君が鳥になった日
僕の彼女はパッとしない地味な女の子だった。
中学3年になって、バレンタインデーで告白され、ファッション感覚で僕は付き合うことに決めた。
高校デビューしたら、もっとギャルっぽい女の子と付き合ってパリピ生活するつもりでいた。
バスケ部もサッカー部も魅力的だし、運動神経の良い僕ならどちらでもこなせるとタカをくくっていた。
隆二郎は僕の自慢の友達だった。
高瀬もなかなか良い男だと僕は思い込んでいた。
何故、過去形なのかと言うと僕の高校デビューは無惨なものになったためである。
まず、憧れの聖院学園の模試で滑り、滑り止めだった東洋高校さえ落ちて、1人浪人する羽目になった。
その時点で僕の学生生活は薔薇色の真逆を行くことになる。
1年遅れて入った高校は沖洲高校で、IQが低いことで有名だった。それ程までして連続浪人が怖かったのだ。
しかし、その判断は失敗だった。
僕は小柄でもマゾでもなかったが、歳下に頭を下げるのが嫌で桜雅直樹というクラスカースト上位の男に楯突いた。
結果として、何とかできた友達は逃げていき、カースト上位の女からもゴキブリを見るような目を向けられるようになった。
唯一の救いは中学で付き合っていた地味な彼女が同じ高校だったことである。1学年違ったが、彼女がわざわざ1年の教室に来て、昼休み、屋上で弁当を恵んでくれたのは有難かった。
それでも、彼女の名前が思い出せない僕は最低クズ野郎だろう。
「おい、竹本」
桜雅が横暴に僕の名を呼んだ。
「パン買って来い。5分以内な。守らなかったら殺す」
桜雅は本当にこんなことで人を殺しそうな目をしていた。
僕は最大限の抵抗として頷きもせず、購買に足を運んだ。パンの種類によっては、蹴ったり殴ったりされるだろう。ヤツらは人を痛み付ける才能しかない。害虫の方がマシだ。
購買のすれ違いに彼女がいた。チョココロネとメロンパンを抱えている。
冴えない見た目だが、今の僕には天使のようだった。
「それ、譲ってくれないか?金は払う。不良共に使いパシリされていてこのままだと間に合わないんだ」
「信治君のためならいくらでもパンぐらいあげる。その代わり約束して。私以外の女の子を見ないって」
僕は適当に頷いて彼女の腕の中のパンをひったくった。彼女は利用価値しかない。
そんなゲスにゲス野郎共はチョココロネに文句を付けてきた。
「チョコって気分じゃないんだよね。あれ〜?言わなかったっけ?コロネ買って来たら3ビンタって」
僕は冷静に何も言わずにいた。
その態度に怒り狂った桜雅と取り巻きが僕を殴ってきた。
白い閃光が走る。勢いの余りロッカーにぶつかり、頭を強打した。
周りは見て見ぬふりだ。
心配そうに古典の教師が2、3回、通り過ぎたが、何もせず立ち去っていった。
これは戦いなのだ。高校生活において、生きるか死ぬかの戦いなのだ。
自分にそう言い聞かせる。まだ2、3年、浪人して良い所に行けば良かった。時間は巻き戻せない。
桜雅の取り巻きが言った。
「購買のパンはこいつが教室を出た時点で売れ切れていたらしい。どこから手に入れた」
彼女が巻き込まれないよう最低のクズでも考えられた。
「家から持って来てたんだよ。あるいは通り過ぎの女からくすねたか」
桜雅が唇を噛んで少し熟考しているようだった。僕は嘘も本当のことも言っていない。彼女がいることを悟られないようにしてきていた。
「明日は焼きそばパンな。お前の手料理だ」
僕は頭にできたタンコブを撫でながら、へつらうように口を開いた。
「男に手料理なんか求めるなよ」
桜雅が拳を見せつける。力を誇示するゴリラのようだった。
「まだ痛みつけ足りないのか?」
僕は自分可愛さに、母に作ってもらおうと考えた。
「分かった。分かったから、もう殴らないでくれ」
桜雅の視線が鋭くなっていく。僕の頭の中を覗いているかのようだ。
その日はもうそれ以上殴られなかった。
僕は途方に暮れ、帰り道、彼女と出くわした。
彼女は焼きそばパンを作ってくれると約束してくれた。
季節は夏だ。汗だくになりながら、彼女と何度目かのキスをする。本当に好きな人ではなかったが、従順なところは好きだ。
僕の可愛いペット。
次の日、待ち合わせ場所で彼女から焼きそばパンを受け取ると、じっくり観察した。見た目、売ってある物と大して変わらないが、麺が太く、紅生姜と鰹節が付いていないため、手作りと直ぐ分かる。
桜雅に渡すにはもったいない代物だった。
桜雅は満足したようだった。午前中、絡んで来なかった。だが、午後から、ノートを取り上げられた。
僕は勉強に諦めが付いていた。学校に通っているのは、両親に心配されたくなかったためである。
いじめっ子達は僕のノートを見て、落書きだらけなのを笑いのネタにした。
アイツらだって、授業中、グラビアを見たり、昼寝したり、自由なのだから僕も真面目にやらなければならない理由は何一つないというものだ。
しかし、僕は文句を言わなかった。反抗期の彼らを刺激するのは愚かと言える。
彼女の名前をまた思い出そうとしてどうしても出て来ないジレンマに陥った。
苗字は確か「宮」が付いていた。宮田だろうか。宮本だろうか。どれも違う。
桜雅が興味を失って、今週のジャンプを読み始めてから、ハッと気付いた。
宮野だ。
しかし、下の名前が何一つ思い出せない。
甘酸っぱい青春というより、辛いばかりの青春を繰り返し、僕達は高校2年生になった。
幸いなことにクラスメイトにいじめっ子はいなかった。
そんな中だった。
宮野が交通事故に遭った。
面会に行っても会わせてもらえないのではないかと思いつつ街一番の大きな病院に足を運んだ。
僕は「竹本信治です」と名乗ると言った。
「宮野さんの彼氏です」
看護師や医師が慌てた様子で僕を見る。ナースステーションで大柄な女性が手続きを済ませ、僕を案内した。
305号室に入り、奥の部屋に入る。
宮野は至る所を骨折し、原型を留めていなかった。
「ギプスだけではもう助からないんですよ」
困ったように看護師が説明した。
僕は飛び付くように宮野の手を握った。力を全く感じなかった。
「宮野、僕だ。竹本信治だ」
宮野は薄らと目を開けた。
「信治君、最期のお願い聴いてくれる?」
「もちろんだ。何でも聴いてやる」
宮野は泣きそうな目で僕を見ていた。
「下の名前で呼んで」
僕は躊躇った。分からないなど言えない。こんなことなら、生徒名簿に目を通すべきだった。
宮野はクシャクシャの顔で笑った。
「そっか。信治君、本当は私のこと好きじゃなかったんだね」
言葉と裏腹に明るい声音だ。
「信治君とはまたどこかで会いたいな」
僕は怖くなって宮野の手を強く握った。宮野が遠くに行ってしまう気がしたのだ。
「宮野!宮野!!」
心拍数が0を指す《ピー》という無情な音が絶望を塗り固める。
僕は握っていた手がもう動かないことを悟った。
宮野は死んだのだ。
その瞬間、彼女の名前を思い出した。
泣きじゃくりながら、叫んでいた。
宮野百合は自由に空を舞っているのだ。
それは時として鳥のように。
百合はどこまでも遠く羽ばたいていた。