私と落語を 2話
どこか、ココではないどこかに行こうと思い、あたしは栃木県の高校に進学をした。場所が変われば何かが変わると思った。勉強しかすることのない中学生時代に蓄えた学力のおかげで、進学先には困らなかった。
栃木県に通うに際して、両親からの許可は得なかった。グレていた訳ではない。現在も両親とは一つ屋根の下の寝食を共にしているし、母とは挨拶くらい交わしている。
許可もされなければ、反対もされなかったのだ。
子どもに無関心な父と、そんな男に黙って付き従う母は、あたしが都外の高校に進学することを告げたときも僅かに頷くだけで、喜びも、驚きもしなかった。
新幹線が停まる街の高校を選んだので、登下校には不自由をしなかった。多少の早起きは必要だったが、聞けば部活の朝練をしている生徒の方が、あたしよりも早い時間に起きているそうだ。
暗く寂しい『ココ』ではないどこかに行ければ、何かが変わる気がしていた。けれど、すでに入学した一日目で、結局あたしは浮き始めてしまっていた。
片田舎の寂れた秘境かと思われていた栃木県小山市も思ったより寂れてはおらず、他のクラスメートたちも皆あたしと変わらない普通の高校生に見えた――その慢心がいけなかったのかもしれない。
あたしが他の普通の高校生と同じな筈がないのだから。
何といっても、入学式が終わって直ぐの、隣の席の生徒から声をかけられたときの、あのやりとりが重大な失態だった。
『あの、す、末広さん』
『はい』
『よかったらライン交換しない?』
『ライン? ああ、御免なさい。あたしスマホ持っていないのよ』
『え・・・・・・、そ、そうなんだ。ごめんなさい』
それ以降、彼女があたしに声をかけてくることはなかった。
さすがにヤバいと思ったあたしは、下校してすぐにガラケーからスマホに機種変更をした。幸いその程度のお金だったら余裕で工面ができた。
後から知った話だが、ガラケーでもラインはできたらしい。
そしてこれも後から知った話だが、高校生はおろか中学生でも未だにガラケーを使っている人は少し『変な人』らしい。
ラインをインストールすると、スマホの連絡先と情報を同期したらしく、『友だち』の項目に数十人分のアカウントが表示された。驚くことにその中に未成年は一人もおらず、試しに計算をしてみたらあたしの『友だち』の平均年齢は五〇歳だった――これはマズい、そう思ったあたしは、一刻も早く同じクラスの彼女らと連絡先を交換しなければいけないと、やにわに焦りを覚えた。
その焦りはのべ一年もの間、形をびたと変えることなく、ただの焦りのままだった。
今どきの若い子にどう接すればいいのかが分からないあたしは、誰かに話しかけることができず、クラスメートたちもまた、そんなあたしの高校生としてのぎこちなさを感じ取ったのか、話しかけてくることはなかった。
独りでのテスト勉強、独りでの学園祭、独りでの体育祭、独りでのお昼休み・・・・・・。
蓋を開けてみればあたしの高校生活は、中学生時代のそれをそのままなぞっているかのような孤独で満ち満ちていた。
あたしが二年生に進級する頃、ラインの『友だち』の平均年齢は、ものの見事に五一歳になっていた。
そんな折に彼女は現れた。
*
四月六日。履き慣れたローファーをけたたましく打ち鳴らしながら、私は神鳥谷高校に向かって走っていた。校門に向かう道路の脇を、ソメイヨシノがその花弁をめいっぱいに咲き誇らせている。一年前この高校に入学したときには心打つ景色だと感動したものだが、息を切らし制服の内を汗で湿らせながらでは、この絶景もただ目にうるさいだけだった。
本当についてない。
何度も心の中で呟く。新学期早々、電車が遅延するだなんて本当についてない。新幹線を利用しているのはこの高校で私くらいのものだろうから、他の生徒らは皆定刻通りに席についているのだろう。
腕時計を一瞥する。丁度ホームルームが始まる時刻――つまりは遅刻が確定した瞬間だった。電車の遅延だから、成績としての遅刻扱いにはならないだろうけれど、新学期の初めの授業を遅刻したとなれば、悪目立ちをすることは必須に思えた。
「申し訳ありません、電車の遅延で遅れてしまいました」
