微笑みの向こう側
二人は廊下の分かれ道を北に引き返して、慎重な足取りで階段を登る。
方向転換の途中、険しい表情の理乃が気に掛かった。
仲間の動揺にようやく気付いた華隠は、相手の緊張を解すつもりで、名字に因んだ冗談を飛ばす。
「普段は柳に風といった理乃が憂鬱になるとは、珍しい事もあるもんだわさ」
本当の孤独は、自分の弱みを他人に知られた瞬間から始まる。
まるで腫れ物にでも触るような、あの余所余所しい感覚。
誰かが自分のすぐ傍に居るのに、誰とも心が通い合わない……。
不安を押し込めていた理乃の胸に、幼い頃の記憶が過ぎる。
「落ち込んでなんか居ないよ! ただ、ちょっと面倒な事になったな……って思っただけだって!」
理由は謎だが、これは思ったよりも重傷かも知れない。
華隠はわざとらしく耳の穴をかっぽじって、辟易とした様子で返した。
「そんなに大きな声を出すと、敵に『見付けて下さい』と言ってるようなモンだわさ」
「分かってるよ! そんなこと……」
周囲を警戒しつつ、2階の踊り場へと踏みだす。
ゆっくりとした歩調の御蔭で、雑談する時間は幾らかある。
好奇心も手伝って、華隠は短く理乃に尋ねた。
「で、面倒な事っていうのは?」
周囲に毛嫌いされたとしても、外聞を気にせず我が道を征く。
そんな印象の華隠だが、人間心理にはヤケに鋭い所がある。
理由を説明するのは簡単だが、自分の過去にも触れるかも知れない……。
理乃が小さく迷っていると、彼女の鼻腔粘膜を、柔らかい花の香りがくすぐった。
すると理乃は、急にニンマリと強気な笑みを浮かべて、人差し指を口の前に当てる。
『ねえ、華隠……。上からなにか匂わない?』
理乃の小さな呼びかけに、華隠は鼻をスンスンと嗅ぎ鳴らした。
『言われてみると、そんな気も……。これは、洗濯粉の香り?』
『そうなんだよ♪ イチカの奴、洗剤の匂いをバッチリ流しててさ。それでいつも、どこに隠れてるのか見抜いてるんだ』
華隠は尚も鼻を鳴らして、香りの発信源を突き止める。
『しかもこの匂い、あちし等がいま向かってる、忍具調整室からして来やがる。こいつは早くも、一人目撃破だわさ!』
二人は3階北端の教室、忍具調整室の手前にやってきた。
好都合なことに、階段前の扉が開けっ放しになっている。
室内へと、音もなく侵入する理乃。
その後ろから、怪訝な表情の華隠が続いた。
――おかしい……。何かが違う。
強いて言うなら、今の扉。
初期配置の此処から、戦いやすい校庭を目指して2階に降りたのだが、その時、自分はどちらの扉から出ただろう?
敵の迎撃に直線通路を利用するなら、廊下奥の教卓側が好ましい。
(マズイ……。扉の開閉が真逆だわさ!)
