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座右の銘

作者: 司 征

 座右の銘はお持ちだろうか?


 別に必ず持つ必要はないものであるが、持っていると格好いい(?)かも知れないし、面接や新生活の自己紹介などで、スッと出てくると一目置かれるかも知れない。保証は一切しないけども。


 筆者はかつて中学の卒業文集で、座右の銘を書く欄にギャグと奇を衒って「一攫千金」と記した、思い出すも恥ずかしい黒歴史がある。

 まあ、たかだか15年ほどの人生ゆえなのだから、変に含蓄のある言葉を選ぶよりはかわいげがある(?)とも言えようが、やはりなんというか尻がこそばゆい。


 さて、改めて「座右の銘」を定めようとすると、どうやって決めようか戸惑うのではなかろうか。

 まずは、座右の銘とはどういうものか、を見てみよう。


 辞書を引けば、「常に身近に備えて戒めとする格言」と説明されている。身近を表すことが、座「左」ではなく、なぜ座「右」なのかというと、中国の皇帝が「座す右側」には、優秀な補佐官が侍っていたのである。わが国でも武家の秘書のことを「右筆ゆうひつ」と言った。古代中国にならったであろうことは想像に難くない。


 このことから「座右」はとても大切なもの、常に側にあるものを言い表す言葉となった。「銘」は言葉や文章と捉えればいいので、詰まるところ人生の指針となる言葉とか自分にとって大切な言葉、というのがよりふさわしいだろうか。

 例えば、「急がば回れ」を座右の銘として、地道にコツコツと努力を積み重ね、一足飛びでなく着実に目標に到達する人生を送る、という感じだ。


 ではなぜ補佐官が左側でなく右側に付いていたのかというと、「右」は古代中国にとって尊ばれるものであり、反対に「左」は卑下されるべきものであった。ゆえに皇帝の前に臣下が並ぶ際には、皇帝の右側に地位の高いもの、左側には地位に低いものが並ぶようになったそうだ。

 なぜ「右」が尊く「左」が卑しいのかは各々お調べいただきたい。


 現代日本でも会社で不祥事を起こしたら、「左遷」されるものだが、これは「左に遷す(うつす)」という意味で、右から左へ移動させることが降格を表すこととなっている。先の中国の例から作られた言葉である。

 我が国では、「右に出るものはいない」「右に並ぶものはいない」とか「右にならえ」とか「右に同じ」とかの慣用句に右を尊ぶ心が残されている。頼りになる部下を「右腕」と称するのも同じである。

 しかし不思議なことに律令を定めたとき、臣下の地位では「左」大臣が常任の中では人臣第一であり(最高位は太政大臣で空位のときもある)、「右」大臣は二番目であった。 左が上位であったのはどのような理由なのであろうか。



 大分話がそれてしまった。戻そう。

 さて肝心の「座右の銘」であるが、簡単に言えば人生の指針である。あるいは自分の行動原理といってもよい。どのような人生を送りたいか、人生のシチュエーションのなかでどう行動するか何を大事に行動するか、そういったものを表す言葉と思えばいい。

 偉人の名言・格言だとかことわざだとかあるいは横綱襲名の口上に使われる言葉だとか格好いいものを選ぶのもいいだろう。「不撓不屈」とか「不惜身命」とかなんか格好いいと思う。

 また自分を顧みて性格にふさわしい言葉を見つけるのもいいだろう。途中で変わることもあるだろうし、より良い言葉に出会うこともあろう。

 そういったものを見つけ、少しでも人生を豊かなものにできれば良いのではないかと思う。



 かくいう筆者は黒歴史は忘れて、今は聞かれればこのような言葉にしている。ここで聞かれてもいないのに紹介するのは面映ゆいが、話題にしたものの責任として紹介しようと思う。

 決して話したかったからではない。ええ、決して。


「なせばなる

 なるようになる

 なんとかなる」


「なせばなる」はかの戦国大名武田信玄の「為せば成る為さねば成らぬ成るものを成らぬと捨つる人の儚き」や江戸時代の名藩主上杉鷹山の「為せば成る為さねば成らぬ何事も成らぬは人の為さぬ也けり」から取った。簡単に言えばティモンディ高岸の「やれば出来る」である。 あるいは成功者の言う「夢は叶う」や「努力は実る」という意味と言えば分かり易いか。

 成功者がこういうのは納得できる。なぜなら実際に「夢を叶えた」からだし「努力を実らせた」のだからそうとしか言えまい。しかし、これはある意味正しくもあるが真理ではない。この成功者の影には必ず「力およばず夢破れたもの」が多数存在することもまた事実であるからだ。


「なるようになる」は行き詰まって自棄になり、どうにでもなれという心境を表すものではない。ご存じの方もおられようが、これは「ケ・セラ・セラ」の和訳といわれている。意味としては「人事を尽くして天命を待つ」「運を天に任せる」「後は野となれ山となれ」「明日は明日の風が吹く」「成り行きに任せる」「流れに身を任せる」といったところか。

 本来は気に病むなとか気楽に行こうぜとかの意味が強いという。そのままでも良い感じの言葉だが、筆者は少し違う意味を持たせている。筆者の意図するところを漢字で当てると「成るように成る」となる。

 前段に繋がることであるが、たとえ努力を重ねたとしても必ずしも望んだ結果が得られる訳ではないことを我々は知っている。だが、努力して努力してそれでも「二番目じゃダメ」なのは、順位をつけようとするものだからだ。順番をつけようとしければその限りではない。

 夢に手が届かなくてもそれまでの努力は無になるものではないのだから。努力したことは必ず身についているのだ。だから努力をすればしたなりの何者かになることができる。努力をしなければそのように。そう、「(努力に応じた何者かに)成るように成る」のである。


「なんとかなる」は、どちらかといえばこちらの方が「ケ・セラ・セラ」の精神に近いだろう。人生において苦境に陥ることは間々あることだろう。そして進退窮まると気を揉んでも案外何とかなってしまうことも多い。

 鬱々と悩むより開き直ってしまえば(あるいは妥協する?)気も楽になり、大抵のことは打開できるようになるものなのだ。



これをまとめると、


 何者かになりたいとき、努力は不可欠である。努力が実ることもあれば実らないこともある。だが、たとい努力が実を結ばなくてもそれまで重ねた努力は無駄にならず、身についているのだから、それに見合うなにがしかは得ることができる。それでも思うさまにならずもどかしい思いをするときは、一旦歩みを止めて落ち着いて周りを見回そう。そうすれば打開策も見えてくるだろうから。


 努力の必要性と気の持ちよう、そんな意味を込めているのである。


 いま取って付けたんだけど。

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