入学説明
忍術学園2階、学園長室。
その内装は一般高校のものとは異なり、まこと雅な掛け軸のほか、薙刀、手裏剣、煙玉といった戦道具が壁に並んでいる。
窓際も幾らか改装が施されていて、横長の執務机の奥に、一段高くなった座敷が設けられていた。
座布団の上で、黒縁眼鏡の老婦人が、正面のイチカに小さく会釈する。
「ようこそ『忍ヶ丘・くのいち忍術学園』にいらっしゃいました、藤森イチカさん。私が本校の学長である、五部紫彩です」
白く乾いた素肌と、頭頂部の辺りでタマネギ型に髪をまとめた素朴な外見。
おかげで、机上の湯呑みと緑茶のセットが、彼女の風貌によく馴染んでいる。
学長に続けて、執務机の横に立つ女性教師が端然と腰を折る。
銀色フレームの眼鏡と、少し大きめのカッターシャツ。
下は、フォーマルブラックのスラックスと淡紅色のスニーカー。
背は、イチカよりも15センチほど高い171センチ。
澄んだ瞳と幼さが残る顔立ちからして、年齢は20代前半といった所か。
人懐っこさを感じさせる笑みと、小動物のような愛らしい印象が相俟って、キャラメルマキアートの甘みと芳香を連想させた。
一礼した拍子に、ピンク色の髪留めでまとめた栗色のロングヘアーが、風にサラリと優しくそよいだ。
「初めまして。私は、あなたが所属する一年臨組の担任、綾平雫と言います」
イチカの注目が、爽やか笑顔から彼女の首元、ワンポイントに添えられたショートネクタイへと降りる。
忍術学園の教師には、制服規定というものがないのだろう。
これから担任となる綾平雫の第一印象は、忍者がまとう堅苦しさとは懸け離れた、穏和で自由な物腰であった。
短い自己紹介が終わると、五部学長が、細く棚引くような皺声で切り出す。
「さて……。早速ですが、藤森さん。あなたは自分の御両親から、我が校の仕組みについて、どの程度聞かされているのでしょうか」
イチカは記憶を振り返り、母との口喧嘩を思い出す。
突然の転校と忍術修業。しかし、その詳しい中身が話題からスッポリと抜け落ちていることを、今になって気が付いた。
すぐに答えを返さないイチカに、綾平担任は、打ち解けた空気で相好を崩す。
「あらら……。その様子からして、事前に何にも教えてくれなかったってパターンですね」
忍術学園に転校して来た者は、そうした事例がほとんどである。
外部出身者の対応に慣れているのか、五部学長が、落ち着いた様子で口を開いた。
「では、私たちの方から簡単に説明しておきましょう」
イチカの視線が、斜め右から正面へと戻る。
相手の意識が自分へ移るのを確認すると、五部学長は教育方針を語り始めた。
「我が校の採点方式は、一言で言うと単位制……。ただしその内容は、一般高校の普通授業と補習の関係に酷似しています」
短い前置きのあと、続けて学長が、判定基準を詳しく解説する。
「単位の取得方法は主に4つ。授業参加で自動加算される『出席点』と、時間内に優秀な結果を残した『活躍単位』。それと、テスト課題として示された忍びの務め、すなわち忍務の進行度合いを示す『遂行点』と、忍術の難易度や効果的な戦法によって、上限なしに加算される『技術点』となります」
専門用語の頻出に続いて、綾平担任のニコニコ声が説明に続いた。
「それと、ウチの学校では午前中は必修授業ですが、午後の補習は自由参加になってるんです。空き時間の先生に師事して、指導要領を越えた特訓を受けても良いですし、その日、どうしても外せない用事があれば、個人の裁量で自主休校に当てることも出来るんです」
大まかな説明を終えて、綾平担任が腕に抱えた資料を一枚、イチカに手渡した。
そこには一年臨組の時間割が縮小コピーされ、月~土曜までの午前中は、説明通り、二つの科目でビッシリと横に埋められていた。
週休二日制は、どうやら無視の方向である。
イチカはプリントの記事を月曜・火曜と順序よく見て、視線がピタリと停止した。