間近で理乃が、鎖鎌を振りかぶる。
「待つだわさ、理乃!」
華隠はとっさに叫ぶが、理乃の顔にあるのは必勝の確信のみだ。
イチカが隠れていると思しき地点へと鎖鎌を投擲する。
宙を閃く鎌の先端が、教卓裏の釣り糸を断ち切った。
瞬間、凄まじい閃光が、彼女の陰惨な笑みを照り返し、その表情はすぐさま驚愕へと変わる。
正面遠くで爆風が弾け、棚の火薬に引火した。
試験用に飛散物は撤去してあったが、受け身なしで吹き飛ばされただけでも、
全身を強く壁にぶつけて戦闘不能だ。
爆発の直前、理乃の身体が、何かに当たって引き倒される。
肩を思い切り床にぶつけ、衝撃で肺から息が漏れた。
耳を劈く轟音に、聴覚をしばし失う……。
それから約十秒、被害判定は来なかった。
理乃は黒煙の隙間から目を凝らして、周囲の様子を確かめる。
事情はすぐに分かった。
華隠が瞬時に自分を庇って机の下に身を隠し、神通力で気流の壁を作って、被害を最小限に抑えてくれたのだ。
御蔭で二人は軽微な擦り傷程度に済んだが、理乃のプライドはズタズタだ。
偵察忍者が裏をかかれて罠に嵌る。
挙げ句は、自分の弱点が足手まといだ。
――蘇る苛立ち。
母に暴力を振るう最低の父。
家に帰ってアイツが戻ってくると、自分は見付かるまいと、押し入れや天井裏に隠れた。
誰にも見付からないように隠行した。
それでも見付かるとすぐに殴られ、運よく逃げても、代わりに母が怒鳴り散らされる。
繰り返される体罰の音と悲鳴。
自分は声を殺し、耳を塞いでやり過ごす。
もう泣いたりはしない。
ただ毎日をヘラヘラと笑い、洒脱に生きて行くだけだ。
幼い頃に、充分に学んだのだから。
――泣いて叫んだところで、世界は決して変わったりはしないと!!
(駄目だ……。目が霞んで何も見えない……)
視界が徐々に暗転し、恐怖と怒りに我を忘れる。
煙が周囲に立ち籠めていようと関係ない。
理乃は勢いよく立ち上がり、野獣のごとく咆吼した。
「何処だぁぁあ。出て来ぉい、イチカー!!」
まるであの男(父親)みたいだ。
本当はあの人も、こんな風に幼子みたいに震えていたのだろうか?
呼び掛けの答えに、平手打ちが返された。
視界がじんわりと、光と色を取り戻してゆく。
薄暗い世界に理乃が見たのは、髪が解れ、醜く煤だらけに汚れた戦友の姿であった。
しかし不思議と其処には、厳しい現実に調和した荘厳さが感じられた。
華隠は、平手で理乃の正気を呼び覚ますと、胸ぐらを掴み、声を潜めて叱責する。
「ここに居るのは、端からあちしと理乃の二人。好い加減、正気に戻るだわさ!!」
怒鳴られないだけ、胸に深く響いた。
理乃は膝から崩れ落ち、その場にガックリと跪く。
華隠は、一瞬でも熱くなった自分が恥ずかしく思えて、仏頂面で背中を向けた。
黒板側へと数歩と歩いて、すごすごと床板を引っ剥がすと、その場に腰を落ち着けて、大筒の組み立てに専念する。
(みっともない……!!)
華隠は無言で自分を叱りつけた。
理乃が冷静で居られないのはよく分かる。
今も、ヴォルカノンを組み立てる指先が、微かに震えているくらいだ。
イチカの特訓期間は、およそ一ヶ月。
駆け出し忍者の彼女に出し抜かれるだなんて、これまで修業してきた9年間は、無意味だったとでも言うのか?
――そんなこと、到底認められない!!
長い沈黙を挟んで、華隠は不機嫌さを隠そうともせず愚痴を零す。
「さっきまで落ち込んでたと思ったら、いきなり叫び出すとか……。ホント、らしくもない事ばかり……。いったい何があったんだか……」
こんなに寂しい想いをしたのは、死別した母親から引き離されて、忍術学園の職員寮に引き取られて以来だ。
その職員寮も、学園卒業と同時に居場所を失う。
これ以上、たった一人で戦い続ける事など出来なかった……。
組み立て作業を続ける華隠に、理乃は途切れ途切れに告白する。
「ボク……、他人を見付けるの、ホントは無理なんだ……。だって、だって……」
――もう引き返せない。
長年、隠し続けて来た秘密を、理乃は哀しげに呟いた。
「だって僕の瞳は、もう、ほとんど機能してないんだから…………」