教室に入り、開口一番に謝罪と説明をした。教室中の視線が皆私に集まる。注目を浴びることには慣れていたし、特別たじろぐことはない。後は落ち着いて自分の席に着くだけ――そう思っていたあたしは、教壇に立つ一人の女子生徒と一瞬目が合った。
その女子生徒というのが、思川柳子だった。
「でさー」
「うそー、ウケる」
思川さんは、転入した初日から即効でクラスに溶け込んでいた。他の生徒だってクラス替え直後でまだ周りと馴染めていないだろうに、思川さんはそれこそ青春ドラマの主人公のようにクラスの中心で場を回していた。
思川さんは気さくで愛嬌があって、周りの子たちとのどんな話題にも乗っていける――一人ぼっちの毎日を送ってきたあたしの、それはまるで理想のような姿だった。
「末広さん、だよね? もし良かったら私にこの学校を案内してよ!」
だから、思川さんからそのような申し出があったときには随分と驚いた。すでに沢山の友人が出来ている彼女が、どうしてクラスの日陰ものであるあたしなんかに、そう思いつつも、あたしは提案に乗った。
「別に構わないけれど」
「ほんとに? ありがとう!」
思川さんはあたしの手を両手で握ると嬉しそうにぶんぶんと振った。唐突なスキンシップにあたしは面食らう。人と手を握るのなんて、一体いつ以来だろうか。
いつまでも手を握られていては平静を保ち続けていられなさそうだったので、あたしはとっとと校内をアテンドすることにした。
「ここはどんな授業で使うの?」
「末広さんはどんな本が好き?」
「大きなプール!」
「うわっ、暗っ、熱っ、え!? ここはどこなの!?」
こちらの紹介に合わせて、思川さんは一つ一つ多種多様な反応を見せてくれた。それは丁寧なコミュニケーションというよりは、どちらかというと思ったことを全て口に出しているかのような即興さを感じさせて、好感が持てた。
段々と分かってきたことだが、彼女は何をするにしてもそこに自信が滲み出ていた。そのカラっとした雰囲気が、親しみやすさを生んでいるのだと思う。
だから、自分に自信の持てないあたしとは正反対だと感じたのだ。
思川さんと自分との明暗差を思い知り、沈み行く心境が彼女にバレてしまわないようにと、かけ足で校内施設を紹介していった。
「こんなところかしら」
「ありがとう末広さん。それにしてもボイラー室への入り方なんて、よく知ってたね・・・・・・」
さすがに転校早々で色々なものを見させられたからか、思川さんはぐったりと疲弊していた。ボイラー室も校庭端のトイレも、あたしには用のないものばかりだが、あたしはそれぞれの位置やアクセス方法を熟知している。友達の少ないあたしの放課後の時間のつぶし方が、もっぱら校内散策だったからだ。勿論そんな事は彼女には言えないので、
「ボイラー室は、ほら、やっぱり高校生から人気のところだから・・・・・・」
と誤魔化すことにした。校内散策が日課だなんて、我ながら悲しい生活習慣だと情けなくなる。しかし放課後すぐに帰宅をし、家の者から放課後誰とも遊んでいない子だと思われる訳にはいかなかった。
「末広さんってかっこいいよね」
教室に戻る道すがら、彼女があたしをそう評した。
かっこいい? あたしが?
「気を悪くしたらごめんね」
「いえ、そんなことはないけれど。あまり言われ慣れないことを言われたものだから、動揺してしまって」
「うそ。絶対みんな思ってるよ。今朝だって、あんなに堂々と遅刻してきて、その後も凛とした佇まいで席に着いたし。普通は新学期早々遅刻したのにあんなに落ち着いてはいられないよ。あまりに格好良かったから、私びっくりしちゃったもん!」
「・・・・・・」
豪快に皮肉を切られているのではないかと彼女の顔を伺ってみたが、その目に嫌らしさは見受けられない。どうやら心の底からそう思っているらしい。思川さんは小さくため息を着いてから、続けて呟いた。
「本当にかっこいいよ・・・・・・」
「そ、そうかしら」
うら若き女子高生である私としたら、可愛いという言葉の方こそいただきたいものだったが、彼女はなぜかこの言葉ばかりを繰り返した。
褒めている・・・・・・のよね?
