には自分を小ばかにしているように見えた。やがて彼は車を走らせてポーチの下の広場をぐるぐると三回廻った。それがすむとまたするするとポーチに戻ってきて、今度は危ない真似はせずにおとなしくしていた。

若い男が自分の注意を無視して勝手な振る舞いをした一部始終を、グランドに並んでいる生徒達に見られたことで、男は大いにプライドを傷つけられた。

 生徒が揃ったようなので、男は最後の連絡をすることにした。二人の女の子が提出したのと同じようなものを、休み明けに忘れずに持ってくるよう指示するのである。それには、すでに提出されたものをみんなに示しながら説明するのがわかりやすいと考え、部屋に戻ってテーブルの上に乱雑に広がった提出物をかき集めた。しかし、形や大きさや厚さがまちまちなので、何度やってもある程度抱え込むとばらばらと手から落ちてしまう。それらをつかむだけの力が手に入らないのだ。それにテーブルの上には、提出物以外にもたくさんのものが置いてあって、どれが何なのかも判然としなくなってきた。そうしている間にも、いたずらに時間が経つ。生徒達が辛抱強く待っているかどうか気になってしかたがない。それよりも、その指示以外には生徒達に何もいうことがない。まだ午後一時だ。こんなに早く生徒を帰してしまっていいのだろうか。よそのクラスは、みな静かに教室に入って何かしている。男のクラスの生徒だけが、寒いグランドに並ばされたままである。その様子はおそらく他の教室からみな見えているだろう。しかし男は授業の準備を何もしていないし、生徒にも何の準備もさせてこなかった。

 この様子を見かねた他の教師が男のクラスの生徒に体育の授業を始めたようだ。男は部屋にいるところを見られないようにカーテンの陰からそれを覗き見た。どうやらサッカーをさせようとしているらしい。生徒達に手伝わせてゴールポストを準備したりしている。男は急いで、生徒に説明するためのものをまた探し始めた。

やはり一時過ぎに生徒を帰らせてしまうのはまずい。男のクラスだけがそんなことをすると、他のクラスの生徒達が文句をいう。父兄も文句をいうだろう。すでに何人かの父兄がグランドの縁に立って、自分達の子供が担任ではない教師に埋め合わせのような授業をされているのを怪訝そうに見ている。

 男はあせったが、いまさらのこのこ出て行くわけにもいかない。それでどうしても手が離せない仕事にかかわっているといった風を装うことにした。男はいらいらしてきて、そばでふとんをかぶって眠り込んでいる妻を起こそうとして揺すった。妻はなま返事をするだけで目を覚まさない。

 どうやって三時ごろまで生徒を学校に引き止めておけばいいのだろうか。男は今日生徒に成績表を渡さなくてはならないことを思い出した。だが成績表などまったく作っていない。だいいち成績をつけるためのデータが何一つ採れていない。男は二学期のあいだ一度も学校に来なかったので、職員室の自分の席がどこかさえもわからない。いま他の教師がやってくれている体育の授業をのぞき見て、成績をつけようと考えた。男は、誰が一生懸命ボールを追い、誰がぶらぶらしているか、また走るのが速いのは誰かを見わけようとした。しかしそんなことをしても、二学期の全部の成績などつけられっこない。

男はこの出口のない窮状をご破算にして、一から真面目に出直したいと思っていることをわかってもらおうとして職員室のみんなを見回した。男は、痛々しく皮が剥けて血が滲んだ足の裏をタオルで拭った。それを見て、みんなが同情してくれると思ったのだ。だが男の存在に気付く者すらいない。

そのころクラスには、男に反発する女子のグループができていた。しかしあの子だけは、けなげにも反発グループに超然とした態度で学級委員の任務を果たしていた。学級委員として担任との連絡などをしているだけなのに、『先生の味方をする』といっていじめられることもあった。それでもいつも毅然としていた。あの子だけは自分を理解してくれていたのだ。そう考えると、男は少し気分が楽になった。凛とした眼差をしていたが、子供らしいふっくらとした頬に産毛が金色に光って美しかった。名前はたしかYというのだった。いや違う、Nだったか。あっ、そうだ、Aだ。いや、やっぱりYだ。でもYは、別の学校に転勤してから受け持った生徒だったかも知れない。もう一人背の高いYという名前の子がいなかっただろうか。ふっくらした頬の子というのは、生徒ではなく会社の研究室の助手だ。男は混乱してきた。映像が白っぽく霞んで消えそうなのだ。男はわけがわからなくなって、川を見下ろす土手にひとりで腰を下ろして泣いていた。

