34、一人の少女のためだけに
ギシリ、と軋んだ手足に嵌められた枷。
揺れる蝋燭の火が仄暗い部屋を微かに照らす。
天井を支える柱と冷たい石の床に刻まれた魔術陣の中央に、身の自由を奪われた那月は倒れていた。
部屋はそれなりに広く、奥には植物や動物の内臓が捧げられた祭壇。
壁際にはずんぐりむっくりな身体に人間の手を何本も生やした異形の化物が何体も控えている。
ここは彼方家の地下工房。
代々伝えられてきた血と研鑽が収められた、魔術士の家にとっての心臓部。
「……悪趣味な場所ですね」
「悪趣味? 魔術士は元よりそういうものじゃないか。人の生より自分の魔術さ」
「そんなの許されるわけが――」
「――知ったことじゃないね。それに……僕は許される側じゃなく、許す側だ。温情をかけるのはいつだって稀人たる僕さ」
他者を見下す態度を改めることなく慧は語る。
だが、慧の言葉も全てが嘘ではない。
古来より魔術とは人の犠牲の上に成立してきた。
数々の失敗を重ね、無駄を省き研鑽を積み上げて、ようやく今の形がある。
殺し合いで魔術が使われるのも当たり前。
現代兵器などなかった頃の戦争では、一度により多くの人間を殺せる魔術の開発に各国が躍起になって取り組んだ。
それは今も変わらない。
寧ろ成熟した化学と融合することで、より悲惨な結果を齎す兵器もある。
しかし、それは人の命を蔑ろにしていい理由にはならない。
現代において、非人道的な魔術の研究は全世界で禁止されている。
発覚すれば重罪は確実だ。
「これでも君には感謝しているんだよ? ああ、どちらかといえば馬鹿な君の両親に、だけどね」
「……まさか、貴方が。貴方が犯人だったのですか……っ!?」
「ん? そういうことになるのか。僕が神奈木に罪を着せた張本人さ。実に傑作だったよ!」
「……っ! 貴方が、貴方さえいなければ――」
「僕は単にゴミを捨てただけ。死体をいつまでも放置しているのは不衛生だからね」
「そんな理由で私たちから日常を奪ったと言うのですかっ!?」
悪びれもなく自らが全ての黒幕だと言い張った慧へ、膨れ上がった激情を乗せて叫ぶ。
あの事件がなければ、今も神奈木家は平和に日常を過ごしていたことだろう。
だが、一つだけ。
本当に理解できないことがあった。
「……どうして。どうして神奈木だったのですか」
「そりゃあ平和ボケした家の方が都合がいいじゃないか。それに、神奈木なら御子の血も手に入る。一石二鳥だ」
慧の粘つく視線が舐るように全身をなぞる。
気味が悪い。
何か嫌なものに視られているような、えもいえない怖気が駆け巡る。
魔力封じの拘束がある以上、この場所から逃れることは出来ないだろう。
よしんば枷を外せたとしても慧と不気味な使い魔を敵に回して脱出するのは至難の業だ。
唯一の救いは慧が那月に利用価値を見出していることだけ。
賭けるとすればここしかない。
絶望的な状況下でも那月は諦めていなかった。
心残りがあるとすれば、自分を信じていたのに結局裏切ってしまった彼のこと。
彼をあんな目に会わせたのは自分の責任だ。
関わらなければ、助けを求めなければ。
彼は平和に暮らしていたのかもしれない。
(ごめんなさい……本当は顔を合わせて言うべき言葉なのに、伝えられそうにありません)
懺悔のように頭の中で繰り返される謝罪。
大切な人だと心の底から想うからこそ、助けに来て欲しくなかった。
これ以上、誰かが傷つくのは見たくない。
――傷つくのは、私だけで十分です。
悪意に晒され磨り減った心が最後に選んだのは、拒絶という寂しい決断。
弱い部分が表面化した那月の意思が重く閉ざされた口を開こうとして。
――『仲間なら迷惑かけあっても笑って許せる。懸命に生きてのことなら尚更だ』
――『仲間ってのはな、何もかも分け合える間柄のことを指すんだよ。それが嬉しいことでも、悲しいことでも、辛いことでも。全部押し付けて、手を引っ張って巻き込め』
彼の言葉を思い出して。
強く奥歯を噛み締めた。
まだ諦めるには早すぎる。
