私と落語を 4話
――夕暮れに染まる小さな公園の小さなベンチの上で、彼女の唇があたしの耳元で囁く。
「末広さん、私と落語をしよ?」
その言葉を聞いて、あたしは『落語』という呪縛が、またもこの身に纏わり付いてきていることを思い知った。お前は落語から逃げることなんてできないのだと、そう言われている気がした。
それにしても――落語とは。
どうしてそんな言葉が思川さんの口から出てきたのかが判らなかった。もしかしてあたしが二ツ目の落語家ということをどこかで知って、からかっているのだろうか?
いや、わざわざ東京から離れた栃木県の高校にまで進学したのだ。あたしが月島亭の人間であることを知っているのは、一部の教員だけであって、そんな機密事項を、転校一日目のこの子が知っているとは思えない。
ひとまず崩れていた体勢を立て直しつつ、彼女の胸を強く押しのけた。
「意味が分からないわ」
「あいたっ」
すると小さく悲鳴を上げて、思川さんは体勢を崩す。
それでも、あたしは彼女に頭は下げなかった。状況は未だに掴めていないが、このままこの子のペースに呑まれていてはならないと、あたしの勘が言っていた。
思川さんは、あははと困った風に笑って、あたしに突かれた胸元をさすった。
「ごめんね、突然こんなこと言って。そりゃビックリするよね、急に落語しようだなんて言われたら」
「いえ、悪気ははないってことは、こちらにも伝わったわ。けれど、よければもう少し詳しく話を聞かせていただけるかしら」
「うん。まず落語というのは日本の伝統芸能の一つでね、そのルーツは豊臣秀吉に遣えた一人の御伽集だと言われていて――」
などと見当違いな解説を始めた思川さんを、あたしは「ストップ」と言って制した。
「落語がどういったものなのかという事くらいは、まあ、知っているわ。あたしが尋ねたいのは、どうして思川さんがあたしにその、落語をさせたいのかということなのだけれど」
「ごめんごめん。私が末広さんを誘ったのはね、あなたのその堂々とした姿勢や、流れるような滑舌が、落語を演じるのにぴったりだと思ったからなんだ。ほら、末広さんってすごいかっこいいから」
「そ、そう・・・・・・そういうことだったの」
「うん!」
と、元気に頷く思川さん。
その素直そうな反応を見るに、どうやらあたしが月島亭小雛であるということは知らないらしい。そのことについては一安心したが、思川さんがあたしを見る目が普通と少し違っていた理由の方には肩を落とさざるを得ない。
この身を蝕む落語の病は、完全に抜け切ってはいなかったらしく、見る人間によっては良くない方向に印象を持ってしまうようだった。
落語にぴったりな人間だなんて、絶対に思われたくない――なんとか誤魔化さなければならない。
「あたしに落語だなんて無理よ。落語ってあれでしょう、長い話をいくつも暗記しなければいけないのでしょう」
「そこは大丈夫! 短い演目だって沢山あるし、それに末広さん、学校の設備の細かなところだって全部憶えてるくらいだし、記憶力は充分あると思うよ! 私と一緒に始めようよ『落語部』をさ!」
「ら、落語部!?」
何だそれは――聴き慣れない日本語に、あたしの声が思わず裏返る。
大学なんかでは『落語研究同好会』縮めて『オチケン』なんてものがあるそうだが、あたしたちの高校にはオチケンはおろか、落語部だなんて変な名前の部活動は無かった筈だ。
「そんな部活動はないと思うのだけれど」
「うん。だから作るの! 今日先生に聞いたんだけど、予算を必要としない部活動なら三人以上の部員が集められれば部活動として設立できるんでしょう? だからあと一人入ってくれる子を探せば、落語部の設立は待ったなしなんだよ!」
「確かに校則としてはそうだけれど・・・・・・というかあれ? もしかしてだけど、その勘定にもうあたしが入っていないかしら?」
「え? ここまで話を聞いてくれたということは、すでに入る気満々なんじゃ・・・・・・」
「馬鹿を言わないで頂戴! 落語だなんて今どき有り得ない。ナンセンスよ。というか思川さんは落語のことをきちんと理解していないでしょう!」
つい大きな声を出してしまう――しかし間違ったことは言っていない筈だ。
しあkし思川さんはそんなあたしの剣幕には動じることもなく、一度脱ぎおろしたブレザーをまた着直してから、あたしに向き直った。
「私がどうしてさっきあのタイミングでこの上着を脱いだか、末広さん分かる?」
「そ、それは・・・・・・あたしを誘惑しようと企てたのでしょう」
「誘惑? あははっ、違うよ。末広さんてほんとーに面白いね」
こちらとしては真剣に回答したつもりだったが、思川さんは冗談として受け取ったらしい。微笑みながら彼女は話を続けた。
「あのね、落語を観たことない人が知らないのも無理はないことだけど、落語家の人ってね――『本題』に入るときには上着を脱ぐんだよ」
「・・・・・・」
「知らなかったでしょ~? 私は落語好きだから知ってるけど」
ムフ~、とドヤ顔で胸を張る思川さんを見て、あたしは言葉を失った。
落語でかける演目はおよそ三つのパートに分けられる。高座に上がってはじめに話すのが『枕』と呼ばれるパート。その日にかける演目に関わりのあることを含ませた話を観客に披露し、場を暖めると同時に寄席の雰囲気を纏め上げ、スムーズに『本題』に移ることが目的のものである。
そしてこの『本題』というのが落語における肝心要の物語パートのことで、主に登場人物のセリフの掛け合いによって進行していき、落語を落語足らしめるオチであるところの『サゲ』まで持っていくことで、一つの落語が完結するということになっている。
はじまりの『枕』
それから続く『本題』
終わりの『サゲ』
この三つで落語が成り立っている中で、芸の見せ所となる『本題』に入る際には、落語家が着ている羽織を脱ぐことが多い。噺家が羽織の紐を緩め始めるだけで、多くのファンは喉を鳴らして本題の導入を見守る。
どうやら彼女はこの落語家の身振りを意識して、『落語部への勧誘』という本題へと入ったらしかった。
アホなのか?