 

 五日目の朝、男は目が覚めたとき自分が泣いているように思ったが、現実には泣いてもいなかったし枕も濡れていなかった。だが一晩中夢を見ていたような気がした。外を見ると濃い霧が立ち込めている。朝食をとりながら夢のことを考えた。後味の悪い夢だった。

男が小学校の教師をしていたのは二十年以上も前のことだが、いまだにこのような夢を見ることがあるのだ。


朝食をすませて旅館を出発するころ、霧は晴れはじめて薄日が漏れていた。梅雨時とあって、家を出てから初めの三日間は雨に降られたが、きのうあたりから梅雨の晴れ間に入ったようだ。浜田駅までは二十三、四キロ、『今日も余裕がありそうだな』と男は思った。

 出発してすぐ、とびが一羽男のすぐ前の道路に降りていた。男が近づくと、びっくりするほど大きな羽音を立てて飛び立った。とびは一旦上空に舞い上がると、羽を動かすこともなく長い間ゆうゆうと尾で舵を取りながら滑空した。しばらく上空から男を見下ろすように旋回していたが、やがてどこかに飛び去った。

 男は、道端に咲いている宵待ち草の黄色い花びらの汚れなさに惹き付けられて、しばらく眺めた。男は菜の花の心が浮き立つような黄色が好きだったが、菜の花より淡い宵待ち草の黄色もなかなかのものだと思った。近づいてよく見ると、花びらは透き通るように薄い。

「お気をつけて」前から来たマイクロバスの運転手が男に声をかけた。いま出てきた宿の主人だ。客をどこかに送ってきたのだろう。

主人の快活な声に送られて、男は背筋を伸ばして歩き始めた。


 浜田に向かって歩きだす前に、男は寄り道をして地元の歴史資料館というのを見ていくことにした。すぐ近くだと思ったのだが二十分もかかった。資料館は蔵のような建物で、大きな扉が重々しく閉まっていた。扉に『見学を希望する方はインターホンで教育委員会まで連絡して下さい』と小さな張り紙があった。これを見て男は面倒くさくなり、資料館見学を諦めた。

 無駄足のせいもあって、なんとなく全身が疲れているような気がしてきた。特に荷物が重い。今朝宿で量ったら十キロであった。たった十キロがこんなに重く感じられるのかと、男は自分の非力が情けなかった。


 三年ほど前に自社製品の説明のため重い荷物を背負って南アルプスの山中の現場に行ったときのことを男は思い出した。

予定では目的地まで車で行けるはずであったが、途中に崖崩れで車が通れないところがあり、そこから先はめいめいが荷物を担いで歩くことになった。もともと現場はトンネルの中で、そこでは荷物を担いで入らなければならないことがわかっていたので、各社みなそのような準備で来ていた。それが現場よりずっと手前でも役に立ったのである。

崖崩れの現場では、崩壊した道路を迂回するために急な斜面を一旦谷底まで降り、再びがけ崩れの先の道路まで登っていく。男が荷の重さによろけながら歩いていると、たまたま小さな荷を背負っていた体格のいい若者がひょいと男の荷物を引き取って代わりに担いでくれた。男は小さい方の荷物を持とうといったが、若者は何でもないからと両方とも担いで歩いた。

 急な坂を力強く登っていく若者の後ろから、男は荷物もないのに息をぜいぜいいわせながらついていった。前を行く若者の尻から腿にかけての筋肉の逞しさと、肉体の充実が羨ましくもまぶしかった。その若者ほどではないにしても、自分にもそのように肉体の充実した時期があったと思った。年令が男から有無をいわさず肉体の充実を削ぎとってしまったのだ。そのとき男は五十五才であった。


 金城町に入ると道路わきに大きな観光案内板があった。『浜田へ十一キロ、旭へ十二キロ』男はこの日の行程の半分来たことを知った。『カチューシャかわいや、新劇の父島村抱月生誕の地、金城町』と書かれた案内板が目に付いた。

 十二時を少し過ぎたころ、運よく昼食の店に行き当たった。店員は年配の女性一人で、他に客はいない。出された熱いハブ茶が美味しくて、ガブガブと立て続けに三杯も飲んだ。男の額から玉の汗が噴き出した。