こちらを見つめる思川さんの視線に微かな鋭さを感じ、背筋に冷たいものが走り――いや、気のせいだろう。
久方ぶりの他者とのコミュニケーションに、あたしの脳が混乱しているだけに違いない。そう自分に言い聞かすあたしに、思川さんが尋ねた。
「そういえば末広さんって部活動には所属しているの?」
「あたし? あたしは帰宅部よ。そういう思川さんは入りたいと思う部活はあるの?」
「ふっふ~」
気づけば校舎のどこかから吹奏楽部の吹く金管楽器の音色が聴こえていた。在校生にとって、始業日であろうが変わらず練習をするのだろう。
私たちのクラスに戻ったところで、思川さんがそれまで保留にしていた私からの質問に答えた。
「あるけど、まだ秘密」
「秘密なの? あるのだったら是非とも教えて欲しいのだけれど」
「えー、どうしよっかなぁ?」
後ろ手を組みながら身体を揺らす彼女は、意地悪そうな笑みを浮かべた。
「そうだ、末広さんこのあと暇? 帰宅部だっていうなら一緒に帰らない?」
時機を見計らってこちらから切り出そうとしていたことを、向こうから言われてしまった。別に最終的な結果は変わらないのだが、あたしとしてはここらで一度主導権を握っておきたいという意地があった。
そんな野心を悟られまいと、落ち着いた声音で彼女に言葉を返した。
「一緒に? 別に構わないけれど」
「やったー!」
思川さんは大げさに両腕を挙げバンザイをし、ぴょんと飛び跳ねる。彼女なりの愛情表現なのだろうか、歩きながら私に対してぐいぐいと体重をかけてくる。
「ちょ、ちょっと、思川さんっ」
激しいスキンシップに私は照れを隠せず、破顔してしまう。小柄な彼女が私の胸元で揺れるたびに、その艶やかな髪からは、サボンの爽やかな香りがした。
「結局、どの部活に入るのかは教えてもらえるのかしら」
いつまでも彼女とじゃれているのも恥ずかしくなってきたので、私は堰払いをしてから、彼女に尋ねる。
「まだ秘密~」
「む」
校門をくぐり、桜並木のアーチの下を二人並んで歩く。気づけば日も幾らか傾き始めていた。今朝に遅刻しながらここを全力で駆け抜けていたときには、一体どうなるものかと案じたものだが、いやはやこれはこれは中々充実した高校二年生の幕開けなのではないだろうか。
――やるじゃないかあたし!
「どうしたの? 末広さん、さっきからぶつぶつ言って」
「え、なんのこと? 貴方の空耳じゃないかしら」
「変なの。そういえば末広さんって電車通?」
「電車通学よ」
「おぉ~。じゃあ私と一緒だね! 駅まで一緒に行こ!」
と言って彼女が笑う。あたしと帰路を共にすることを本当に喜んでいることが伝わってくる、素直で素敵な笑顔だった。
「うちの学校はどう? 馴染めそうかしら」
学年こそ同じだが、神鳥谷高校の生徒としてのキャリアはあたしのほうが上なので、一応の先輩面をして、そう尋ねる。最も、あたしこそまだ馴染めてもいないのが笑えないところだが。
思川さんははにかみながら、首を縦に振った。
「うん。末広さんも、クラスの他のみんなも良い人ばかりだし」
「それはよかった。けれど、一体どうしてあたしなんかに――」
「――でもやっぱり新生活一日目だったからもうヘトヘトだよ。ちょっと休憩しない? 喋りながら歩いてたから私もう喉カラカラ」
彼女はこちらの質問を遮るようにして言った。もう一度聞きなおそうかと思ったが、もしかしたら特別な理由はないのかも知れないと思い、やめた。
あるいは、クラスで誰とも話さずに独りでいたあたしの事を気にかけて、それであのとき、わざわざ声をかけてくれたのかもしれなかった。
「それでは、あの公園で一服しましょうか」
二人がけのベンチのほかには、小さなすべり台と猫の額ほどの砂場があるだけの、こぢんまりとした公園を指して提案する。思川さんはこくりと頷いた。
入り口の脇の自販機でお茶を買ってから、ベンチに腰掛ける。思川さんはどの飲み物にするかを決めあぐねているらしく、腕を組みながら、うーんと唸っている。
やがて、自分では答を出せなかったようで、自販機の前から声を張って私に尋ねてきた。
「末広さん何にしたのー?」
「お――」
お茶よ、と答えようとしたが、今どきの女子高生らしくないチョイスだと思われるのは嫌だったので、嘘を教えることにした。オシャレな飲み物といえば・・・・・・。
「――紅茶よ」
