言葉を受け継ぐ
ずっと前から、紙の辞書という存在が好きだった。
重くずっしりとした質感と、薄い紙に印字された様々な言葉の渦。
そのどれもが、自分の糧になり、生きていく中での盾になるものでもある。
どれくらいこの辞書に救われたのだろううか。
好きな人にも、嫌いな人にも言いたい言葉は全て辞書に教えてもらった。
よく、辞書に書き込みをすると覚えられるということも聞いてはいたが、私はどうしてもやってきた当時のままの姿で一緒にいたかった。
愛着を、辞書という存在を大切に守る、という形で示していた。
そんな唯一友達のように連れ添った辞書が、今母親の手によって段ボールの中に入れて梱包されている、らしい。
私は辞書を思い切って、手放した。
金で購入できた言葉の全てを、また金に戻し、そしてまた誰かの手に届き、言葉として活用されることを願って。
悲しみを抱きしめながら私は母親に一つだけ頼みごとをした。
「拓真~はいこれ」
「いてぇっ」
ノックもせずに自分の部屋に入ってきた母親が、僕がベッドに寝転んでスマホで出来るサッカーゲームをやっているところに勢いよく頭に乗せてきたのは一冊の辞書だった。
「あ、届いたの?」
「そうよぉ」
小学五年生になってから辞書が必要だと言うと、母親は辞書をどうやらフリマアプリとやらで中古で買ってきたらしい。
「どうせ授業の時くらいにしか使わないんでしょう? このくらいで十分よ。別に汚れてもないんだし」
頭に乗った辞書を手に取ると、少し角が丸まってはいるが大切に使われていた代物だったらしく、新品とさして変わらなかった。
別に中古というものに嫌な気持ちになっているわけでは無いし、世の中は使われなくなったものがすぐにゴミとなり地球が汚れていってしまう、みたいなことをクラスの先生から聞いたばかりだったので、僕は辞書がここに捨てられずやって来たことを内心地球を救ったのではないか、とも喜んでいた。
「これ読んで少しくらい知識増やしなさいな~。でなきゃ惚れた女も口説けんよ」
「はぁ??」
けけけ、と意地悪く笑ってドアを閉める母親に文句の一つでも付けようと思ったが、何も思いつかなかった。
毎秒ゲームに勤しむ自分の姿を見て、むしろ勉強というものが億劫になっているのを見越したのかもしれない。
少々棘を持った言葉に内心燻りながら、おもむろに辞書をめくると、真っ新なページが続いていた。
誰かの使い古しだろうから多少の汚れはあるだろうと思っていたが、よくもまぁこんなに綺麗に扱えるものだと感心する。
読まずにそのまま放置していたものなのだろうか。
そう思いながらめくっていると、突然真ん中辺りではらりと一枚の紙が落ちてきた。
前の持ち主のメモだろうか。
面白いことでも書いていたら良いのにな……と紙を見てみると、そこにはぎっしりとした文字が埋め尽くされていた。
「『この辞書を買ってくれた方へ』……?」
僕は辞書を一度勉強机の上に置き、手紙を手に取り、その文章を読んでみることにした。
はじめまして。私は辞書の以前の持ち主です。
辞書を、購入していただきありがとうございます。
この手紙は母親に私の言葉を書いてもらっています。
貴方がどうしてこの辞書を受け取ったのか、私には分かりません。
勉強の為なのかもしれない。学校で必要だから、かもしれない。
その偶然の巡り合わせの中で、この辞書を選んで下さったことは運命のように感じます。
私は、この辞書といつも一緒にいました。大切な友人のような存在です。
しかし、事故で視覚を失った私はもうこの友人を見てあげることが出来ません。
そこで、思い切って、この辞書を誰かにこれからも読み続けて欲しいと思い、売ることを決意しました。
私はこれからも、視覚障害者の為の辞書にも本にも巡り合えるかもしれません。
それでも、この私と十三年間寄り添っていた友人である『この辞書』の言葉にはもう二度と耳を傾けることが出来ません。
受け取った貴方にお願いがあります。
どうかこの友人である辞書の届ける『言葉』を隅々まで読み込んでほしいのです。
これはこの辞書を受け取った貴方にしか伝えられない願いです。
どうか、この友人をよろしくお願いします。
手紙を読み終わり、僕は辞書の表紙を見つめる。
この手紙に書いてあることが本当のことかは分からない。
それでも、誰かの使い古しではなく、誰かの託したかった言葉を受け継いだんだ、と思うと勝手に鼓動が高鳴ってしまった。
「……読んでみるか」
僕はベッドに置いてあった起動中のスマホの電源をオフにして勉強机の椅子を引き、待ってましたと言わんばかりの厚みのある辞書の表紙をゆっくりと開いた。