「おや、なんだいその反抗的な顔は。僕の決定に文句でもあるのか?」
「――ええ。ありますよ、大ありです。貴方のような下衆の身勝手を絶対に許しません」
「……この女ッ!!」
真正面から反論され逆ギレした慧が那月の腹部をサンドバッグのように蹴りつけた。
回避は出来ず、身をくの字に折り曲げながら吹き飛んだ。
冷たい石の床をゴロゴロと転がり重い痛みに悶え呻く那月を足蹴にしながら暴行は続く。
「お前のッ! 意見はッ! 聞いてないんだよッ!!」
執拗に踏みつけながら罵声を浴びせる慧の目は血走り、精神のブレーキが破壊されているようだった。
このまま続ければ魔力を封じられている那月は息絶えかねない。
恐怖で目も開けられず蹲って必死に耐える那月への容赦情けは一切なかった。
蹴られる度に走る痛みが気を失うことさえ許さず、朧気に霞む意識では思考すらままならない。
ぐったりとして反応も鈍くなってしまった那月の白くほっそりとした首を両手で掴み、魔力で強化した腕力で締め上げる。
呼吸の苦しさに手を解こうと抵抗するも、その力は病床に倒れる子供のように弱々しい。
さっきまでとまるで違う弱者の姿を慧は鼻で笑う。
「――無様だな。僕に歯向かった罰だ」
返答は――諦めの悪い紺碧の瞳。
酸素が脳へ行き渡らず朦朧としながらも、その意思だけは決して消えない。
命乞いをすることもなく、媚びる様子もない。
――きっと、誠さんは助けに来ます。
二人が積み上げた時間が導き出した、限りなく確実な未来予測。
那月が「来ないで」と伝えても、誠は自分のためだと看板を提げて堂々と来るだろう。
だから、那月が信じるのは自分ではなく。
自分を信じてくれる一人の大切な人で。
「その目、僕がくり抜いてやるよ」
余っ程気に食わなかったのだろう。
迫る魔の手、ギュッと閉じた両の瞼。
――助けて……っ!
天へ縋る少女の想いは。
「――那月いぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃいいいいッ!!!!」
響いた絶叫。
声が。
気配が。
ぼやけた輪郭で象られた彼の姿が。
「ぶへぁっ!?」
慧の顔面を打ち抜いた全力の拳。
突然のことに対応出来ず、那月の首から手が離れ真横へ砲弾のように吹っ飛んだ。
ゆらり、と倒れた那月を受け止めた自分より大きく暖かなガッチリとした胸。
背に回された手が触れる度。
間近で刻まれる心臓の鼓動。
理解した時には、那月の涙腺は崩壊していた。
滂沱の如く流れ出る涙を止めることは出来ず、誠も胸が濡れるのを構うことなく受け入れている。
「――悪い。遅くなった」
一人の少女のためだけに、彼は颯爽と現れた。
耳元で聞こえた謝罪の声に、慌てて顔を上げた那月がふるふると首を横に振る。
巻き込んだのは自分なのだ。
謝るべきは自分であって誠ではない。
でも、その前に。
伝えるべきことは一つしかなくて。
「――ありがとう……ございますっ」
「後は俺に……俺たちに任せろ」
遅れて聞こえる足音は二つ。
「――薫さん、凪桜。那月を頼む」
「わかったわ」
「りょーかい」
「アイツは俺に任せてくれ」
怪我を負った那月は治癒魔術の使える薫に任せて、誠は自らが敵と定めた相手――慧へ意識を集中させた。
「――許さない。許さない許さない許さない許さない許さない許さないッ!!!!!!」
ようやく復帰した慧は激怒していた。
感情の昂りに呼応して震える魔力は耐性がない者であれば即座に意識を持っていかれるほどに濃密。
しかし、そんなものは関係ない。
「誰も彼も僕の邪魔ばかりしやがって。お前ら全員処刑だ。皮を剥いで、肉を削ぎ、死にたいと懇願するまで飼い慣らして殺してやるッ!!」
「やれるもんならやってみろよ、三下。こっちもクソほどにイラついてんだ。手加減なんて高尚なもんは期待すんなよ?」
次回 9/28 0800頃
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