「これと、これと、これくらいだね」と、メニューを見ている男のそばに来た店員がその時間帯に出来るものを指定した。男はいわれた中から冷やし中華を頼んだ。出来てきた冷やし中華は、予想したよりもずっと美味しかった。食べ終わってもう一口ハブ茶を飲んだとき、男は吐き気を催したが二、三分じっとしていたらおさまった。ずっしりと重い荷物を担ぎ上げて出発した。


 しばらく歩くと人里から離れた山あいの道になった。山といっても周囲は低い丘陵地帯で、いかにも海が近い土地に来たという感じである。男はカーブにさしかかるたびに、これを曲がると前方に日本海が見えるのではないかと期待した。そう思いながら男はいくつカーブを曲がったろうか。どこまでいっても、その先には同じような丘陵の中の道が続いていた。

 道の前方にとびが降りていたが、男が近づいたので飛び立った。地面すれすれに飛んでから、向きを変えて男の方に向かってきた。とびは男をかすめるようにして上空に舞い上がった。自分を狙っているのかと男は不安になった。間近に見ると、目の鋭さといい羽を広げたときの大きさといい実に立派な鳥だ。とびは男の頭上をしばらく旋回してから飛び去った。

 男は歩く速度を緩めた。動悸と微かな胸痛が余韻のように持続している。このまま歩きつづけるか、少し休んで様子を見て、場合によっては旅を中止することまで考えた。これまでは朝出発のころ少しだるいと感じることはあっても、歩いているうちに調子が出てきた。しかし、今日は時間とともに体調が下降線をたどっている。体全体のエネルギーがどんどん抜けていってしまうような感じなのだ。

 歩くのを止めるにしても、この道はバス路線ではない。公衆電話も人家もない。浜田駅の辺りまではまだ二時間以上かかるだろう。そんなことをあれこれ考えながら歩いているうちに、緩やかな峠にさしかかった。両側は高い木々で、道は緑のトンネルになって木漏れ日がキラキラしている。男は立ち止まって上を見上げた。逆光線に木の葉の若い緑が輝いている。前方から車が来て、道端の草の綿毛を巻き上げた。車を見たとき、男は手を上げて止めようかと考えたが、決断できないでいる間に車は通り過ぎていった。巻き上げられた綿毛は空中に浮かんで日の光を受けながら、男の顔にも降りかかってきた。

男はリュックサックを降ろして道の縁の石に腰掛けた。

『それにしても今日は荷物がこたえる』男はリュックサックの紐が当たるあたりをさすった。肩だけでなく、首から背中にかけて広い範囲に痛みが広がっていた。その痛みは紐で擦れたためではなく、背中に肉離れでも起こしているのかもしれないと思った。肩を回したり上下したりしても楽にならない。胸を張るような姿勢をとると肋骨の辺りも痛む。男は昨夜胸痛があったことを思い出した。

『今晩風呂でゆっくり体をほぐそう』

男は、ペットボトルを取り出して、飲み物を口に含んだ。買ったときの冷たさはなかったがレモン味が美味しかった。一息ついてからあらためて周囲を見渡した。青空と木の緑のコントラストが見事だ。緑色には随分いろいろな種類があるものだと思った。

 男は、自分の家から遠く離れたところに一人でいることを強く感じた。日常のいろいろなこと、知っている人たち、それらすべてと無縁のところにこうしてたった一人で木漏れ日を受けて座っている。ぼんやりと緑を見、鶯が鳴き交わすのを聞いている。男は、とびの声を聞いた。今日はとびがずいぶん何回も自分の近くに飛んできたと思った。

男の頭を、『これが自分のみる最後の風景なのかも知れない』という思いがよぎった。


 胸のあたりにコトンと衝撃のようなものを感じて、男はつばを飲み込もうとしたが、のどの奥が乾いてへばりついたようになって飲み込めなかった。逆光線に光る緑と、青空と、まぶしい日の光がごっちゃになって降りかかって来たと思った。男はとびがゆったりと舞っているところに落ちていくような気がした。頭のそばでドドドッという地響きのような音が聞こえ、遠くでは相変わらず鳥のさえずりが聞こえていたが、それらはすぐにフェードアウトするように真っ白い中に消えていった。

男が倒れた直後に通りかかった車が救急車を呼んだ。救急車が来たとき男はすでに死出の旅についていた。


 自然の中に命が溶けこんだような最後であった。(完)


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