というかむしろ、アレに至るまでの全ては彼女にとっては、枕噺でしかなかったのか。
気の良い友人ができるかもと浮かれていたあたしは、弄ばれてしまっていたことになる。なんならむしろこれから、(ある意味)枕が始まるのかと思った程だ・・・・・・。
一流の噺家は『枕』で観客の心を掴むというが、それならこの子は随分大した噺家である。
そんな『大した噺家』である少女に、私は訊ねた。
「貴方は落語が好きなのね」
「うん! 小さい頃にちょっと色々あって落語を観ることになってね。そのときの落語で凄い感動してから、すっかりハマっちゃって。だから学校の皆にも、そんな落語の素晴らしさを広めようと」
「感動――ね」
満面の笑みで応えた彼女のその言葉を、しかしあたしは認めることができなかった。
「そう・・・・・・落語で感動。結構じゃない。でもそれが何? 感動したから落語を自分もやってみたくなったという訳?」
言葉が、セリフが、すらすらと口から飛び出していく。あたしはどんどん強くなっていく語気を緩めることなく続けた。
「はっ、笑えない話ね。落語部だか何だか知らないけれど、そんなちろっと齧る程度の付け焼刃の落語を身に着けてどうしようっていうの?」
キツい言い方にはなってしまうが、あたしはこれを言わずにはいられない。
これを話さなくては、過去のあたしの――月島亭小雛の決意は報われない。
見遣れば、思川さんは静かに俯いて、その手を微かに震わせていた。構うことなく、あたしはなおも言葉を紡いだ。
「あたしは貴方とお友達にだったらなってもいいわ。というかなりたい。でもね、その落語部とかいうおべんちゃらに付き合わされるのは真っ平御免被るわ! 『し』と『ひ』の区別がつかなくなるのはもう嫌なのよ! それに小さい頃に見た落語なんて『寿限無』とか『饅頭怖い』とかどうせその辺でしょう? どこの落語家が演じたのを聞いたのだか知らないけれど、今どきの若者が落語なんて聞いて素晴らしいだなんて思うわけがヴッ!?」
ごっ、と。
大弁舌を繰り広げる私の首に、思川さんの小さな握りこぶしがヒットした。
「けほっ、けほっ」
不意に訪れた衝撃に思わず咳き込む。殴った当人はと言えば、眦に涙を浮かべながらこちらを睨んでいた。
「――うるせーーっ! 落語を馬鹿にするな! 末広さんは本当の落語を観たことも聞いたことも無いからそんなことが言えるんだ! このどてかぼちゃ! すっとこどっこい! あんにゃもんにゃ!」
「けほっ・・・・・・あ、あんにゃもんにゃって何よ」
「そんなの知らないよ! 馬鹿ぁ!」
そう叫んで、彼女は走って公園を去っていった。ずんずんと小さくなっていくその後ろ姿を、私はいつまでも眺めていた。
キラキラとした新学期がスタートするかもと思っていたのも束の間、蓋を開けてみればど突いたり殴られたりと、かなり過激なボディランゲージの応酬を繰り広げる一日となってしまった。
時計を見ると短針は六つを僅かに過ぎていた。春の日はまだ短く、辺りはもう真っ暗だった。
打たれた首元をさする。
あの子、泣いていた。
少し言い過ぎたかもしれない。
しばらくこの痛みは、引きそうになかった。