榊の彼女
「私の実家は神社だったの」
榊原栄子は、じっとりとした夜風を頬に受けながらそう語った。
海を見下ろす公園の手すりをなぞりながら、僕はそうなんだと言った。
「だから私の父は神主。家の戸口のそばには大きな榊の木があって、父はいつも、あなたが今手すりにしているように、その榊の幹を撫でていたわ」
「僕は撫でているんじゃない、なぞっているんだ」
「そうね。父も榊に自分をなぞらえたかったのよ。お堂に向かって、榊の枝を振りかざしながら、『私をこの榊の枝にして下さい。人の身の不浄から救って下さい』って」
僕はそうなんだ、変わっているねと言った。そう、変わっているの、と言って彼女は続けた。
「ある日、お堂の前に榊の枝が放りっぱなしになっていたわ。まあ、父にしては珍しいと思って、枝を拾って花瓶に入れておいたの。でもお菓子を取りにお堂のある部屋を横切ったら、またそこにあるの。おかしいなと思ってまた、花瓶に戻すじゃない。それから父と母と食卓を囲んだんだけれど、父の様子がおかしいの。しゃべらないし、妙にすっきりした顔をしているし、機械みたい、というより、植物みたいだった。ご飯を少し食べたけれど、あんまりすすまなくて、お茶を口にしたら『何と、不浄な』って言って、お茶を置いて、花瓶の水を飲んだの。それからすぐに立ち上がって、一晩中、祝詞をあげ続けたわ。榊の枝は、その日から何度花瓶に戻しても、お堂の前にまた現れるから、もう放っておくことにしたわ。そのうち父がお堂の前に花瓶を置いて、そこに榊を挿しておくようになったわ。そして父は食事をほとんど摂らなくなった」
「それって……」
彼女は頷いた。
「父は榊の枝と入れ替わったの。聖なる清らかな身に生まれ変わったのよ」
僕の目を見てそう言った彼女は、再び海の方を向いた。
「私は、できない。私は、榊になることを許されるほど、父のように清らかじゃない。女だし。でも、私はせめて榊の木に身体と心を侵入されて、清められたい。榊の木の聖性で洗われたい」
「そんなことどうやってするの」
「私を殺して」
「できないよ。嫌だよ」
彼女は僕の肩を掴んで、僕の目を自分の目で捉えた。
「私を殺して、どこかの森の榊の木の下に埋めて。私は榊に取り込まれて、榊が永遠に私を清らかに保ってくれるわ」
「僕、捕まっちゃうよ」
「罪を償い終えたら、私を埋めた木のところまで来て。そして枝を一つだけ手折って、家に持ち帰って。あなたの人生は私が守り続けるから」
僕はその場で持っていたハンカチで彼女の首を絞めて殺した。ずるずる引きずって車の後部座席に運んで、ネットで榊のある森か山を探して、必死になって懐中電灯で木の葉を照らして、榊かどうか確認しながら血眼で木を探した。彼女を車に積むとき、向こうの車線に赤い車が一台通った。いつもトランクに積みっぱなしにしてあったシャベルで彼女を木の下に埋めて、車のある道路に戻ると、パトカーが横に停まっていた。僕は手錠を掛けられて、逮捕された。僕は「彼女に振られたから殺した」と言った。六年と三か月後、僕は刑務所を出た。その足で彼女がいる榊の木のところまで行って、枝を一本手折った。見上げると、彼女が高い枝に腰かけて、子供のように無邪気に笑っていた。僕は「ついてくるよね?」と聞いた。彼女は血色の良い顔を見せながら頷いた。
僕は実家に帰って。彼女を白い陶器の、薄く幾何学模様の入った花瓶にいけた。しばらくしてから中堅どころのデザイン会社に就職した。二年くらい経ってから勉強がしたくなって、両親に大学に行きたいと言ったら、許してもらえた。それから十年後は大学の助手をしていた。仕事は楽しかった。優しい妻も嫁いでくれた。僕の犯した罪が問題になることはほとんどなかった。僕が妻と一人娘と暮らす新築の家の玄関の靴箱の上、聖なる彼女はそこに居続けている。