「お紅茶ぁー? ははっ! 末広さんってもしかしてお嬢様なのおー?」
嘘をついた上に、あらぬ誤解まで生んでしまったことに言い知れぬ罪悪感を覚えてしまう。あたしは未開封の緑茶を、カバンの中に静かにしまった。
「お待たせ~」
無事に飲物を購入できた思川さんが、るんたったとスキップをしながらあたしの隣に腰を下ろす。
――同時に、彼女の柔らかな太ももが私の足に触れた。
「思川さん。ちょっと距離が近くないかしら」
「えっ、そうかな。嫌だった?」
「別に嫌というわけでは、ないけれど・・・・・・」
と言われて満足したのか、彼女は頬を緩める。それからペットボトルに口をつけると、スカートから伸びた細い足をパタパタと振った。
「お紅茶もたまには良いですわね~!」
あたしとお揃いにするためか、思川さんは結局紅茶を選んだらしい。喜んでくれているのなら、嘘をついた甲斐もあったものだ。
不意に、思川さんが話を切り出した。
「――ところでさ、末広さん。・・・・・・さっきの話なんだけど」
「さっきの話?」
聞き返すと、思川さんは上目遣いに私の顔を覗きこんだ。気づけばその綺麗な丸い瞳は、どこか怪しげな煌きを発していた。
「もう忘れちゃった? ふふ、末広さんて意外とすっとぼけたところあるよね」
「すっとぼけ」
思川さんは、その可愛らしい顔に似合わない強烈な言葉で私を詰る。たじろぐあたしにゆっくりと顔を近づけて、彼女は不敵に目を細めた。
「ふふ、末広さん。そういえば・・・・・・私ひとつお願いがあるんだけれど、良かったら聞いてくれないかな?」
彼女の甘い吐息が首元に当たり、くすぐったい。見れば彼女の頬は夕焼けとは別の色味で赤らんでいた。
「ちょ、ちょっと思川さん。なんだか呼吸が乱れているようだけれど具合は大丈夫かしら。あとやっぱり距離感がおかしくないかしら!」
「えー? おかしなことなんて、私たちの間には何一つないよ・・・・・・」
あたしの言葉が届いているのか不安になる程の様子で、思川さんはどこか虚空に向けてそう呟く。その胡乱な眼差しは既にあたしを捉えてはいないようで、恐ろしくなった。
「それならいいのだけれど。それでその、お願いというのは?」
あたしが尋ねると、思川さんはおもむろに、制服の袖に腕を引っ込めて手をしまいこむ。緩んだ襟口から、華奢な両肩が覗けた。
「これはね、真剣な話なの」
言って、息を荒くしながら彼女は――自らのブレザーを脱ぎ捨てる。
「ど、どうして服を脱いだのでしょうか!」
思わず改まって敬語になってしまう。想定外の事態にパニックになるこちらとは対照的に、彼女は先ほどまでと変わらぬトーンで話を続けた。純白のブラウスに包まれた彼女の細腕が、私に向かって、つっと伸びてくる・・・・・・。
「大丈夫、大丈夫だよ末広さん。何も怖がることなんてないよ。私も最初は恥ずかしかったけど、始めちゃえば、後はもう――虜」
「~~~~っ!」
思川さんと距離を取ろうとするあたしの肩を、目の前の少女は、くすくすと笑いながら強い力で押さえつけてくる。
――この小さな身体のどこにそんな力が!?
思い返してみれば、彼女にはおかしなところがいくつもあった。
やたらあたしのことをかっこいいと言ったり・・・・・・。
あの激しいスキンシップだってそうだ。いくらなんでも初対面同士にしてはやたらに過剰だった。クラスのほかの子たちとは普通にお喋りをしていただけではなかったか。
こんなあたしと仲良くしてくれるだなんて、裏が無くてはおかしいと、そう疑わなければいけなかったのだ。
などとしっかりと反省をしつつも、しかし私の心の中には意外にも、鮮やかな諦念が滲んでいた。
あたしが知らないというだけできっと、友情というものにも色々な形があるのだろう。ここはひとつ、授業料と思って彼女に全てを委ねよう――すでにそんな気持ちになっていた。
思川さんの艶やかな唇が耳元で動くの感じる。紅茶によって湿り気を帯びたそれから吹かれた吐息が、あたしの産毛を柔らかに撫でる。
緊張で全身を強張らせるあたしに、思川さんが優しく囁いた。
「末広さん、私と――しよ?」
「・・・・・・え?」
その言葉を耳にして、あたしは我が身を縛り付ける呪いの存在を、確かに感じて、それから――恨んだ。
やはり、逃げることなんてできないのか。
心の中でそう唱えてから、あたしは自分の手のひらをそっと、彼女のブラウスの膨らみにあてがった。