月曜一限:座学 二限:忍具知識
火曜一限:忍具加工 二限:戦術教練
水曜一限:座学 二限:霊術
木曜一限:神通力 二限:戦術教練
金曜一限:座学 二限:剣術および氣術
土曜一限:練丹術 二限:戦術教練 (一週間の総仕上げ)
戦術教練が体育ならば、座学は教科書を使った一般教養に違いない。
しかしそれ以外となると、イチカにもいくつか判らない項目がある。
否、正確に言うと、大体の予想は付くが、常識的な感覚が理解を拒絶しているのだ。
「あの、ここに書かれている『神通力』や『霊術』とかって……」
無駄な抵抗を試みるイチカに、綾平担任が、とびきりのスマイルで答えた。
「ああ! それが世に言う忍術ってヤツですよ、忍術♪ 忍術学園では少し特殊な力を使うので、正式には『陽忍術』って呼んでます」
氣術というと、武器から身を守る硬気功を想像できるが、神通力ともなると、まるでゲームに出てくる魔法みたいではないか。
絶句するイチカを置いて、五部学長は、緑茶を注いだ湯呑みを口から離した。
「首都近郊の特別地域に指定されるこの忍ヶ丘では、陽忍術の練度によって、階級が異なります。まず上から忍術皆伝、上忍、中忍……。そして下忍は、俗称ではありますが、陽忍術の有無によって『術持ち下忍』と『術無し下忍』の二つに区分されます。このため、忍ヶ丘で言う『進級』とは、上級学年への繰り上げではなく、四階五級の上位昇格を意味しています」
授業の説明が終わると、綾平担任は、最も身近な課題を宣告する。
「ちなみに、藤森さん達1年生が進級できる機会は、なんと、今度の期末試験です! 術無し下忍から術持ち下忍に昇格するには、潜在能力を引き出して、陽忍術の習得を早める『忍術伝法の儀』を受ける必要があります。是非とも、試験合格に向けて頑張って下さいね♪」
いったんそこで言葉を切り、綾平担任はハイテンションで続きを語る。
「そ・れ・と……。テストまでに専門科目で10点満点をそろえると、記念品や特殊忍具なんかも贈呈されちゃいます。これはもう、単位制と言うより御褒美制ですね」
興奮が頂点に達した綾平担任は、『ババ~ン♪』と口真似で効果音を添えるが、イチカにとっては全く嬉しくない。
むしろ、世界の終末を告げる喇叭の音にすら聞こえた。
少し間を置いて、今度は五部学長が話を引き継ぎ、イチカの関心事に触れる。
「では最後に、進級制度についての話です」
その一言で、イチカの意識がピンと張りつめた。
進級とは聞こえはよいが、失敗すれば留年や退学へと繋がる、体の良い隠語ある。
イチカには、忍術修業なんて枯れた青春を送るつもりは更々ない。
命の危険を孕む学校生活なんか、退学してでも辞めてやる。
そうしたイチカの僅かな希望を、五部学長が、アッサリとした口調で粉砕する。
「本校には、抜け忍対策の慣例が続いているため、留年や退学のシステムは存在しません」
一瞬、視界がショックに暗転し、イチカは調子外れな声で叫ぶ。
「はぁ!? 留年や退学が無いぃぃぃ!?」
イチカの絶望を単なる驚きに捉えて、綾平担任が親身な口調で呼びかける。
「そうですよ、藤森さん。だから貴方みたいな初心者でも、安心して学園生活を送れます」
続けざまに、長年、忍者をやっている五部学長が、ありがたい忍者論をサラリと説いた。
「そもそも、忍者修業は一生物。たかだか3年で、全てを修められる物ではありません」
――退学不可能なんて、絶対、あり得ない……。
にこやかな綾平担任とは対照的に、イチカは苛立ちと失望から、涙を堪えて立ち尽くす。
五部学長はそんなイチカを気にも留めず、入学説明の行程に従って、話を淡々と打ち切った。
「さて、一通りの説明も終わったことですし、このまま綾平先生には、校内を一緒に歩いてもらって、教室などの紹介を……」
とその時、年若い男の声が、学園長の提案を勢いよく遮った。
「ちょ~っと待ったぁ!!」