9.言葉が出てこなかった
その日の放課後。
教師に呼ばれて職員室へ行っていた私は、教室に足を踏み入れた瞬間目に入った人物に思わず後ずさった。
静まりかえる教室には、一人机に向かって勉強するマーサの姿があったのだ。
ウェルスとのやり取りで浮足立った心が、どん底まで冷えていく。
急いで引き返そうとしたが、時すでに遅く、私の足は勝手にマーサの方へと向かった。
「あら、マリアンヌさん。昨日はどうも」
厭味ったらしい口調で話しかける私に、マーサはびくっと肩をゆらしてこちらを見上げた。
「アマリリア様……」
「目ざわりだから、私の目につく場所にいないでくださる?」
ただぶつかってきただけの人に対して、ひどい言い草だ。
口をつぐもうとしても私の中の″アマリリア・オーレアン”というキャラクターが勝手に動いて止まらない。
「すみませんでした!」
私の言葉に、マーサは慌てて荷物をまとめ始める。しかし私は彼女が広げていた教科書を手に取り、床に投げ捨てて踏みつけた。
「あなたにお勉強が必要あって?一体なんの役に立つというのかしら」
「や、やめてください…!」
マーサはがたっと椅子をならして立ち上がると、私の踏みつけている教科書の方へ駆け寄ってきた。
足元にうずくまるマーサを見て、蹴り飛ばしたい衝動がわく。
でも、それは駄目だ。今までの私なら、間髪を入れずに足を振り上げていただろう。
だけど今の私はわかっている。これは私の意思じゃない、私は彼女を蹴ったりしたくない。
その強い思いが、一瞬私の動きを止めさせた。
しかしそれも束の間、私の体が意思と反して勝手に動こうとしたそのとき――
「何をしている」
いつの間にか教室に現れていたエイオス王子が、厳しい口調で言いながらこちらに向かってくる。
その王子の姿を見た途端、私の邪悪な衝動はきれいに消え失せた。
「エイオス王子」
「アマリリア嬢。きみは一体何をしているんだ」
私を睨みつけながら再度問いかけてくる王子に、私は令嬢の笑みを張り付けて答えた。
「申し訳ありません、マーサさんが落としてしまった教科書を、誤って踏んでしまいましたの。マーサさんごめんなさいね。お返ししますわ」
優雅な動作で教科書を拾い上げ、軽くはたいてマーサに渡す。
マーサは戸惑ったようにそれを受け取った。
エイオス王子もまだ何か言いたげにこちらをにらみ続けていたが、結局私には何も言わず、マーサの方へ向き直る。
「大丈夫か、マーサ。さあ、手を」
「……ええ、大丈夫です。ありがとうございます」
マーサは一瞬考えるような表情をし、王子の手を取った。
そんな二人を横目に、私は二人から逃げるようにそそくさと教室をあとにした。
◆◆◆
やっぱりおかしい。
その日の夜、あたしはベッドの中で寝返りをうちながら考えていた。
シナリオ通りなら、あのとき間違いなくアマリリアはあたしを蹴るために足を振り上げていたはずだ。
そしてそれを目撃した王子に、蹴ろうとしていたことを咎められていたはず。
しかし実際は、アマリリアは教科書を踏みつけただけで王子からは何の言葉もなかった。
オリーブ色の瞳に豊かな赤いウェーブの髪をもつ、少しきつい顔立ちの悪役令嬢、アマリリア・オーレアン。
過去3回のループでアマリリアがシナリオと違う行動をすることはなかった。
シナリオにない部分でも、いつでも私の近くにいてこちらを敵視していたが、今はどうだ。
一番離れた席に座って、私を避けるように行動している。
これは、あの女の記憶が戻ったと考えて間違いないだろう。
「どうせ戻るなら、あの女じゃなくて伊織くんの記憶がよかったのに」
あたしは布団を握りしめながら声にならない声でつぶやいた。
でも、これは好機かもしれない。何も知らないあの女がシナリオ通り破滅するより、最後の最後で伊織くんがあたしのものになったことを伝えれば、より絶望するだろう。
「はやく断罪イベントこないかなあ……」
あたしの呟きは、夜の闇に溶けて消えていった。
◆◆◆
翌日の授業で、私は冷や汗をかいていた。
科目は化学。ペアになって行う実験で、よりによってエイオス王子とペアになってしまったのだ。
昨日の今日なので、気まずいことこの上ない。しかしエイオス王子はといえば、昨日のことなど忘れたかのように手際よく実験の準備を行なっていた。
「そっちの器具を取ってくれないか」
突然話しかけられ、縮こまっていた私は慌てて指示された器具を手に取り、エイオス王子に手渡す。
「ぼーっとしていて申し訳ありません。私は何をすればよろしいですか?」
私が恐る恐る尋ねると、エイオス王子は驚いたように一瞬目を見開いたあと、言った。
「それでは、こっちの試験管の準備をしてもらえると助かる」
「わかりました」
真面目に取り組む王子の足を引っ張るわけにはいかない。
私はなんとか役に立てるよう、必死で実験に取り組んだ。
実験を行う間、一度も言葉を交わすことはなかったが、実験が終わるころには私たちの間の空気はいくぶん柔らかいものになっていた。
「……よし。結果をレポートに記入して終わりだな」
「あ、私やりますわ」
ほとんどエイオス王子が主導で実験を行ってくれたため、最後くらいは自分が、と思い、教師に渡された紙に結果を記入する。
エイオス王子はその様子をしばらく黙って見ていたが、やがて小さな声でぽつりと言葉をこぼした。
「まるで別人のようだ」
聞こえてきた言葉に、一瞬なんのことやらわからなかったが、すぐに王子の言いたい事を理解して私は青ざめた。
やはり、昨日のことは王子の心に引っ掛かっていたのだ。
「あの、昨日は本当に申し訳ありません……」
私が顔を上げられずにレポートに目を落としたまま言うと、王子はさらに言った。
「君とマーサは、何か因縁のようなものがあるのか?」
今回の人生だけに関して言えば、私はマーサにこれといって恨みなどない。しかし、間違いなくこれは因縁だろう。
どう説明したものか……と考えているうちに、私はふと閃いた。
自分が自分でなくなることを王子に言ってみたらどうだろうか?病気ではないけれど、何か異常な状態なのだとわかってくれるかもしれない。
さっそく話してみよう、と私は口を開く。
しかし何を話そうとしても、言葉が出てこなかった。声が、音になる前に消えていく。
これは、もしかして……もしかしなくとも、イベントの強制力、というやつで、イベントに関する弁明やこちらの事情の説明ができないようになっているのかもしれない。
焦った顔で口を開け閉めする私を見て、王子は小さくため息をついた。
「言えない、か。だが、あのようないやがらせは君のためにもならない」
まさかの私を心配してくれる様子に、思わず私は目に涙が浮かぶ。
しかしやはり何も言葉は出てこず、そのままレポートも書き終えてしまった。
王子はしばらく私の言葉を待っていたが、やがて私の書いたレポートを持って立ち上がった。
「レポート内容はこれでいいだろう。私が提出しておく。お疲れ」
「お疲れ様でした……」
結局私はこれだけ返すのが精いっぱいで、王子はそのまま去って行ってしまった。